日本の酒を訪ねて



 
  名 称 熊澤酒造
  所在地 神奈川県 茅ヶ崎市
天青の巻
五十嵐哲郎氏
ぽっちゃりとした頬をした好青年・五十嵐哲郎氏は、
神奈川県茅ヶ崎の銘酒「天青」の杜氏である。
いつも地酒の勉強会でお会いしては、彼の真面目な人となりに触れ、
酒質が毎年向上している理由が解るような気がしていた。

いつでも行ける距離だと思うが故、
なかなか決心がつかなかった熊澤酒造訪問だが、
お店がひと段落したこともあり、やっと行く決心がついた。

東海道線に揺られ、寝る暇も無いほど近い茅ヶ崎駅に降り立ち、
相模線でチョイと数駅。最寄りの香川駅から徒歩5分で、
洋風酒蔵をイメージさせる蔵にたどりつく。

到着するやいなや、五十嵐氏が声をかけてくれた。
以前とは比較にならぬほどスッキリとした顔立ちをしていて、
一瞬誰だか解らない。
10歳は若返ったと冗談で言っているが、
たった数ヶ月で15キロも激痩せするなんて半端ではない。
優しい笑顔の裏で、恐ろしいほどストイックに旨い酒を追求しているのだろう。
熊澤酒造は明治5年創業で、かなりの歴史がある蔵元なのだが、
地元ではあまり評価の高くないお酒を造っていたという。
これではいけない!と奮起した若社長と五十嵐氏が5年ほど前に蔵を縮小し、
新ブランドの「天青」を立ち上げた。
もともと2000石の蔵が500石まで落とすのは並大抵の決心ではあるまい。
若い情熱家だからできた、志の高い決断だったのだろう。
蔵の内部は素人目から見てもシンプルそのものだ。
こじんまりとした蔵内で、まず目にしたのが古びた自動洗濯機。
どこぞの潰れた蔵から安く譲ってもらった、レトロな中古洗濯機だ。
浸漬用の袋は、10キロ単位の手作業でやる小さな蜜柑ネット様で、
手間暇を惜しまぬ姿勢が伺い取れる。

仕込み水は、丹沢に降った雨水が伏流水となって、
70年もの歳月をかけて蔵下の井戸目掛けて流れてくる。
ミネラル分が豊富な優良水だという。
農協ルートからだと良い酒米が入らないという厳しい環境下の中、
3年ほど前から兵庫の山田錦、福井や富山の五百万石を
自らの足で取り寄せられるようにした。
酒母 どうやら、天青こだわりの9号酵母との相性の良い酒米らしい。
奥に進んでいくと、泡がタップリと吹き出た
「酒母」を見せていただいた。

今時珍しい泡アリ酵母を使い、飴と鞭を使い分けて強い酵母を作り出す。
上手に温度管理をし、泡の状況を見ながら、
ジックリとジックリと鍛え上げる。
目に見えぬ小さな酵母たちだが、
まるで自分の息子を育て上げるかのような眼差しで、
五十嵐氏は見ていた。

蔵の心臓部とも言うべき麹室に、ご好意で入れていただいた。
2部屋に分かれた室は、湿度の高い方で「もやし」を振り、
手作業で慣らしていき、二つ目の部屋で表面を乾かし、
米の中心部への菌の進入を促す。
貯蔵庫
出来上がった麹は、五十嵐氏考案の台車で直ぐ傍のタンクまで運び込み、
「強い酒母」と合わせてさらに発酵させる。
非常にシンプルで、ここまで合理的なつくりの蔵は初めて見たかも知れない。
若者のアイデアの詰まった、手作り感に満ちている空間に感動である。

一通り蔵を見終われば、当然酒が欲しくなる。
蔵を改装して造ったという和風レストランに入ると、
まずは「湘南ビール」で喉を湿らせ、蔵元直営店でしか味わえぬ「にごり酒」、
天青をシェリー樽で寝かした古酒、初めて口にした「湘南吟醸」
・・と、いろいろ飲むが、やはり天青は特本が旨い。〔抜けるような青さ〕
という表現がぴったりの、爽快感のある茅ヶ崎らしい美酒だ。

吟醸粕に漬け込んだ牛ヒレ焼きにこの特本を合わせると、背筋がゾクッとするほどの感動を得られる。
蔵元直営店ならではのこだわりの逸品に脱帽だ。
地酒への情熱を注入された後、
その酒を飲ませる為だけに作られた、手の込んだ料理と一献、また一献・・
こんな素晴らしい週末を送れるなんて、なんて幸せなのだろう。
熟成酒粕 ほろ酔いのまま店を出て、
蔵内にあるパン屋で美味しそうな
クロワッサンと無花果オレンジパンを購入した。
バター香が弾ける艶やかな極上パンをバッグに詰め込み、
後ろ髪をひかれる思いで家路についた。

翌朝、ウキウキでパンの入ったバッグを開けようとすると、
チャックの横に大きな穴ぼこが空いていた。
自宅に住み着くネズミがバター香を嗅ぎつけ、
狂ったようにカバンを貪り食っていたのだ。
ウチのネズミをも悩殺してしまう熊澤酒造
・・恐ろしい蔵元の一つである。
2005年2月   バーシー石橋

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