古今東西名優列伝

                           
寛濶役者 坂田藤十郎 (1) (前編) 
                                        杉下賢三

          初代坂田藤十郎は「寛濶役者」である。「寛濶役者」という語を「広辞苑」で引くと、「・ゆったり
        としていること。寛大なこと。度量の広いこと。・気性の華美なこと。派手。だて。」とある。
         浮世草子作者の江島其磧は、藤十郎が宝永六年(一七〇九)に没するや、その伝記の一部
        を小説風に表し、正徳元年(一七一一)に「寛濶役者片気」を発刊した。元々、藤十郎を追善す
        る意味で書かれたものだから、藤十郎の死にまつわるものが多いのも当然だが、その中で其
        磧は「寛濶」の二字を以て藤十郎の生涯を言い表している。それは彼を表すに最も簡潔かつ要
        を得た評語と言えよう。 
         では、その彼の生き方の寛濶ぶりをみてみよう。元禄五年(一六九二)頃刊行の役者評判記
        「役者大鑑合彩」には、「役者めかぬ風俗。しゃんとして軽い仕出し。かまはぬやうで、又さはな
        し。派手なる事が嫌いやら。髪の結ひやう、月代の剃リやう、額のぬきぎは、着物の染やう、い
        かな大臣衆も此人の風儀、学びても苦しかるまじ」とあり、また、貞享四年(一六八七)正月刊
        行の役者評判記「野良立役舞台大鏡」には、「諸芸巧者にして、狂言も作らるれば、まづ文盲に
        はなさそうな……」とあるところなどから、彼には「お大臣(尽)」のように、ゆったりとしていて、
        おおどかで、度量の広さがあったこと、人品のよさ、趣味の高尚さ、さらには文筆の素養もあり、
        歌舞伎の狂言本も自作し得る教養の深さがあった事等が知り得よう。中でも彼の人格の高潔
        さは、当時の役者の殆どが免れ得なかった、所謂「芸人気質」を嫌った点に伺える。藤十郎とほ
        ぼ同時期の上方の立役役者、染川十郎兵衛が当代名優について語った芸談を、狂言作者でも
        あった東三八が書留めた「賢外集」の中に、「坂田藤十郎は『歌舞伎役者は幇間とは違うのだか
        ら、他人の御機嫌を伺ってばかりいるようでは芸達者な役者にはなれない。そんな卑しい根性
        では、いずれ、役者同士の付合いまで疎遠になってしまうものだ。』と、若い者たちに、いつも話
        しておられた。」とあり、また、安永三年(一七七四)五月刊行の歌舞伎劇書「役者全書」の中に
        も、「初代坂田藤十郎は『若い時分、私は決して料理茶屋へ出かけなかった。盛り場へ行けば、
        そこに来ておられるお客が、知り合いになりたいと言ってくるに違いない。それを断われば、相手
        の好意を損ねることになってしまう。だから盛り場へは足を向けなかったのだ。元禄の末頃になっ
        て、是非なく四、五軒の料理茶屋へ一度ずつ行ったが、二度とは行かなかった。なぜかと言うと、
        歌舞伎役者が幇間のように遊所の座敷に侍って、お客の御機嫌をとるような卑しい精神であれ
        ば、とても生涯を芸にかけて名を成す事など出来ようはずがないからだ。」と、いつも若い役者た
        ちに教訓しておられた。」と述べられている。これは自らの品行を慎むという事よりも、芸に命を懸
        けた者の矜持と、俗事に関わる事によって自らの芸を疎かにする事を恐れたからだろう。
         藤十郎は、このように自重心があると共に、極めて鷹揚でもあった。また、彼の優れた趣味は
        彼をして風流人たらしめた。そして其の藤十郎の風流と鷹揚さは彼の生活を豪奢たらしめた。従
        って、藤十郎の一代は豪奢と風流との逸話でもって満たされている。

                                                       (つづく)
 
               古今東西名優列伝

                          
 寛濶役者 坂田藤十郎 (2) (前編) 
                                         杉下賢三


         先ず、豪奢な彼の生活ぶりについて、前述の江島其磧の「寛濶役者片気」にある話から見てみ
        よう。「藤十郎が未だ未熟な立役で、一年の給金が三十五両ほど取っていた時分は節季の勘定
        も心配なく、僅かな借金も延ばしてもらって、快い春を迎えていたのだが、或年、夕霧狂言が大 
        当りして以降、給金が一年ごとに上って、年八百両まで取る高給取りになるにつれて、次第に暮
        し向きの方が苦しくなった。始末屋の台所人が『こんなになったのは、貴方の贅沢が過ぎるせい
        ですよ。昔の豊かな生活を思い出され、万事控え目になされませ。』と心を込めて意見したところ、
        藤十郎は笑って、『私が今、千両に近い給金を取るような身分になったのは、自分のこの始末し
        ない心からだ。世の中に名が知られ、三ヶ津の芝居で名人と呼ばれる者は、気が大きく、細かな
        事を聞きも見もせぬものだ。これが立派な男の”役者気質“というものである。』と言って、益々朝
        夕贅沢な生活を止めようとしなかった。一度洗濯した小袖は着ることなく、夜、蝋燭の光より外、
        油火などを居間に点さず、普段の食事にも魚や鳥のおかずがなくては飯を食わず、食後には濃茶
        を一服きまって飲み、高価な伽羅の木を燃やして酒の燗をするなど、ますます贅沢三昧に暮した。」
        とある。多少の文学的潤色はあろうが、彼の豪奢な生活ぶりは、実際このような類であったろう。
        このことは又、彼の住居の様子をえがいた「賢外集」の一節を読めば、「寛濶役者片気」の話が、
        あながち誇張ではないことがわかろう。「坂田藤十郎を囲んで稽古をする時は、決って藤十郎の
        家へ集まったものである。ある時、新しい芝居の稽古に、相手役の女形の水木辰之助や山本歌
        門、狂言作家の金子吉左衛門らが一緒になって藤十郎の家へ出向いたことがあった。朝食時は
        過ぎていたが、まだ藤十郎は休んでいるらしく、次の間で待っていると、間もなく目覚めたのだろ
        うか、戸の開く音や手水を使う音などが聞え、座敷を掃除している様子もうかがえる。暫くして『こ
        ちらへ』と言われて座敷へ通ってみると、藤十郎は茶筅髪で煙草盆を携え、緞子の布団に座って
        いる。さて、互いに挨拶が済むと、藤十郎は『今度の新しい芝居の台本はよく出来ているとのこと
        だが、どのような趣向か。』と、台本の粗筋を尋ねられる。こうした稽古の間、毎回、女形には一日
        中ご馳走を振舞われ帰されるのが常であった。料理の献立も藤十郎自身で考え、通常の女性の
        食べ易いように取合せを工夫し、女形に接する態度も、やはり女性に対するのと同じ気持ちで話
        などもされていた。」とあり、藤十郎の生活の豪奢ぶりが活写されているのだが、それと共に、この
        話で忘れてならぬところは、後半の藤十郎の女形役者への心の籠った心遣いの部分である。舞
        台での相手は、普段からの相手であるとし、女房や恋人に対してと同じ心遣いを身をもって示す、
        こうした思いは相手の女形にも移っていくのであって、それが舞台にも現れる。藤十郎は、そうい
        う気持ちを自らも養い、相手にも養わせる目的で、このような計らいをしたのであろう。このように
        藤十郎の場合、一個人としての藤十郎と舞台上の藤十郎とは、平常から密接な関係が、それも
        かなり意図的に計られていたものと思われる。  
                                                       (つづく)
         
              古今東西名優列伝

                 
     寛濶役者 坂田藤十郎 (3) (前編) 
                                         杉下賢三


        今一つ、藤十郎の豪奢な生活ぶりをあらわす逸話を「賢外集」から拾ってみよう。「坂田藤十郎が
       高い給金を取って大坂の芝居に出演することになった時(伊原敏郎は、藤十郎の生涯中四回の下
       坂のうち、最後の元禄四年時の事としている)、京都から樽詰にした水を取寄せ、飯米を一粒選り
       にさせたのを食べていた。その事を見聞きした人達は『藤十郎は相当な贅沢者だ。』と噂した(「興
       がる奢ものかな」と専ら噂ありし事)。その話を聞くともなく耳にした藤十郎は、ある人に逢って『お米
       に混じった砂を噛んで歯が欠けたりしたらその隙間から息が洩れて、舞台のせりふが聞こえにくくな
       りましょう。また、日頃から飲みつけない水を飲んで腹でもこわし、一日でも舞台へ出られなくなった
       ら、私を高給で抱えて呉れた芝居主に義理が立たなくなります。このように身持ち養生に心掛けて
       いて、なお且つ健康を害うのであれば、それは已むを得ません。だから、このようにさせるのです。』
       と言ったという。」食物に贅を尽す藤十郎の話は、元禄六年刊行の井原西鶴の「西鶴置土産」の中
       にも「人の心ほどさまざまで、これほど身の振り方の変っているものはない。役者の坂田藤十郎が
       懐具合も考えずに(内證かまはず)、一羽に銀十枚(今の三十四、五万円位)出して、大津の鶴を買
       い、普段呑む酒の吸物にしていた。」という記述があり、当時、かなり有名だった事が判る。「内證か
       まはず」食物に贅を尽す藤十郎に対しての「興がる奢ものかな」という此時の噂は、流石の藤十郎
       の身にも、かなりのショックを与えたであろう。それだけに、自らの「心得」が生み出した旅興行での
       食養生を「奢もの」と沙汰されることに、藤十郎自身、濡衣を着せられたような釈然としない思いを抱
       いたのであろう。それが歯切れの悪い弁解となって現れたのかもしれない。
        一方、藤十郎が風流なる気品を備えていたという逸話にも事欠かない。これも、「賢外集」にある逸
       話だが、「坂田藤十郎が、或時、祇園町の心安くしている料理屋へ行き、『こんな立派な座敷がある
       のに、茶室がないのは、どうしてですか。』と尋ねると、亭主が言うのには、『いや、その事なんですが、
       私も何とかして建てたいと数年前から願っているのですが、いささか、そうはいかない事情がござい
       まして…。』と答えた。そこで藤十郎が『いくら位かかるのですか。』と尋ねると、亭主は『五十両ほど
       かかりましょう。』と答える。そこで、藤十郎は『その位ならたやすい事です。そのお金は私が都合し
       ますので、早速茶室をお建てなさい。』と言って帰っていった。それから懇意にしている人に『金五十
       両借用申したし』と手紙で書き送ったところ、早速、依頼した相手が金を調えて、手代が持って来て
       くれた。その時、藤十郎は『どうせの事なら、お世話ついでに、これを一歩金に替えて下さいまし。』と
       頼み込み、全部を一歩金にして貰った。そこで藤十郎は、奉書紙を二枚出させて、それを”お捻り“
       にして、例の料理屋へ行き、右の一歩金五十両を袂から取出して亭主に渡したのであった。
        さて、かの金を調えて呉れた人が、二、三日して藤十郎の家にやって来た時、藤十郎は、今迄の
       一部始終を有りのままに話した。その時、金を貸して呉れた人が『それなら別に、一歩金に替えなく
       ても構わんでしょう。』と言うと、藤十郎は『袂から出して人にあげるお金が小判では、下品でよろしく
       ない(下卑てよろしからぬ)と思い、それ故、一歩金に換えていただき渡したのです。』と言った。」と
       いうのである。郡司正勝は、この点について、「茶屋にやる金だから、小判では卑しいという感覚。
       もっと軽く扱うのを粋とする。」(「歌舞伎十八番集」)と述べているが、麗々しく小判を渡せば「金をや
       る」という仰々しさが表に立って、如何にも大尽風を吹かす成金のような品の悪さがあると共に、そ
       れを受取った方も、いわれもなく大金を恵まれたという精神的負担が大きくなるに違いない。それで
       は「下卑てよろしからぬ」のである。藤十郎は、一歩金を”お捻り“にして、心付けとして渡したのであ
       る。藤十郎は、そうした洗練された感覚を持合せていた。
                                                        (つづく)
       
               古今東西名優列伝

                              
寛濶役者 坂田藤十郎 (4) (前編) 
                                               杉下賢三

        

        さらに、今一つ、又々「賢外集」にある話である。「幕府関係の高位の人の葬儀の為に、芝居が閉
       鎖されていた時のこと、藤十郎は懇意にしている一座の女形二、三人に、供の者を連れて、近江国
       の石山寺へ遊山に出かけた。酒盛りをしていると、向うの方に格式の高いお武家様と見受けられる
       方々が、お忍びで石山寺に御参詣なさったのであろうか。御近習を含めた五、六人の若いお侍様と、
       その外にお供が、上位の者、下位の者併せて十二、三人の方々が酒宴をされていた。暫くして、そ
       の中の一人の若いお侍様が『そこに居るのは藤十郎ではないか。酒一献振舞いたい。』と声をかけ
       て来られた。藤十郎は『有難き仕合せ』と、早速そのお武家様の幕の内に参上して、お酒を頂き、あ
       れこれとお話申し上げ、大層良い御機嫌で、かなりの時を過ごされた。日も西に傾いて来たので、『
       明日から又芝居を始めますので、そろそろお暇致しとう御座います。』と、別れの挨拶を申し上げ、連
       れの役者たちが居る元の席に戻った。程なく若い侍が走って来て、『何なりと欲しい物があれば言い
       なさいと仰しゃっておいでです。』と言う。藤十郎は『別にお願いするような物も御座いませんので、御
       好意に感謝致している旨、お伝え下さいまし。』と申すと、重ねて『それでは却って御機嫌を損ねる。
       何でも構わぬから、どうしても言いなさい。』と、無理にでもとの事であった。『それならば、お幕の側
       に生えて居ります松の木を頂戴致しとう御座います。』と言って、直ちに皆々駕籠に乗って京都へさし
       て戻っていった。それから数日後、そんな事があったことなど、すっかり忘れていた或日のこと、藤十
       郎の屋敷の前で大勢の人の声がする。何事が起ったのかと思って、台所の使用人に聞合せると、『
       松の木が来たのです。』と言う。藤十郎は、家を間違えたに違いないと思っていたところ、『藤十郎さん
       のお宅は此処ですか。』と松の木を運んで来た人足の親方が入って来て、『いつぞや、石山寺に於て
       約束した松の木を届けさせる。』という贈り主の伝言を述べる。それで、やっと思い出し、先日お願い
       申して頂戴する事になった御武家様からの贈り物であろうと思い当りはしたものの、お名前も知らぬ
       方。ともかく、恐縮している。との旨を親方にことづけて帰らせた。そして思うことに『私が、この松の木
       を大層欲しがっているとお思いになって贈って下さったのだ。有難い事だなぁ。身分の高い裕福なお
       武家様とは判断したが、小ぶりの木どころの話ではなく、大木である上に、お寺に届けて許可を得な
       ければ勝手に引抜く事はお出来にならないだろうに。さてさて有難い御志だなぁ(扨々有難き御ここ
       ろざしかな)。』と感激し、『早く庭に植えなさい。』と言付けたが、庭先の入り口が甚だ騒しい。『どうし
       たんだ。』と尋ねると、『先程の松の木が塀につかえて入口に入りません。』とのこと。藤十郎は、それ
       を聞き、『何とまあ、馬鹿馬鹿しい事だ。つかえて入らないのなら塀を壊して入れるがよい。塀は後で
       作直しておけば、それで済むことだ。』と、召使いの男たちを叱られた。たまたま、此時、金子吉左衛
       門が居合せ、上手の名を得た人の心は別であると、すっかり感じ入り(上手の名を得し人の心は別な
       りと、ほとんど感じ)、この事を人々に話した。」とある。藤十郎の心の広さを物語る逸話である。
        恐らく、藤十郎が京の「ふろや町」(当時、京都には「風呂屋町」という町名は四、五ケ所みられるが、
       藤十郎邸があった「ふろや町」は、現下京区河原町通四条下ルの「順風町」の事と思われる。ここは、
       江戸時代を通じて「ふろや町」と呼ばれて居た所で現「高島屋京都店」あたりと推定する)に居を構え
       た元禄末年以降の話であろう。この頃、藤十郎は五十歳半ばを過ぎていた。それは又、松の大木を
       植えてもおかしくない程の広大な庭のある邸宅であったに違いない。松の木を運び入れるために、
       その邸宅の塀を壊せばよいと藤十郎は言う。この場合、それは、物惜みをしないとか、贅を尽すとい
       った彼の性格の故にではない。その「御大身」の贈り主の「有難き御こころざし」を受止め、それに報
       いようとする心の広さの故である。通常、「河原者」と蔑視されることの多かった役者風情に対する約
       束を無にする事なく、しかも普通では入手し難いはずの寺域の大木を贈って呉れた「御大身」の真摯
       で、おおらかな、そして人間的な態度に感動したのである。それも、藤十郎が所望した松の木は、多
       分に無責任な彼の発言から生じたものである。その証拠に、藤十郎は松の木を所望したことを忘れて
       しまっていた。「やうやう思ひ出せり……存当り候。』という忘れ去っていた松の木なのである。その松
       の木を若い「御大身」は忘れてはいなかった。そして、身分の差を越えて、入手に関るさまざまな煩わ
       しさを克服して、藤十郎に「所望」の松の木を贈ったのである。藤十郎は、その「有難き御こころざし」
       に感じ入り、塀を壊させた。そうした藤十郎の姿を見ていた、吉左衛門は「上手の名を得し人の心は別
       なりと、ほとんど感じ」入ったという。一方の豊かな心を、今一方が感じ取り、一方の大きな度量を、今
       一方が見事に受け止め得るということは、双方が同じ豊かな心、大きな度量を持っているからだと吉
       左衛門は思った。そしてそれこそが風流心というものだと思ったに違いない。「上手の名を得し」藤十
       郎は、こうした風流なる気品と度量の大きさを持っていたからこそ、彼が得意とした傾城買いの大尽
       に扮して成功したのである。彼の風流男、藤屋伊左衛門は、実に藤十郎自身でもあった。ともあれ、
       彼自身、役者は趣味の涵養によって、演技の肉付けをしなければならないと考え、自らの生涯を豪
       奢と風流によって満した。そのことが、藤十郎をして寛潤な元禄ぶりの象徴となし得たのである。                                 
                                                       (つづく)

                    古今東西名優列伝

                              
寛濶役者 坂田藤十郎 (5) (前編) 
                                           杉下賢三


        さて、初代坂田藤十郎は、正保四年(一六四七)に生れた。(一説に、正保二年、或は三年生とも
       いう)替名は伊左衛門(この替名は、元禄十六年刊行の役者評判記「役者評判色三味線」に、れ
       彼の住所や給金と共に紹介されているところから、其の頃から用いられていたものと思われる)。
       俳名は冬貞、車漣とも言った。祖先は越後の出身というが、父の坂田市左(右)衛門は、京都の劇
       場の座本であった。藤十郎の青少年期の事については、極めて曖昧で、誰について役者修業した
       のかさえ、実はよく判らない。ただ、彼が能の小鼓の名人であったほねや庄右衛門のもとで鼓を習
       ったことと、二十余歳の頃に、当時花車形として活躍していた杉九兵衛について、技芸の秘訣を問
       うた事とは、藤十郎や近松門左衛門と親交があり、道外方の名手で、狂言作者も兼ねた金子吉左
       衛門が書き残した「耳塵集」によって伝えられている。
        先ずは、ほねや(骨屋)庄右衛門と、藤十郎との関係の逸話であるが、大坂の道頓堀で勧進能が
       あった時のことである。「京都からほねや庄右衛門という小鼓の名人がやって来て、三番目物(鬘
       物、女能)の鼓を打つというので、多くの聴衆が集まった。その初日、むろん上手だとは思ったが、
       さして見事な出来ではなかった。藤十郎は、この庄右衛門の弟子で、殊に懇意にしていたので、楽
       屋見舞方々舞台を見ていたが、人々の評判を聞くと、その夜、早速に庄右衛門の旅宿を訪れ『今度
       の能で、大坂の人たちが挙って期待しているのは貴方お一人です。だのに、聴衆の評判は、良くも
       悪くもないといった程度です。何かお考えでも……。』と尋ねると、庄右衛門は『御安心下さい。明日
       からは誉められるように致しましょう。』と答えた。二日目は、その言葉通り大好評で『日本一の上手
       だ。』と人々が誉め称えた。藤十郎は再び庄右衛門の所へ出向き、『今日の評判はすばらしい。どう
       いう心得で鼓を打たれたのですか。』と尋ねたところ、庄右衛門は、『初日は慎重に考え、貴方がお
       芝居をなさると同じように、見物衆の評判を気に掛けず、正確に鼓を打ちました。今日は誉められよ
       うと思って、少々外連(ケレン)味を加えました。それで客席も沸いたのでしょう。誉められようとする
       のはた易い事です。難しいのは鼓を正確に打つ事です。』と語った。」とある。藤十郎は小鼓の技芸
       ばかりでなく、庄右衛門から名人芸の心構えを修得したのである。
        次に、今一人「舞台百ヶ条」という芸談を遺した老練の名優、杉九兵衛からも教えられるところが多
       々あったという。「藤十郎が二十歳を過ぎた頃、彼(杉九兵衛)の所へ行って教えを乞うた事があった。
       その時、九兵衛は、『私は花車形だから、心掛けて女の真似をするようにしている。貴方は立役だか
       ら、せいぜい男の真似をするようにしなさい。今の立役の演技を見ていると、男らしい姿の出来る立
       役は殆どいない。それらは勿論女形でもないので一向に正体が定まらない。今後出来るだけ男の様
       子を模倣することです。』と言われた。藤十郎は、この教えを大切に考えて、芸の修業に励んだ。」と
       いう話も「耳塵集」にある。ここから考えられることの一つは、当時未だ前期の「若衆歌舞伎」の残滓
       として、美色と歌舞とによって観客に媚を求めようとする役者が立役の中にも数多く存在した、それを
       九兵衛が戒めたこと、二つには、写実の勧めである。女形は現実の女を模倣し、立役は「随分男のま
       ねを致されよ」と示唆したこと。藤十郎は、これらの教えをもとに工夫を積み、写実芸の修業に努めた
       のである。
                                                      (つづく)


                古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (6) (前編) 
                                          杉下賢三


         さて、藤十郎の芸歴として知られている最初のものは、彼三十歳の延宝四年(一六七六)七月に
       刊行された役者評判記「芝居品定下可盃」の「可盃惣論」の中に、「藤十郎が一つかみにしたる芸、
       兄さまめいたるおとこぶり」と、その名が見えて以後、同年十一月、京都の縄手芝居の「滝口」とい
       う芝居に出勤。後々、藤十郎の終生のライバルとなる山下半左衛門(後に、京右衛門)と共演し、大
       評判を得たことである。元禄十三年(一七〇〇)刊行の役者評判記「役者三所世帯」の中に、「藤十
       郎、半左衛門は、角前髪、きらびやかなる若者にて、斎藤の滝口に藤十郎、越中の次郎兵衛に山
       下(半左衛門)、双方互角の狂言。末頼もしき役者と京中の評判。」とある。次いで、延宝五年(一六
       七七)、藤十郎三十一歳の冬、大坂へ下った彼は、翌六年の二月三日から、道頓堀の金子六右(左)
       衛門座(荒木与次兵衛座とも)で、初めての夕霧狂言として、「夕霧名残の正月」を上演。藤十郎は
       主役の藤屋伊左衛門を勤めて、大喝采を博した。夕霧役は、谷嶋主水であったという(霧波千寿とも)。
        夕霧は、世に名高い京都島原の名妓であったが、寛文十二年(一六七二)、大坂に下り、新町扇
       屋四郎兵衛抱えとなって、益々全盛を誇ったが、延宝五年の秋ごろから病を得、翌六年の正月六日
       に病没したのである。当時、上方の芝居小屋の慣習として、正月の初狂言に続く二の替り狂言には、
       現在の際物を短い一齣物に仕組んで、年の若い役者に演じさせて、修業の手段とするのが通例で
       あった。そこで、この夕霧の病死が到る処で話題に上るのを当込んで、藤十郎は、この夕霧をヒロイ
       ンとした狂言に仕立て、しかも、自ら異例とも言うべき主演もして大当りをとったのである。この時の
       「夕霧名残の正月」という狂言台本は、今日に至る迄伝っていない為、その粗筋さえも知る事が出来
       ないが、元禄十年(一六九七)、京都の都万太夫座で再演された時の狂言本(夕ぎり七ねんき)や、
       宝永元年(一七〇四)三月、同じ万太夫座で上演された時の芸評、さらには、正徳二年(一七一二)、
       近松門左衛門が作って竹本座で初演された浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」の台本などから推察するに、所
       謂、やつし、濡れ、口説などを含んだ傾城事の狂言であったようである。作者も未詳である。近松門
       左衛門が藤十郎のために書いた狂言だとする説(河竹繁俊)もあるが、そうではあるまい。むしろ、
       元禄十一年(一六九八)十一月刊行の「三国役者舞台鏡」という役者評判記の坂田藤十郎の項の中
       での「夕ぎりの類なんどは奇妙にしぐまるる」という記述が、この時の「夕霧名残の正月」をも含んで
       いるとすれば、藤十郎の自作自演の可能性を推測し得よう。周知の通り、此の度の藤十郎の藤屋伊
       左衛門役は、彼にとって出世芸となったばかりでなく、以後、再演、続演が重ねられ、藤十郎の一代
       の当り役となるのである。この辺りの事については、「耳塵集」に「延宝六年の正月に、大坂新町廓
       の名妓扇屋の夕霧太夫が亡くなった(享年二十二歳)。そこで、同じ年の二月三日から『夕霧名残
       の正月』なる外題で、坂田藤十郎が藤屋伊左衛門という買手の役を勤めた。此の時、藤十郎は三十
       二歳であった。同年六月、再び所望されて此の狂言を演じ、また同年十月二日から二十九日迄、再
       々演を行い、大入りであった。
        さらに同年十二月中頃より、この狂言を上演したが、これは来る正月二日から夕霧一周忌を催すた
       め、人々に夕霧の事を思い出させようと上演したものである。一年の間に同じ狂言を四度も上演され
       た事は、恐らく、これが最初で最後であろう。宝永六年十一月一日に藤十郎が六十三歳で没するの
       だが、初演の延宝六年から、没年の宝永六年迄の三十二年の間に、この『夕霧名残の正月』という
       狂言は、夕霧の一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌、そのほか、この狂言を繰返し上
       演された事は十八度に事は十八度に及んだ。これまた珍しい狂言である。」と述べられている。
       これ程まで、夕霧狂言が繰返し演じられ、しかも毎回大当りをとったのは、一つに藤十郎のやつし事
       の演技の卓抜した素晴しさを挙げ得よう。藤十郎は、後に「都名物男。当流濡れ事の開山、やつし事
       の名人、傾城買は古今似た人もなし。」(「役者略請状」)などと役者評判記で称えられた役者であ
       る。惚れた遊女の許に、やつし姿で遊びにやってくる嫖客の演技が極めて巧かったというのである。
       この時期の夕霧狂言の面影を偲ぶことが出来ると言われる後世の「廓文章」などによると、伊左衛
       門は、藤屋という大店の惣領息子であったが、遊蕩のため家を勘当されている。その伊左衛門が古
       編笠に紙子姿で寒風の吹く中、恋しい遊女夕霧の顔を一目見ようと廓へやって来るのである。元は
       絹物を身につけ、何不自由のない跡継ぎ息子が見窄らしい姿に変って現れる。それを「色事のやつ
       し」と言った。この「やつし」については、乗岡憲正のフォークロア的分析による卓越した見解がある
       (「古代伝承文学の研究」)ので、詳細はそれに譲るとして、乗岡は、その著の中で「零落した主人
       公のやつしを演ずる場合、昔の気位がほのかに見えるように演ずるという事が、役者の芸の見せ所
       とせられていたらしいことは、やはり貴種の流離苦難の果てに転生する古い語り物に深く根ざす古代
       宗教意識的な流れの上に、徐々に劇術として成長を遂げた約束事であったと見ることができるであ
       ろう。」と述べているが、卓見であろう。また、そうした歌舞伎劇における「色事のやつし」の約束事こ
       そ、初代嵐三右衛門の「やつし」を経て、藤十郎の伊左衛門によって結実を見たものであった。それ
       は、元禄十五年(一七〇二)三月刊行の役者評判記「役者二挺三味線」に、「先以、紙子姿のやつし
       一流有ておもしろし。此度四番めに素紙子にてあげやへ来らるるさま、姿おちぶれて見ゆれ共、さす
       がむかしの大臣そなはりてよし。」とあり、今は零落した姿ではありながら、昔は身分のある大店の
       若旦那としての、滲み出る品の良さ、鷹揚さ、色気、そして多分の滑稽味、それが藤十郎が極めた
       「やつし」の典型であったからである。

                                                       (つづく)


            古今東西名優列伝

                        寛濶役者 坂田藤十郎 (7) (前編) 
                                          

      
        言う迄もなく、藤十郎の伊左衛門像は、一朝一夕に作り上げられたものではない。技芸の末節に
       至るまでの藤十郎の細密な注意と苦心の積み重ねがあったのである。そうしたエピソードの一つが
       「賢外集」に見える。それは、「傾城買の芝居をやらせては、藤十郎の右に出るものはいなかった。
       或年のこと、その藤十郎が夕霧の芝居に、主役の藤屋伊左衛門の役を勤めることになった。彼は
       『今度の芝居には、上草履が入用だから、早速注文しておくように』と命じた。ところが出来上がっ
       てきた草履を見て『これは大き過ぎる。作り直させなさい。』と言い付けたところ、買物方の男は『貴
       方の足の寸法を測って注文致しましたので、大き過ぎる筈がありません。』と言ったが、藤十郎は、
       それでも強引に『ともかく大きい。』と言い張るので、『では、どの位小さくしたらよろしいのですか。』
       と問うと、『一回り小さく』とのこと。急いで作直して惣稽古に間に合せたところ、その小さな草履を
       指で挟んで稽古をしている。初日も同じ事で突掛けて舞台に出ている。名前は忘れたが、楽屋口に
       居合わせた役者が見兼ねて『もし、草履にお足が入って居りませんが……』と声をかけたが、答え
       もなしに、そのまま舞台に出て行った。或人が、此事を不審に思って尋ねたところ、藤十郎は『今度
       は揚屋の庭で草履を脱ぐ場面があります。舞台に脱ぎ捨てた草履が大きければ、見物衆がそれを
       見つけられて、藤十郎の足は何と大きな不細工な足よと、思われてしまえば、もう色事師に扮して
       傾城買の芝居は出来なくなります(かさねて、傾城買の狂言はならざりし)。』と答えられた。」といっ
       た話である。傾城買に登場する男は、すんなりとした二枚目でなくてはならない。脱ぎ捨ててある
       草履から足の大きさが見破られては興醒めである。色事師に抱く観客のイメージが損なわれてしま
       えば「かさねて傾城買の狂言はならざりし」となるのだ。そこで草履一つにも見せる工夫が施される。
       こうしたところに気がつくかどうかが、名優と凡優の分れ目である。この話は昔からかなり知られた
       話だが、写実芸のパイオニアの如き藤十郎でも写実の限界というものはある、それが舞台芸だとい
       う所、傾城買の狂言だという所、など併せ見ての考え方なのである。
        貞享四年(一六八七)の春に刊行された浮世草子「新竹斎」の中に、前年である貞享三年時の京
       都の各座の座組が載っている。藤十郎は北側芝居(座本 岩本権三郎)の座中にあり、「是や、京
       役者随一、渡辺が鋼、公時といはば坂田藤十郎、武道は得たる所、やつし又双者なし」などと紹介
       されている。ところが、藤十郎の一代の事跡を辿っていくに、役者評判記に表れる藤十郎に対する
       位付けには、こうした名声にそぐわない屈折があるように思われる。貞享四年正月刊行の「野良立
       役舞台大鏡」という役者評判記での藤十郎の位付けは「中」と評定されている。貞享四年と言えば、
       前に述べた藤十郎の当り狂言ともなった「夕霧名残の正月」が上演され、大当りをとった延宝六年
       (一六七八)から九年が経過している。藤十郎四十一歳の年である。しかも、この評判記での京、
       大坂の立役の位付けでは、最高位の「上上吉」は、大坂の初代嵐三右衛門、ただ一人。次位の「
       上」の位には、山下半左衛門、竹島幸左衛門ら五人がいる。そうした中で藤十郎は、次々位の「中」
       なのである。その評言を見るに、「諸芸巧者で特に濡れ事、やつし事が上手。(当時、大坂の役者
       だった)山下半左衛門が上京して、藤十郎と共演した時など、両輪の役者と賞賛され、どちらが巧い
       のか、よく判らなかった程である。嘗て、大坂へ下って夕霧狂言で名を揚げたのは大きな手柄であ
       ったが、世間の評判は山下半左衛門の方を持て囃すので、この評判記も、それに倣って藤十郎を
       『中』の位付けにしたのだ。京都だけの評価なら、勿論『中』にする役者ではない。」とあり、さらに、
       藤十郎の演技の特徴を四項目にまとめて、次のように評している。「@やつし芸は、軽く自然な演
       技であるので、人ごとに過ぎるきらいがある。A諸芸巧者で、間合いが上手であるので自然と芝居
       が生きて見える。B傾城買の大尽になっては、その道の名手である嵐三右衛門と一座しても決し
       て引けはとらない。Cその芸振りは、ごつごつしたところがあり、せりふを言う時、枕詞などを多く入
       れたりして、兎角長過ぎになる傾向があるので、『三月に鰤を食う』ような心地がして、しつこいと感
       じる人もいる。」とある。これらの評言を見るに、藤十郎を「中」と評定した判断も、何か不自然で言い
       訳がましく聞こえ、特徴として揚げた四項目の評言にも前後に矛盾するような処もあって、十分説得
       力のある批評にはなっていない。ところが、元禄三年(一六九〇)十月、上方歌舞伎最高の名優と
       いわれた初代嵐三右衛門が亡くなってから、上方の役者の位付けにも変化が見えて来る。立役
       では、大坂の竹島幸左衛門、山下半左衛門、そして京都の坂田藤十郎が頭角を現してくる。元禄
       五年(一六九二)二月刊行の「役者大鑑」という役者評判記に至って、初めて上記の三羽烏が揃っ
       て最高位の「上上吉」を占めるのだが、その三人の順序は、半左衛門が巻頭、次いで藤十郎、幸
       左衛門の順となっている。藤十郎、四十六歳の時であった。その藤十郎が名実ともに京坂の劇壇
       の最高位を確立するのは、五十歳を過ぎて暫くしてからである。元禄十二年(一六九九)三月刊行
       の役者評判記「役者口三味線」で、藤十郎は、初めて立役の部の巻頭の「上上吉」に置かれた。
       続いて、半左衛門、そして上京中の江戸の立役中村七三郎、最後に、竹島幸左衛門の順になっ
       ている。以後、七三郎が帰郷後も、立役三羽烏といわれた、この三人の順序は変る事がなかった。
       藤十郎は、この時すでに五十三歳、老境に入ろうとする時期であった。位付けから見る限り、かな
       り遅い出世と言わざるを得ない。例えば、ほぼ同時代、江戸にあって、藤十郎とよく似た芸風で活
       躍した前掲の中村七三郎が、藤十郎没年の一年前の宝永五年(一七〇八)に四十七歳(四十四
       歳とも)で亡くなったにもかかわらず、初代市川団十郎を圧倒する人気と評価を、それもかなり早く
       から確立していたのとは違っている。その違いは明確である。七三郎は「万能楽」と称せられる程
       に、どの役も立派にこなした立役であった。ところが、藤十郎の方は、元禄五年(一六九二)刊行
       の「役者大鑑合彩」という役者評判記で、評者の一人が「ああ、ままならぬ浮世かな。年中夕霧が
       跡を弔はしておきたいまで」と嘆いたほど、傾城買の濡れ事では他を圧して勝れているが、「二腰
       を差しては、何とも合点がいかぬ風なり。」とあるように、武道事は不得手で、振事や拍子事、所
       作事にも難があった。いわば藤十郎の芸域の狭さが影響していたと言えよう。この事は、前掲の
       役者評判記「役者口三味線」で、藤十郎を立役三羽烏の巻頭に据える事を非難する一人の評者
       の次の発言に端的に表れている。「藤十郎には、傾城買の言ひ立てより外、さらに今迄変はりた
       る所作を見ず。何の故に巻頭に置かるるぞや。」と言う。まさしくこの批判こそ藤十郎への評価が
       低迷していた理由の一つだったのである。では、なぜに、元禄十年代になって、藤十郎の技芸が
       役者評判記の中で正当に評価され出したのか。興味ある問題であるが、後述する事にして、先
       へ進みたい。
 
                                                        (つづく)
       

               古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (8) (前編) 
                                          杉下賢三

             
         元禄元年(一六八八)から同二年にかけて、藤十郎は京都の都万太夫座に出勤。「大隈川源左
       衛門」という狂言で、タイトルロールの源左衛門役を演じ、続く「けいせい玉手箱」という狂言では、
       医者了伯役を演じた藤野和平とのせりふの遣り取りで大当りをとった。
         元禄三年(一八九〇)から同四年にかけては、高給をもって大坂に抱えられ、同三年には、道頓
       堀の角の芝居(座本荒木与次兵衛)で「夕霧十三回忌」を上演、谷嶋主水扮する夕霧を相手に、伊
       左衛門役の藤十郎は好演した。同四年には、同じ角の芝居(座本岩井半四郎)において、「堺大寺
       開帳」という狂言に、村山平十郎、唐松勝弥らと共に出演した。
        伊原敏郎は、その著「歌舞伎年表」に於て、前掲の「賢外集」の逸話、「藤十郎が高給にて大坂へ
       抱られ、京より水を樽に取寄しといふは、此の時なるべし。」と推察している。
        京に戻った藤十郎は、元禄五年(一六九三)には、村山平右衛門座の二の替狂言「当麻万燈供養」
       に出勤。藤十郎の傾城事の妙技もあって、当り狂言となった。
        そして元禄六年(一六九三)三月、四十七歳になった藤十郎は、京の都万太夫座(座本山下半左
       衛門)での近松門左衛門作、「仏母摩耶山開帳」に出演した。摂州摩耶山で十一面観音の開帳があ
       ったのを当込んで作られた此の狂言は、近松(四十一歳)が書き、藤十郎が演じた確証のある最初
       の作品である。
        又、廓物を取入れたお家騒動狂言としては最も早い時期のもので、此の狂言の成功がその後の
       「お家騒動もの」のパターンを形成したといえよう。藤十郎は此の狂言の中で傾城に馴染んで勘当さ
       れ、出奔した大名家の惣領六田掃部に扮して大喝采を博した。藤十郎がここで演じた「やつし」とい
       うシチュエーションは、当時の芝居では繰返し用いられている。その理由は芝居一編の構造に関係
       しているからである。
        元禄時代の上方歌舞伎の基本構造は、前に述べた廓物を取入れた上、中、下の三段からなる「お
       家騒動」である。その形を単純化して示すと、次のようなものになろう。〔上の段〕さる大名家に跡取
       りの長男がいる。彼には、許婚がいるが遊女に馴染んで放蕩している。一方、腹違いの次男がいて、
       その実母に唆されて、自分が跡取りになろうと長男を追い出す画策を巡らす。家老や重臣、家来たち
       は善悪両派に分かれて争う。(次から、藤十郎得意の「廓事、傾城買」の場面になる)〔中の段〕・長
       男は父から勘当され、みすぼらしい姿(古編笠を被り、紙子を着て現れるのが基本の型)で家を追わ
       れ、馴染んだ遊女に会いに行く。〈やつし事〉・遊女に逢って色めいたせりふを交しながら戯れる。〈濡
       れ事〉・二人は盃のやりとりをする。〈盃事〉・やがて、二人は仲が良過ぎて口喧嘩をする。〈口説事〉・
       仲直りをして一緒に踊る。〈所作事〉・そして、別れを惜しむ。〈愁い事〉〔下の段〕時を経て、忠義の家
       来たちの努力と犠牲で、長男の勘当は解け、次男や悪臣たちは退治され、乱れた秩序は回復する。
       こういう狂言を「お家もの」、或いは「お家狂言」と呼ばれた。そうした「お家もの」の中で「やつし事」は、
       その狂言の中心場面に置かれている。身分の高い人や裕福な人が一時的に身を落としている。前に
       も述べたが身を落としていても元の上品な地肌がどこかに透いて見えるといった微妙な演技表現が
       出来るなら、その役者は絶賛されるに違いない。藤十郎はそれが出来たのである。
        また、「お家もの」狂言の中で演じられる事が多い「廓ごと」は、当時の観客には人気の高い狂言で
       もあった。なぜなら、廓の中を見ること、傾城、とりわけ、太夫に会うことは一般庶民には高嶺の花の
       遠い世界のことであり、ましてや、女性たちにはまったく叶うことのない世界であったからである。それ
       を芝居で演じてくれる、見せてくれる。これほど、観客を引きつける世界はないであろう。坂田藤十郎
       という役者は、何度も言うように、決して芸域の広い役者ではなかったが、「廓事、傾城買」を演じ続
       けて、ついに人を飽かせる事がなかった役者でもあったのである。

                                                        (つづく)
        
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (9) (前編) 
                                             杉下賢三

 
         先程、この「仏母摩耶山開帳」という狂言は「近松が書き、藤十郎が演じた確証ある最初の作品」
       であると書いたが、近松が歌舞伎作者の仕事をしていたのは、此の時よりもかなり以前の事と思わ
       れる。前掲の貞享四年(一六八七)刊行の役者評判記「野良立役舞台大鏡」の中に「よい事がまし
       く浄瑠璃本に作者名を書くのさえ誉められた事でないのに、近頃は歌舞伎の狂言本にまで『近松門
       左衛門』なる作者名を書いている。そのうえ、さらに、芝居小屋の看板や辻々に貼る張紙にも『作者
       近松』と書き記すのは、えろう自慢と見えます。」といった近松への手厳しい非難が載っている。この
       評判記の文に従って読むと、近松は三十五歳になる以前、三十三、四歳の頃、延宝七年か八年頃
       (一六七九か一六八〇年頃)からすでに歌舞伎作者としての仕事をし、その上、作者名を至る所に出
       していたという事になる。さらに、この評判記を読み進めると、こうした非難に対する近松の反論が展
       開されているがその弁明は極めて現実的で明快である。「芸能界で骨を埋める覚悟をしたからには、
       何より知名度が大切だ。京都の都万太夫座で舞台装置の修繕をやっていたのも、堺の盛り場で『徒
       然草』の大衆向けの文学セミナーを行ったのも、皆自分の知名度を上げるためだ。」(「唐松歌仙」の
       項)というのである。確かに時代を問わず芸能界で成功するには、知名度は絶対的なものだろう。だ
       から、名前を出せる所なら、どこでも名前を出そうというわけである。勿論これは近松自身が直接言っ
       ているわけではない。評判記の作者の反論である。評判記の作者が今後、芸能界で生き抜こうとい
       う近松の決意を汲んで代弁したのである。ともあれ、この反論の中で近松が京の都万太夫座の舞台
       装置の修繕(「道具なをし」)をやっていたと記述されていることは注目されていい。さらに、寛延三年
       (一七五〇)刊行の歌舞伎劇書「古今役者大全」に「近松門左衛門が京都の都万太夫座の職にあり
       つき、『藤壷の怨霊』という芝居で、藤の花が忽ち大蛇に変わる工夫をしてから、門左衛門、門左衛
       門と持て囃された。」と書かれている。然らば、近松が都万太夫座の道具方となって、舞台でアッと
       驚くからくりを工夫して誉めそやされたのは何時頃の事か。伊原敏郎は「歌舞伎年表」の中で、それ
       は延宝五年(一六七七)の事としている。もしそうなら、近松は三十一歳頃から浄瑠璃狂言を書くかた
       わら、歌舞伎の世界に関係を持ち、都万太夫座の道具直しなどの仕事に携わっていた。やがて歌舞
       伎狂言にも筆を染めていったものと思われる。唯、此頃の彼の歌舞伎作品は現在総て存疑作とされ
       ており、確証できる段階には至っていない。だが、近松が歌舞伎界に関係した最初の「座」は都万太
       夫座であった事は間違いなかろう。そして、そこには坂田藤十郎が居たのである。近松は恐らく此処
       で藤十郎の夕霧狂言などでの「やつし」芸の素晴しさを目の辺りにした事であろう。近松にとって藤十
       郎の演技は、嘸かし魅力的なものに映ったに違いない。こうした中で、近松がこの人の為に歌舞伎
       狂言を書こう、この人の魅力が最大限に発揮出来るような芝居を書いてみたいと思うのは極く自然な
       事である。元禄六年以降十三年間、近松の作品として確実な歌舞伎作品は、絵入り狂言本や番付
       などから推して三十数作。その内、二十五作程は近松が藤十郎の為に書いた藤十郎主役の作品で
       ある。そして、そこでの藤十郎の役柄の殆どが「やつし」芸を伴う作品であった。勿論、当時、歌舞伎
       作品の場合と、浄瑠璃作品の場合とでは、その制作過程も含めて、かなり違っている。ましてや、現
       代の演劇脚本の制作の仕方とは全く異なっている。
        では、当時の歌舞伎作者は如何に台本を書き、役者達に如何に稽古をつけ、芝居を組立てていっ
       たのか。まず、此の頃の歌舞伎台本は、役者とそれを支える何人かの作者との共同制作だった。従
       って、一人の作者の独自性がどこ迄働いているかは難しいところである。その事は近松とて例外では
       ない。例えば、民屋四郎五郎(初め若女方として藤十郎の薫陶を受けたが、後、江戸へ下り実事仕と
       して評判を得る。延享二年、六十一歳で没)の「続耳塵集」に、次のような一文がある。(作者は)「新
       狂言の『相談』(作者同士や座本等とのせりふ案を含む筋書きの練り上げの段階)が終わった後、一
       場毎に芝居を組立てていく段階で、その場に出る役者達を呼び集め、車座になって芝居の筋書きを
       話して聞かせた後、せりふを口移しに教える。それをもとに役者達は一つの場が終わるまで立稽古を
       続ける。そして『小返し』といって、一場の中の一部分を今一度繰返し稽古して仕上げる。さらに、次に
       続く場面のせりふを作者が工夫し、それを又口移しに教え、一つの狂言を組立てていくのである。一
       座の座長(立者)が出る場面では、その座長が狂言の仕組み、即ち脚色、演出等に当るのである。
       ある時期(諸説あり。郡司正勝氏は『いつ頃か不明。元禄十年前後でもあろうか。』と述べておられる。
       )に、芝居の筋が複雑になってから、『記録係、せりふの頭出しの部分を記録しておけよ』と、せりふ
       の言い出し部分をそれぞれ一行ずつ書き留めさせた。歌舞伎狂言本(台本)といってせりふまで詳し
       く書く事は金子吉左衛門から始まったのである。」と書かれている。その中に「其座の立者出る場は、
       其立者狂言を仕組し也。」というところがあるが、そうだとすると、藤十郎は、当然その座の「立者」で
       あるから、彼自身が演出し、せりふも考えた場面があったということになる。今一つ、前掲の「耳塵集」
       に、こんな話が載せられている。「或時、新しい狂言のことで近松氏(門左衛門)と私(金子吉左衛門)
       たちが『相談』した後、楽屋に役者衆を集めて腹案の狂言(筋書き)を『咄』して聞かせた処、いい役
       に当った役者は、その芝居を誉め、悪い役を振られた役者は黙り込んでしまい、狂言の善し悪しの判
       らない人は、他人の顔色を窺って、大勢につこうとする様子。なかでも無知で、狂言の中身のことな
       ど判らぬ連中は、真っ先に腹を立て、付人に当り散らし、不愉快そうに挨拶もそっち退けで帰ってしま
       う。当時、藤十郎が座長であったが、彼自身、狂言の善し悪しを言わないものだから、他の連中も何
       も言い出せないでいた。藤十郎は『兎も角、序幕の幕開きから稽古を進めなさい。』とだけ言い残して、
       その日は帰ってしまわれた。翌日から稽古にかかり、四、五日で序幕の稽古も終り、やがて、四幕目
       の幕開きを稽古する日になって、藤十郎が『もう一度(作者から)狂言の咄を聞き直そう。』と言われ
       たので、私ども(近松と金子吉左衛門)が改めて『咄』をしたが、それでも(藤十郎は)何とも言わない。
       それは、下駄を履き、傘をさし、杖を突いて出る狂言だったが、藤十郎は楽屋番に言付け、これらの
       品々を用意させ、下駄を履き、傘をさし、杖を突いて『さあ、せりふを付けて下さい。』と言われたので、
       近松氏と私(金子)とで例のせりふを付けて、一通り通し稽古を行った。そこで初めて藤十郎は『成程、
       いい台本だ』と感心して、次のように言われた。『最初、この狂言の咄を聞いても、二度目に聞いても
       余り良い出来とは思えなかった。しかし、作者の気持ちとしては、良い狂言だと思えばこそ、出演者を
       集めて『咄』をされたのだと思って黙っていた。自分は不満でも見物衆が誉める芝居だってある。(中略)
       演者の感覚と作者の意図とは別のものだから、とも角せりふを付けさせてみようと思って、小道具を取
       寄せ、初めから立稽古をしたのだ。これは、身振り、せりふを一度に飲み込もうという積りだったんだ。
       ところが、今の作者のせりふ付けで、これは間違いなく優れた狂言である事が判った。ともかく芝居の
       稽古は、私がやったように、最初から立稽古をしてみるのがよい。』と言われた。こうした心配りは、以
       前に藤十郎が自ら良い狂言を作られた経験に基づくものに違いない。藤十郎は、いつも狂言の『咄』を
       聞かれる時には、自分の役の多少には構わず、狂言の筋をよく聞くよう努めておられた。」という話で
       ある。これらの話から判る事の一つは、近松の歌舞伎狂言本でも初めから終り迄、彼一人で書き上げ
       たものではなかった。彼は先ず「案」(狂言の枠組)を作り、金子吉左衛門らの作者たちに見せ「相談」
       して仕上げていく。次に役者を集めて大筋を『咄』して聞かせる。此時、書いたものは渡さず、役者たち
       は耳で聞く。この段階で配役も明らかになり、そこで喜ぶ者、怒る者、さまざまな反応が生まれる。この
       後、「稽古」に入り、せりふは作者が役者に付けるのだが、ここでも書きものは渡さず、作者が書いてき
       たせりふを読んで聞かせて、それを役者が繰返して覚えるのである。こういう方法だと、作者が書いた
       せりふが一字一句違えずに、役者によって再現されることは難しいだろう。しかも、せりふの増減、多
       少の変更は役者に任されていた。当時の歌舞伎作者が作る歌舞伎狂言本(台本)とは、そういうもの
       だったのである。この話から判る事の今一つは、藤十郎は、この時代としては珍しく作者や狂言の台
       本を尊重する役者であったという事である。

                                                          (つづく)
                 
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (10) (前編) 
                                             杉下賢三


        前回「藤十郎は、この時代としては珍しく作者や狂言の台本を尊重する役者であった」と述べたが、
       この事は、同じ「耳塵集」にある次のような逸話にも伺える。「……藤十郎に、これといった役がなく、
       仕甲斐のない時があった。或人が藤十郎に、『お芝居は面白く、見物衆もたくさん押しかけていま
       すが、貴方の役が少なくて、これだけが残念です。』と言ったところ、藤十郎は笑って、『芝居さえ面
       白ければ、それで御勘弁下さい。私の芸の善し悪しは、前々から皆様方の御承知の筈、藤十郎個
       人の芸を見せる芝居ではなく、狂言そのものを見せる芝居ですから。』と答えた。」という。こうした
       逸話から、藤十郎という役者は、如何に近松などの作者を尊重していたかが判ろう。それは「耳塵
       集」の作者も言っているように、藤十郎自身が狂言作りの経験を持っていたので、作者の苦心に対
       する共鳴もあったろう。と共に、芝居は作者に任せるべきだという自らの信念ともいうべき考えを、
       努めて皆の心に入れようとしていることも確かであろう。しかし、こうした藤十郎の考え方は、当時の
       スターシステム中心の歌舞伎界にあっては、決して一般的な考え方とはいえなかった。根生の役者
       で、大スターでもあった藤十郎、彼自身には他の多くの役者たちと違って、自分を見せる、目立たさ
       せるといった考え方は余りなかったのかもしれない。それは又、彼自身、自己を抑えて他者を生か
       すと共に、自己をも生かす事が出来る役者であるという自信に裏付けられた考え方なのかもしれな
       い。
        ともかく、芝居全体を観てもらう、その為には劇として優れたものを提供し、観客がそれを観て喜び、
       楽しんで呉れゝばそれでよいという、人気役者の立場にありながら、作者や台本を尊重した藤十郎
       の姿勢は、自ら近松と緊密な提携を保つに好ましい結果をもたらす事になる。藤十郎は、近松を得
       て、その天分を十二分に舞台に発揮する事が出来た、と同時に、近松はまた此の不出世の名優の
       ために台本を執筆する事によって、数多くの優れた歌舞伎作品を残すことにもなった。そして歌舞伎
       としての成功を近松は、更に、その手法も含めて、後の浄瑠璃作品に生かし得た、その意味で近松
       にとって藤十郎との密接な提携は二重に幸いしているといえよう。
        翌元禄七年(一六九四)末より上京していた江戸の名優、初代市川団十郎は、年明けての翌元禄
       八年(一六九五)の初狂言として、京の村山平右衛門座(南側中之大芝居)に於て、「源氏武者誉勢
       力」という狂言を出し、自ら朝比奈三郎に扮して、門破りの荒事芸を披露し、四十余日打続けの大当
       りをとったのである。しかし、こうした荒事芸は、京都の観客にとって初めこそ物珍しさもあって大いに
       人気を博したが、やがて「身振りが大袈裟過ぎる」「息継ぎがせわしい」「侍のようには見えぬ」「所
       詮、田舎者の芸である」等々、冷たい批評が次々に現われ、急激に評判も落ちていった。要するに、
       団十郎の荒事芸に、当時の京の観客は自分たちの趣味を見出すことが出来なかったのである。団
       十郎は一年を経ず、同年九月、同座での「熊谷名残盃」に出勤したのを最後に江戸へ帰った。その
       間、団十郎が京都で藤十郎に会ったという逸話がある。宝暦十二年(一七六二)正月に出版された
       歌舞伎劇書「歌舞妓事始」に見える次のようなエピソードである。「初代の市川団十郎は、噂に聞く
       坂田藤十郎の芸を一目見たいと、わざわざ京都へやって来たが、生憎、藤十郎は病気で休演中で
       あった。団十郎は残念に思っていたところへ、藤十郎から使いがやって来て、『折角ご上京なさって
       いるのですから、せめて東山辺りの料亭で粗酒を差し上げたい。』と言って来た。団十郎が遠慮なく
       出かけてみると、どうしたことか藤十郎は一向に座敷に現われない。団十郎が腹立たしく思っている
       と、着流しのままの藤十郎が向うの座敷へ出て来て、花などを生けて、また引込んでしまった。益々
       不愉快になった団十郎は席を立とうとした時、『お待たせ致し、嘸かしご退屈なことでしたでしょう。
       今、お目にかかります。』と藤十郎の挨拶が伝えられた後、髪を結い直し威儀を正した藤十郎の登
       場と相成った。その立居振舞い、姿の美しさ、立派さに、さすがの団十郎も圧倒され、『芝居を見る迄
       もない(狂言見るに及ばず)。藤十郎は名人だ。』と、翌日には早々に江戸へ帰ってしまった。そして
       江戸で『藤十郎が生きている間は、決して江戸の役者を京都へやってはいけない。彼に勝てる筈が
       ない。』と語ったということである。」。この話、「狂言見るに及ばず」の団十郎の一言がポイントである。
       名人の芸境は、舞台を見なくてもその人物に接しただけでも見抜ける。芸は結果であって本質は人
       格なのである。一瞬の出会いで、団十郎を圧倒した藤十郎も凄いが、その瞬間に藤十郎の芸境を見
       抜いた団十郎もさすがと言うべきであろう。名人の対決と呼ぶに相応しい逸話ではないか。だが、こ
       の話、記述に多分に不正確な所がある。先ず団十郎が上京したのは、藤十郎の技芸を見る為として
       いるが、勿論これは違う。興行の為の上京である。次に京で病気休演中の藤十郎と会ったとあるが、
       この年藤十郎は大坂に出勤していたので、これも事実に合わない。どうやらフィクションのようである
       が、両優の風貌、二人の出会った時の様子などが子細に記述されていて、全くのフィクションとは考え
       難いリアリティがある。
        この話が、多分にフィクションめいたエピソードであるにしても、此の時代の劇界―元禄歌舞伎界に
       おいての江戸に対する京都劇壇の地位の高さや坂田藤十郎がその後如何に神話化されていったか
       を如実に物語る話として、さらには、三年を経ずして上京して来る、これ又江戸の名優中村七三郎に
       対する藤十郎の接し方の違いなど、比べてみるにかなり興味深いエピソードにもなっている。
        元禄八年(一六九五)正月、京の早雲座で、近松作の「今源氏六十帖」が上演され、藤十郎(当時
       四十九歳)は、刑部家の家来相生幾世之助に扮し好演したが、ここでは、むしろ相手役の水木辰之
       助の猫の所作がおもしろく大好評であった。続いて同座の二の替狂言として近松作の「けいせい阿
       波鳴門」を上演。藤十郎は、土持よし兵衛(実は斑鳩家の惣領大蔵)に扮し、得意のやつし事を演じ
       て好評。この狂言は、例のお家騒動をもとに、若い継母の邪恋などを組入れ、新味を出すとともに、
       廓場、濡れ事なども設定し、大和屋甚兵衛、水木辰之助、金子吉左衛門など、役者のそれぞれの得
       意芸が生かされており、近松が藤十郎と組んだ傑作の一つとなっている。同年七月、同座の盆狂言
       として「曽我太夫染」を上演。藤十郎は得意の十郎に扮し好演した。同年の秋、同座において水木辰
       之助の江戸下りの暇乞狂言として、近松作「水木辰之助餞振舞」を上演。藤十郎は和歌浦光右衛門
       に扮した。この狂言は、元禄四年上演の「娘親の仇討」を改訂したもので、有馬の藤に扮した辰之助
       の怨霊事はとりわけ絶賛を博した。同年十一月、藤十郎は京の都万太夫座の座本も兼ねるようにな
       り、その顔見世狂言として、近松作「姫蔵大黒柱」を上演。藤十郎は浜松子の日之介に扮し好演する。
        元禄九年(一六九六)、藤十郎五十歳となった春、京の都万太夫座(座本坂田藤十郎)で、「高野山
       万燈」を上演。藤十郎は、嵐三十郎という役者が、油樽の上で切腹するのを看病する役に扮したが、
       此の時の話として、「耳塵集」に「『高野山万燈』という芝居の二幕目の幕開きに、嵐三十郎という役
       者が、舞台で切腹するシーンがあり、藤十郎がその三十郎を看病する演技を好演した。それを見たあ
       る役者が、山下京右衛門(この頃は半左衛門を名乗っていた)に向って『藤十郎は普段から外科医の
       心得があるので、舞台でも怪我人の看病がうまく演ぜられるのだ。外科の心得のない役者では、とて
       もあのようには出来まい。』と言ったので、京右衛門は、『藤十郎は外科をよく知っておられるので、手
       際よく怪我人の手当てを演じて評判をとられた。私は元々外科の心得などないので、出来るだけ、不
       器用に見せて、京右衛門は外科に通じていないから、舞台の上で怪我人の看病が出来ないところを
       見事に演じたと、見物衆から誉められたいものだ。』と答えたという。屁理屈を付ければ、何とでも言え
       るものだが、この京右衛門の話は真理を突いている。」といった話が載っている。この話、一見、「京右
       衛門が『へらず口』で応答した笑話」(守随憲治)ととれようが、決してそのような単純なファルスではな
       かろう。同じ「耳塵集」に先代の嵐三右衛門のことについて、「『三右衛門は普段から酒がお好きだか
       ら、舞台の上でも本当に酒を飲んでおられるように見える。さすが名人だけの事はある。』といって誉め
       た人がいた。(後略)」といった話もあるが、「高野山万燈」の話の「ある役者」の発想は、この話の「誉
       めた人」のそれと同じ判断である。何れも実生活での役者の生活体験と、舞台でのその類似行為の演
       技表現との関係を二重の意味で取違えている。その第一は、実生活の体験が演技表現の前提となる
       為には、先ず役者自身が自己の体験を観察して、それを客観化していかねばならないという事実。そ
       の第二は、実生活での体験と、それを前提とした演技表現との間にはデフォルメという作業を介するこ
       とによって、質的な違いが生ずるという事実である。従って、「ある役者」が感嘆するが如き真に迫った
       演技表現は、日常生活の種々な体験に短絡的に直結するものではなく、そうする為には、自己体験を
       客体化し、更に変容の過程を経なければならないことが前提となる。それ故に、明確な目的意識を持
       った不断の稽古、工夫が欠かせない。その意味で、歌舞伎劇書「古今役者大全」(寛延三年一七五〇
       刊)の中で、前掲の「古嵐三右衛門常に酒を好で」の話を引用した後に、「しかれバ稽古工夫あるべき
       事か。」と注釈を付しているのは、正鵠を得た評言と言えよう。
  
                                                         (つづく)
             古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (11) (前編) 
                                          杉下賢三


         又、「耳塵集」の作者が、この種の逸話を一度ならず二度までも採録した意図の中には、もしか
        すると、藤十郎を中心に進められていた当時の上方歌舞伎の写実主義的傾向の陥り易い錯誤
        への一つの戒めを説こうとしたのかもしれない。「実」への安易な依存ーそれが、ともすれば当時
        の観客の間にも、役者の側にも陥り兼ねないものとしてあった、そうした風潮への一つの警鐘で
        もあったのではなかろうか。尚、これらの事については、後編の「技芸編」の中に於いて、藤十郎
        の技芸における虚と実の問題として詳述することにしたい。
         翌、元禄十年(一六九七)、都万太夫座(座本藤十郎)の三の替狂言として近松作の「百夜小
        町」を上演。藤十郎(五十一歳)は深草少将に扮し、玉川半太夫扮する小野小町を相手に好演し
        た。因に、この時の切狂言として「夕霧七年忌」が再演されている。この狂言は、外題が示す如く、
        夕霧の七回忌の貞享元年(一六八四)に、藤十郎、谷島主水のコンビで初演されたものの再演
        物(現在、この再演時の狂言本が残っており、初演時のおもかげを知り得る)であり、今回は、伊
        左衛門には勿論、藤十郎、相手役の島原の太夫難波には霧波千寿が扮した。続いて、同年、同
        座(座本藤十郎)の盆狂言は近松作の「大名なぐさみ曽我」を上演した。この狂言は、嘗て近松
        が宇治加賀掾の為に書いた浄瑠璃狂言『世継曽我」を劇中劇に仕組んだもので、藤十郎は、挟
        箱持ちの藤介と劇中劇の鬼王役を演じ、作品の良さとも相俟って当り狂言となった。ここでも切狂
        言として夕霧狂言が演ぜられている。さらに同年十一月、同座(座本藤十郎)の顔見世では、水
        木辰之助の江戸土産狂言「七化け」を上演し、大当りとなる。こうした最中、江戸の名優中村七
        三郎が上京し、藤十郎が座本を勤めていた都万太夫座の隣座である布袋屋梅之丞座へ出勤し
        た。此の時、布袋屋座の座本は藤十郎の好敵手の山下半左衛門であり、そこへ新たに七三郎が
        加入するとなれば、藤十郎、都万太夫座にとって、実に由々しき大敵となる。この時の話が「賢外
        集」にある。「中村七三郎は、元禄期に江戸において芸達者と賞賛され、世評の高いやつし事の
        名人であった。その七三郎が元禄十年十一月、上京して京は四条の山下半左衛門一座に加入
        した。十一月の顔見世狂言(『都恵方嫁入文章』)は、隣の藤十郎座の狂言(上記の辰之助の
        『七化け』)の方が好評で大入りとなり、七三郎の方は非常に評判悪く、よくない噂ばかりが広
        がった。それに『馬の後足』(大根役者などと同意)という悪口の落首(『七三のまぶたいただく半
        左衛門ひねってみれば馬の後足』などの戯れ歌の類)まで出来て、人々が囃し立てる有様で大
        失敗であった。初日から一両日して、藤十郎のところに一座の役者たちが集まって来て、七三郎
        を散々に扱き下ろした。ある者は『江戸から、やつし事の本場である京都へやって来て、そこでや
        つし事を見せようということ自体大きな間違いで、何よりも下手の証拠だ。』などと貶したりした。
         しかし、藤十郎の態度は違った。『成程下手だ。だが、下手なのは七三郎の真価を見抜けない
        京の見物衆の方だ。私の目から見れば七三郎は近年稀に見る芸の達人だ。此の人に勝る役者
        は、現在一人も居まい。七三郎が上洛されたのを機会に、私たちも負けじと精進すれば、今年中
        には多少は芸も上達するに違いない。一先ず最初の顔見世興行は此方の勝ちとなったが、演目
        の替る正月(二の替)を警戒しなくてはならない。七三郎はきっと正月興行を成功させるだろう。』
        と早くも顔見世半ばに予言されていた。果して、翌年の正月二十二日から、新しい演目『けいせい
        浅間嶽』を上演し大ヒットとなったのである。殊に、巴之丞に扮した七三郎が、縞模様の羽織を敷
        いて、それを碁盤に見立て、茶碗のかけらを碁石がわりに一人碁を打ちながら、恋人の奥州と痴
        話喧嘩するシーンは絶品で、誰にも真似の出来ない名演技であった。
         京の見物衆も顔見世の時の悪評はどこへやら、掌を返したように『さすが七三郎はすばらしい芸
        達者だ。』と賞賛を惜まなかった。この芝居は大好評で、百二十日のロングランとなった。これを見
        た隣の劇場(都万太夫座)の藤十郎一座では、役者たちが『成程藤十郎丈がおっしゃった通りに
        なった。流石に名人の予感は恐ろしいもの(『上手の胸中はおそろしき事』)だ。』と感心するばか
        りであった。藤十郎は、作者の金子吉左衛門を内々に呼び寄せ、『既に、顔見世の間から言って
        いたように、今年は七三郎という強敵がいるから、一座の役者たちの発奮はむろんのこと、先ず
        台本に趣向を凝さねばならない。台本を書くのは貴方だ。よもや油断はあるまいが、役者衆より
        一層頑張って台本を考えて呉れなければ、一座は立ち行かなくなってしまう。顔見世で一度こち
        らが勝っているので、兎角作者に気の弛みが出るものだ。だから念の為に言うのだ。』と繰り返し
        意向を伝えられた。それからというもの、藤十郎は演目が替る毎に七三郎の演技を見に行っては
        『天晴れ、上手!』と感嘆されていた。一方、七三郎も藤十郎の芸に接して「藤十郎は噂以上の
        名人だ。私も若い時分から藤十郎の技芸を学んで修行を積んでおけば、もっと芸が上達したもの
        を。今となっては取り返しがつかない。』と悔やんでおられた。
         藤十郎は、七三郎が舞台で何より行儀正しい演技を見せるのに心ひかれ、嘸かし日常の行いも
        良いに違いないと心床しく思って、以後知り合いになり、打ち解けた交友をなさるようになった。」と
        書かれている。此の時、藤十郎五十二歳、七三郎三十七歳であった。この話の眼目は言う迄もな
        く、藤十郎の「上手の胸中はおそろしき事」という予見能力の高さにある。藤十郎の予見能力の高
        さと言えば、芳沢あやめの芸談集「あやめぐさ」に載る元禄十三年(一七〇〇)十一月の顔見世興
        行の前後から、翌元禄十四年(一七〇一)の初春興行にかけての京都三座の座組変更に関して
        の記事が思い出される。「先年、早雲長太夫座(座本大和屋甚兵衛)で坂田藤十郎、山下半左衛
        門という立役の二大立者が一緒になる筈だったが、他座とのバランスの上から半左衛門は夷屋松
        太夫座の座本となって移り、夷屋座へ行く筈の名若女方の水木辰之助と私(あやめ)とが、それを
        補って早雲座へ移ることになった。辰之助がいなくなってはと、夷屋座では江戸帰りの名若女方
        の荻野左馬之丞(沢之丞)、それに岡田左馬之助を抱えた。都万太夫座(座本古今新左衛門)で
        は、その穴埋めにと若女方の浅尾十次郎と霧波千寿をとったのである。そうした時、藤十郎が言
        われたことに、『此の度の座組変更によって、京の芝居三座の内、夷屋座には半左衛門という『つ
        わもの』がおり若女方には、荻野左馬之丞や岡田左馬之助がいる。敵役には、藤川武左衛門、そ
        れに若手であるが将来性豊かな沢村長十郎という立役がいる。当方の早雲座には立役では、座
        本の大和屋甚兵衛や私(藤十郎)がおり、敵役には、篠塚次郎左衛門、若女方には、そなた(あや
        め)や水木辰之助がいる。この二座は座組からいって互角であるが、都万太夫座はというと、中村
        四郎五郎を頭にして江戸下りの生島新五郎、座本の古今新左衛門の立役陣、敵役には、三笠城
        右衛門、そして若女方には霧波千寿と浅尾十次郎といったところ、かなり劣勢だ。これは厄介なこ
        とになる。二軒(座)は張合い負けになり、万太夫座は脇見も振らず精を出すだろう。座組が良過ぎ
        ると外を見下して危ないことがある。そこで我々は芝居の演技を第一と心掛けて努めねばならない
        。』との話。果たして、その年、万太夫座は大入りで、外の二座はぱっとしなかった。そこで、夷屋
        座の座本は苛立って、藤十郎にいろいろと狂言の事についての相談があったが、藤十郎は『ここ
        は慌ててはいけない。』と言って、若手の沢村長十郎を山形織部之助という役に抜擢して、『新嫁
        鏡』という狂言を出させ、吃驚するような大入りを取られた。…」といった記事である。
         ともかく、他座の動向や顔触れ、見物衆の意識の趨勢などを見据え、先行きを察知して自座のみ
        ならず、京三座の何れもが成功するよう経営の改善を図る藤十郎の見識と予見能力の高さは見事
        というほかはない。

                                                             (つづく)
         
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (12) (前編) 
                                          杉下賢三


          話を元に戻そう。前述の如く元禄十年(一六九七)十一月の顔見世は藤十郎の一座が勝ち、翌年の
         二の替は、藤十郎の予見が当って、「けいせい浅間嶽」を出した七三郎の圧勝に終った。濡れ事、や
         つし事で西と東で名人と賞賛された藤十郎と七三郎は、互いに相手を意識し、相手の舞台に大きな関
         心を寄せるようになる。名人は名人を知る。二人は互いの芸に感服し、懇ろな付き合いを始めた。対決
         が親交に移っていく。唯、七三郎が藤十郎の芸に接して、「さてさて、藤十郎といへる役者は聞呼びしよ
         りも、いたって上手なり。我等是までに藤十郎の仕内を見て工夫つけなば、芸をあげん物を。」と、専ら
         藤十郎の上手な仕内(演技)を評価し、「それよりちかづきに成」った七三郎と、「七三を見て、先舞台の
         行儀はなはだ正敷見え侍る。嘸かし不断の身持ちよろしからん」と、舞台の行儀正しい芸に惹かれて、
         彼の「不断の身持(生活態度)」を評価し、その「心底床敷く」感じて、「それよりちかづきに成」った藤十
         郎とでは、相手を見る目、評価する目が違っている。一方は表現手段としての技芸の巧拙を問題にし、
         他方はその表現手段の奥にある役者の人間性を洞察しようとする。人間の大きさとは、これで勝負あっ
         たと「賢外集」の口述者、染川十郎兵衛は見ているのである。
          これも、先に述べたが、中村七三郎方は、元禄十一年(一六九八)正月二十三日より、早雲長太夫座
         (座本山下半左衛門)で、新狂言「けいせい浅間嶽」を上演し、百二十日間のロングランとなった。一方、
         藤十郎が座本の都万太夫座では、近松作の「上京の謡物」(藤十郎は唐臼踏みの新作役)を初狂言と
         して、同じく近松作「けいせい江戸桜」(藤十郎は、高加茂家の嫡男主殿之介役)を二の替狂言として上
         演したが、いずれも不入り。更に、盆狂言にこれ又、近松作の「一心二河白道」を上演する。この狂言は
         桜姫清玄劇をお家騒動風に仕立て、それに清水観音信仰を絡ませた趣向の作品だが、丹波国の郡司、
         秋高家の家老ささめ太夫に扮した藤十郎、その妻お竹に扮した水木辰之助の活躍もあって、一応の当
         り狂言とはなったものの、全面的な失地回復には至らなかった。結局、藤十郎、門左衛門の一座が、七
         三郎、半左衛門の一座を圧倒するのは、翌元禄十二年(一六九九)正月の「けいせい仏の原」の上演ま
         で待たねばならなかった。
          その元禄十二年、座本坂田藤十郎の都万太夫座は藤十郎座と名を改め、正月二十四日より近松門
         左衛門(四十七歳)作の「けいせい仏の原」を上演した。藤十郎(五十三歳)は越前の国主梅永刑部の
         惣領文蔵に扮し、大絶賛を博した。この「けいせい仏の原」は京都東山の月窓寺にある沓はき弥陀如
         来の開帳を当込み、梅永家のお家騒動狂言に仕立てた作品である。近松は、藤十郎が得意としたや
         つし事、濡れ事、滑稽事、長咄事などの場面をうまく設定すると共に、三十人近い一座の役者たちに適
         切に仕事を割振り、それぞれに見せ場を配し、全体をよくまとめて元禄歌舞伎の傑作の一本となり得た。
         それと共に、何よりもこの芝居が大当りした原因の一つは藤十郎の活躍にある。元禄十二年三月刊行
         の役者評判記「役者口三味線」には、「けいせい仏の原、尤しぐみ出来物にて、よく役くばり相応して、
         立テものの衆中、何れもあたった」と作品(台本)の出来の良さを褒めた後、「一つは此人近年になき、
         情の出しやう、所作の外に手水鉢に身をへんげ、あるははふより、やねにつたひて天上し、又はこたつ
         の姿とあらわれ、身心共にもまるゝゆへ、一チばいでけたやうにみゆる事、此人のはたらきにあり」と藤
         十郎の奮闘ぶりを賞賛している。続けて、藤十郎の優れた技芸について、「鷹がりの帰るさ、馬の上か
         ら訴訟人へのあいさつ、如何にも大名の惣領めいて、世知なる目には少し抜けたる様に見へ侍るところ
         が、成程惣領の大様に育ちたる体、自然と映り申す。さて勘当を受けて紙子一貫の体と成…奥州(傾城
         の名)に逢ふて、三国(地名)にて傾城買ふたる一チ巻(一部始終)…此人の言ひほどき(弁解)一種に
         て(独特であって)、末々入り組みたる事共迄、見物よく呑込むやうに、言仰らるゝ事、第一下手芸にて
         は、按配良うは参るまいやうに存る。さて、四番目に小ざつま(傾城の名)に逢ふて、当座賄ひ(その場
         だけでうまく言いくるめる事)に『執心じゃ』との言ひ掛け、粋なる傾城の受付けぬ所を、言まはしにて合
         点させらるゝ所、尤かやうに仕組みおかるゝ故とは言ひながら、さながら誠らしう、斯うも有そふな、これ
         ではいかなる粋の太夫も合点はする筈じゃと言やうに、狂言めかず、実に見せる事、言ひ教へては、誰
         もする事とは言ひながら、此人のせらるゝやうに、しっくりと案配良く、見物脇目もせずに、ここを大事と見
         るやうには、何として此人除けて、傾城事の一チ巻、又とする者がござらふ…」と書かれており、前半の
         評言で藤十郎が「此人近年になき、情(せい)の出しやう」で、上を下へのダイナミックな動きを舞台で示
         した活躍ぶりを、後半の評言では藤十郎扮する大名の惣領ぶりの自然さ、馴染みの傾城との口説事の
         「狂言めかず、実に見せる事」など、藤十郎の「写実及至自然主義」(伊原敏郎)の技芸が尤もよく発揮
         された舞台であった事が述べられている。更に、この狂言での藤十郎の技芸で今一つ特徴的なものは、
         所謂「居狂言」の魅力である。藤十郎扮する梅永文蔵が編笠も被せてもらえず、紙子姿になって風呂敷
         包み一つ肩に担いで追い出される。途方に暮れた文蔵がぶらぶら歩いている内に、とある屋敷に紛れ
         込む。そこで偶然再会した昔馴染の奥州と逢って面白可笑しく話をする。この時の文蔵の長咄が有名
         であった。その長咄が如何なるものであったかは、元禄十三年(一七〇〇)刊行の西沢一風作の浮世
         草子「御前義経記」の「梅川文蔵身の上物語」(巻八)によって、凡の内容は判明する。余りにも長い独
         白であるのでここで引用する事は控えるが、恐らく数十分はかかったであろうこの長咄を藤十郎の事で
         あるから、いろいろな格好をしながら喋った事であろう。だが、結局ほとんどその場を移動する事なく、座
         ったままで長いせりふを喋り続けた、それが所謂「居狂言」と呼ばれるものであった。藤十郎は、その長
         い喋くりだけで観客を魅了したのである。勿論、そこに藤十郎の個性が発揮されたであろうし、その為、
         そこでのせりふは藤十郎によって多少手が加えられたであろう。だが、作者を大切にする藤十郎であっ
         てみれば、原則として近松や金子吉左衛門が事前に書いた台本に従って喋ったものと思われる。(この
         辺りの事については後述する「耳塵集」の中の逸話が興味深い)。ともかく、この「けいせい仏の原」が
         大当り狂言であった為、三の替に同座(坂田藤十郎座)で、近松作?「(仏の原後日)龍女ヶ淵」が上
         演され、これも当り、さらに、同座の盆狂言として七月十五日から近松作の「(仏の原三の後日)つるが
         の津三階蔵」が上演されこれも当り狂言となった。実は、この芝居での梅永文蔵役の藤十郎の長咄の
         せりふをめぐって、次のような苦心談が「耳塵集」に載っている。それは、「仏の原三の後日狂言(『つ
         るがの津三階蔵』)に藤十郎の梅永文蔵(ここでは、梅永でなく梅房となっているが、何かの間違いで
         あろう)が昔馴染みの傾城奥州を請出して、家来の望月八郎右衛門の女房として与えた。しかし、この
         二人、何時迄たっても同きんしていない事を知った文蔵は『さては、自分と常から情を交し、末を契った
         言葉に背くまいと、この文蔵に対する愛の誓いを守り通そうとしているのだろう。』と思い巡らし、といっ
         てそれを八郎右衛門に覚られるのは恥しいので、そっと奥州に意見をしようと思い、人目につくのをさ
         けようとして、夜を待って被衣を被り女装し、八郎右衛門の屋敷に忍び込む。そこで奥州に右の事に
         ついて意見したところ、奥州は大層腹を立て『一緒に寝ようが寝まいがそれは八郎右衛門殿と私との
         話、一度女房にやって置いて余計な心配、早々にお帰りなさい。』というので、文蔵は『奥州が本心を
         打明けないのは侍女が沢山側にいるからだろう。もう少し時間をとってから、奥州と二人きりになって
         本心を尋ねてみよう。』と考え、大した内容でもない事をくだくだと長咄して時間をとる面白い文蔵の
         見せ場があった。ところが…
         初日の七月十五日の事、観客はこの藤十郎の長咄に退屈して、『止めろ、引っ込め。』と口々に野次
         ったので、この場面の芝居は滅茶苦茶になってしまった。芝居が終わって(作者の一人である)金子
         吉左衛門が藤十郎の楽屋に礼に行き『貴方の今日の観客を笑わせる、あの場面は近松と私(吉左
         衛門)とが話し合ってせりふをつけたのですが、見物衆が気に入らなければどうしようもありません。
          せりふを半分お抜きなさい。』と言ったところ、藤十郎は『否否、明日は演じ方を変えてみるつもりで
         す。』との返事。翌十六日、吉左衛門は心配でたまらなかったが、例の滑稽な長咄の場面に来ると、
         観客は非常に面白がり、『藤十郎様、もっと長う、長う頼みます。』と口々に声を掛けるのであった。そ
         の日の夕暮、吉左衛門は『一緒に大文字の送り火を見物に参りましょう。』と藤十郎を誘い出し、『昨
         日とは違って、結局のところ、却って長々とせりふを付け足して喋られましたのに、更に長うせよとの
         見物衆の掛声。さてさて、常とは違って七月というまだ暑い時分の見物衆の気に入るようにするのは
         難しいものですなぁ。』と言ったところ、藤十郎は『いやいや御見物には無理はありません。私、藤十
         郎の工夫に問題があったのです。せいぜい奥州の心底を聞き正そうとするがために、いろいろと手間
         どる演技であるのだから、その気持ちをしっかりと肚に入れて芝居をすればよいと工夫を為直して、本
         日益々せりふを長く付けてやってみたところ、御見物衆は案の定、『長う、長う』と言って誉めてくれま
         した。ともかく本心のあり方が大事なのです。(『とかく本心が大事なり』)。私は当年五十三歳になっ
         たのですが、今まで上達しなかった芸、もう上達しないのかと後悔しましたよ。」という話である。
        
                                                           (つづく)

               古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (13) (前編) 
                                          杉下賢三
\
         
         初め、観客を笑わす事に腐心した彼の話術(エロキューション)は、文蔵の長咄を生かすことが出来な
        かった。そこで「見物このしこなしにたいくつして、『おけよ引込めよ』と口々にいひて…」といった状態に
        なってしまった。藤十郎はその晩、そうなった原因を反省した。そして、自分が得意とし、人々からも称
        美されてもいた自らの話術をより技巧化して、文蔵という人物を創り上げようとする演技者としての自分
        に問題があったことに気付いた。「奥州とさし向ひに心底を尋んと、さしてもなき事に、いろいろと隙を入」
        らんとする文蔵の「本心」が欠けていた事に気付いたのである。翌日、彼が「その気を持狂言」をした時、
        見物衆にとってそれは最早無内容で退屈な長咄ではなく、文蔵という人物の生きた言葉の表現だった
        のである。せりふが生気を帯びた人間の言葉として生まれ、文蔵の心の中から迸り出た。見物衆はそれ
        に感動して「藤十郎様ながうながう」と口々に称賛したというのである。この逸話の核心である「とかく本
        心が大事なり」という藤十郎の言葉は、同じ「耳塵集」の別条に、それは、「せりふ」でなく「身振り」の問
        題として、「役者の中には身振り(舞台上での動作、姿や形)の善し悪しばかり気にしている者がいる。
        勿論身振りは見物衆に見せるものだから、悪いよりよいのがいいに決っている。だが、私は身振りなど
        にはこだわらない。そもそも身振りだからといって、わざわざ作ってするものではない。身振りは心が迸
        り出た結果(「身ぶりはこゝろのあまり」)なのであって、喜怒の情は自然と身ぶりに現れるものである。
        この点を忘れて身振りだけを云々しても意味がない。」と述べられているのである。藤十郎の「とかく本
        心が大事なり」という言葉は、ここでは「身ぶりはこころのあまり」という言葉で表現されているが、藤十
        郎にとって「せりふ」にせよ、「身振り」にせよ、それはもう「かたち」ではなく、人物の心の動きによって
        微妙に変化していくものなのである。ともあれ、藤十郎こそ、心理を主題化した最初の役者であった。
         さて、この元禄十二年という年は、前にも述べた通り、藤十郎が初めて京都の劇壇の最高位に立った
        年でもあった。当年刊行の役者評判記「役者口三味線」に於てである。それ迄は京都立役の部の「上
        上吉」という最高のランクを得ながら、巻頭の「上上吉」は、山下半左衛門であったり、時には竹島幸左
        衛門であったりして藤十郎ではなかった。しかし、この評判記において藤十郎は、それらの名優たちを
        凌いで初めて巻頭に置かれたのである。(因に、次位は半左衛門、三位は上京中の中村七三郎、四位
        は竹島幸左衛門であった)藤十郎の評価が京の最高位の立役と確立するのは他の半左衛門、七三郎
        らに比べて驚く程遅い。老境に入ってからである。では、なぜ藤十郎の技芸が評価される迄に、これ程
        時間がかかったのか。これは前にも述べた通り、先ず、傾城買いの濡れ事では他を圧して勝れている
        が、武道事は不得手で、振り事や拍子事、さらには所作事にも難があった。いわば彼の芸域の狭さこそ、
        藤十郎の評価が低迷した理由の第一であった事は間違いない。だが、ここでは、今少し角度を変えて
        この問題を考えてみたい。結論的に言えば、藤十郎の技芸が当時の一般の観客の趣味判断と、かなり
        乖離したところにあったのではないか、それは取りも直さず、藤十郎の技芸がそれ程までに革新的なも
        のであった事を意味しているのであるが…。役者評判記などでは、一般の観客の趣味判断は、しばしば
        「田舎衆」、「素人」の好みとして表現される事が多い。元禄十五年(一七〇二)刊行の役者評判記「役
        者一挺鼓」では「大和屋(甚兵衛)殿などは、いつ見てもはなやかにして、見物のうれしがる事、いそい
        そ致す事じゃ。」などと、一般の観客の好みは、大和屋甚兵衛のような技芸にあるとする「喜翫」なる男
        の意見に対して、「坂田贔屓人芝居助太郎」(恐らく、この役者評判記の執筆者、江島其磧の本音の代
        弁者)の反論は「(藤十郎のような技芸が)田舎の衆のめにいらぬは、上手芸故也。天人をどりや、孔雀
        などつかふを(この後欠丁)」と、残念ながら、此の後は欠丁になって残っていないのだが、この芝居助
        太郎氏が続けて何を言おうとしたかは容易に想像できる。
         大和屋甚兵衛(主に大坂に於て活躍した立役の名手。座本も兼ねた)などの見た目に派手な芸、天人
        踊りや孔雀などを舞台で使うケレンがかった芸、「田舎の衆」は、そうしたものしか芸として映らないので
        ある。芝居芸に対する当時の一般観客の趣味判断は概ねこうしたものであった。そうした当時の一般
        観客の好みからすれば、藤十郎の得意な舞台芸、とり分け舞台の上で「座る」空間をつくり、そこで傾城
        などを相手に長々と喋る「長咄事」、「居狂言」は田舎衆の見物客にかかると、「かの田舎人に、なんと京
        の名人、坂田が芸を見さしゃったかととふたれば、田舎衆のいはるゝは『いかにも坂田を見ましたが、上
        手は上手さうなれ共、有無に芸はせられずして、舞台で何やら談合計して、おゐやった。あの談合事は
        がくやでして、芸をして見せられたらよからふに、ひょんな時見に参って残念な。』と申された。是居狂言
        をおもにせらるゝ故に、田舎者は談合計おしゃるといふがことはり也。」(「役者一挺鼓」)と言う事になる。
        この「談合計しておゐやった」という言葉のうちには、田舎の衆ばかりでなく田舎衆の口を借りて藤十郎
        の技芸に対する批判が、このような形で存在していた事を示している。こうした事が藤十郎の技芸を評
        価する趣味判断が長い間成立せず、これ迄の役者評判記の作者が、これらの事を理由にしてその評価
        を決めかねていたものと思われる。
         次に、ではどうして、この時期に藤十郎を京都立役のトップの座に据える事になったのか。それは直接
        的には此の度の「けいせい仏の原」における藤十郎の好演が大きく関っていようが、それと共に考えね
        ばならぬ事は、この役者評判記「役者口三味線」の執筆者江島其磧の新しい批評精神の表れでもあっ
        た事である。浮世草子の作家でもあった其磧は元禄九年頃より、浄瑠璃本の出版元でもあった八文字
        屋自笑との書物刊行についての関係が出来、初めて前掲の「役者口三味線」を八文字屋から発刊した。
        この役者評判記は内容、体裁ともに、従来のものとは一線を画す斬新さがあり、以後、幕末に至る迄の
        役者評判記の様式の規範ともなった画期的なものであった。この「役者口三味線」で藤十郎を京都立役
        の巻頭の位置に据えたのは江島其磧である。其磧の革新的な批評眼によって、彼を京立役トップの座に
        据えたのである。この評判記のスタイルは、藤十郎の項に限っていえば、批判的立場にに立つ「法師」と、
        擁護的立場に立つ「大臣」の問答体になっている。まず、法師は今回藤十郎が京都立役の部の巻頭に
        置かれた事に納得せず、巻頭に置かれるべきは、竹島幸左衛門であるとし、「竹島のせらるゝ事、にせ
        にせられぬ所有。第一げいしゃなれば、げいは役者の大根(ね)なれば、巻頭におくとのことはり、尤可
        也。藤十郎には、けいせいかいの言たてより外、さらに今迄かはりたる所作を見ず、何のゆへに巻頭に
        おかるゝぞや。」と、いつもの論法で批判したのを受けて、大臣は「その今迄かはりたる所作もせずして、
        ひさびさ京の見物に見あかれず、藤十郎藤十郎と称美せられ給ふは、とんだりはねたり、げいのありたけ
        はたらかるゝ方よりは、まさりて徳有ル上手にあらずや。」と反駁する。今迄の評判記が藤十郎の芸に対
        して、このような評価を下したのは皆無であった。更に、法師の「さもあらば去年(元禄十一年)のけいせ
        い江戸桜去々年(元禄十年)の七堂がらん(今年、藤十郎『七堂がらん』に失敗すー元禄十年刊行『役者
        三所世帯』)のはやらざるはいかに。」なる詰問に対して、大臣は「はやるはやらぬはしばゐの事に限らず、
        万事につけて、幸、不幸ある事なれば、此人の難にあらず。」と反論し、藤十郎の芸の評価は、一つ一つ
        の芝居の人気不人気などには関りがないと一蹴するのである。この「役者口三味線」の返答であり、駁書
        でもある役者評判記が三箇月おいて、元禄十二年六月に刊行される。「口三味線返答役者舌鞁」である。
        ところがこの駁書は、藤十郎に関していえば、却って評価の調子が上がって、藤十郎はやつし芸ばかりで
        なく、身振りや動きの素早さ、面白さでも群を抜いていると評している。、従来、「飛んづ、跳ねつ」などの動
        きに欠けるという藤十郎の芸に対する批判について、この書では、「けいせい仏の原」での藤十郎の芸を
        引用して、「此度の仏の原に、左源太(岩井左源太、傾城奥州役)吉三郎(上村吉三郎、竹姫役)に所作
        をさせ、其身は立て見、いてみ、にげてみたり、すこしも間をかかさぬ事、拍子事得た衆のおよぶ事か、人
        にきゃうげんをさせ、身ぶりばかりにておもしろがらすは、天せい生まれついた名人、しかしそち立が目に
        およぶものではない。」と反論し、また不得手とされた武道事についても、「武道事、竹島(幸左衛門)山下
        (半左衛門)のやうにはなけれど、しっぱりとして(しっかりとして)しやうじん(生身・正身・なまみの意)の実
        事といふ物なるべし。たとへば大坂にての滝口、京にてのはしひめ、しゅじんにむかってのいけん、ま事の
        やうにおもはれ、諸見物も尤と同心す。」と弁護しているが、ここでは、むしろ「しゃうじんの実事」とか、「ま
        事」といった評語を用いて藤十郎の芸を積極的に評価しようとする評者の姿勢に、先ずは注目しておきた
        い。
                                                             (つづく)
         
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (14) (前編) 
                                          杉下賢三
\
         
         この年(元禄十二年)の冬、藤十郎のライバルであり、且つ親交のあった中村七三郎が「稲荷塚」とい
        う狂言を暇乞として、江戸へ帰った。七三郎は元禄十年の冬に上京し、同十一年正月上演の「けいせい
        浅間嶽」で古今未曽有の大当りをなし、その後も半左衛門一座に出勤していたのである。そして、「此の
        度、江戸山村座へ下る事になった年の暮、七三郎から藤十郎のもとへ置土産が贈られた。藤十郎も餞
        別に何か贈らねばと思っていた矢先、先方から置土産を貰ってしまったので、直ぐさま餞別を贈れば、ま
        るで、しっぺい返しをするようで面白くないと、何も持たずに七三郎方へ別れの挨拶に行き、二人は快く
        別れた。二人が別れて何日かたった暮も押し詰った十二月二十九日のこと、七三郎の江戸の自邸の門
        口に、何やら六人掛りで大きな荷物が運び込まれた。添えられた書状には、『坂田藤十郎より』とあるの
        で荷を開けてみると、何と!木枠に入った大壺が出て来た。七三郎は吃驚仰天したが、『藤十郎の贈り
        物とあれば、きっと心のこもった品物だろう。』と更に手紙を読むと『加茂川の水一壺お届けします。お正
        月の大福茶にでもお使い下さい。』とある。七三郎はすっかり恐れ入って『在京中にお付き合い願って、
        あの方のお気持ちは大体判ったつもりでいたのだが、このような贈り物を頂いてみると、あの方の心の
        深さは迚も推し量れない。』と、身内の者には勿論、会う人々に話して聞かされていた。」という話が「賢
        外集」に載っている。此の時、藤十郎は五十三歳、七三郎は三十八歳であった。七三郎は、藤十郎の「
        心の底深き事、はかりがたし」と述べていたそうだが、どうして藤十郎は、莫大な費用をかけて加茂川の
        水一壺を七三郎に送り届けたのだろう。考えてみるのも一興かもしれない。先ず一つには、江戸は水が
        悪いと聞かされていたのかもしれない。何しろ当時の加茂川の水は「京によきもの三つ。女子、加茂川の
        水、神社」(曲亭馬琴「羇旅漫録」)と言われた程の名水であったのだから。二つには、恐らく加茂川の水
        は京の都のシンボルでもあったろう。従って、この水を江戸に帰った七三郎に送る事によって、在京中の
        自分との親しき交友ぶりを想い出し、何時迄も京都の事を心に留めておいて欲しいという意味を込めて贈
        ったのかもしれない。三つには、江戸を含め(幾度となく江戸下りの要請はあったらしいが)、京都以外の
        地にはとても行けないという藤十郎自身の気持ちの表明だったのかもしれない。京都根生の役者である
        藤十郎は、生涯の内、大坂以外の土地へは何処へも行っていない。大坂は淀川を舟で上り下りするだけ
        だから、当時としては旅の内には入らない。兎も角、彼は京の地を離れようとはしなかった。京のふろや
        町に間口九間半、奥行三〇間程の豪邸を構え、京から動かぬように努めている。藤十郎の父親坂田市
        左(右)衛門が座本を努めていたので、若い頃から経営者意識が自然と身についていたのだろう。初代
        市川団十郎のように座本になりたがるという事もなく、無理なく時々座本の任についている。前にも述べ
        たが、芝居の仕組や趣向がよくないと、客を呼ぶ事が出来ないと考え、作者を大切にして、近松や金子の
        才能を尊重したのも、彼に経営者意識が強かったためである。しかも、彼は自分が所属する一座の繁盛
        ばかりを願っていたのではない事は、これも前に述べた元禄十四年(一七〇一)の京都三座の座組編成
        変えの際の藤十郎のとった言動、態度にそれは見事に表われている。三座いずれの座も繁盛するように
        心を配り、それを実行に移している。こうした藤十郎の意識、態度は、一座の大立者、座本の枠を越え、
        それは恰も京都劇界のチーフ・プランナー、プロデューサー的役割を自覚しているように見える。従って、
        当然、他の座本たち、役者たちの藤十郎に対する信頼度は極めて厚いものがあったろう。こうした藤十郎
        の立場であってみれば、易々と京都の地を離れる訳にはいかないのである。ともあれ、七三郎は藤十郎
        のこうした心を量り兼ねた。見抜けなかったのである。其れ丈人間が小さかったのだと言えば言えようが、
        藤十郎の心に未だ自己の心が及ばざる事を認識し得た七三郎も又、藤十郎に負けない心を持った役者
        であったともいえようか。「けいせい浅間嶽」(元禄十一年)、「けいせい仏の原」(元禄十二年)が上演され
        た此の頃が、元禄歌舞伎の最も充実した時期であり、藤十郎としても、この前後、それぞれ二、三年の間
        (藤十郎五十歳の頃から、五十五、五十六歳頃迄の間)が最も円熟した技芸を示し得た時期であった。だ
        が、そうした時期にあっても、元禄十二年(一六九九)正月に刊行された役者評判記「鋸末」(おがくず)を
        見ると、「此人むさしはしらず難波津とさくや此花の都とにて、やつし傾城買いの名人と誉をとり…座本をし
        ていよいよ威を日本にふるひ藤十郎と名をあらはし芝居さかへまします…よさ事はさしてしたまはず、ただ
        口さき一ぺんの芸なれど、舞台へにょっと出給ふより『やあ太夫本さまおでやった』と見物のくんじゅ(群衆)
        どよめく有りさま、一世や二世の芸者ではござるまい。いつも替らぬ米の食じゃといへば…いつ見てもかは
        った芸はしたまはず、同じような事なれど五味のあぢはひあって、きらふ人が独もない…」などと、少々底
        意のある誉め言葉を連ねた後、漢詩文体で「能(わざ)ヲ学ブ仁(ひと)ハ、世ト移ルコトヲ識ルニ、今日此
        頃ハ些(ちと)時ニ合ワズ(以下略)。」などと評し、その芸にも停滞が見え始めた事を指摘している。
         元禄十三年(一七〇〇)の藤十郎座の正月狂言では、源渡に扮した藤十郎は、同座二の替、近松作と
        いわれる「けいせい弘誓船」では、箱崎左門に扮して、その廓事、やつし事など「あっぱれ大出来。」(「役
        者談合衡」)と絶賛され、芝居の入りも「はんじょうの木戸場、にぎはふ梅ばちの(梅ばちは藤十郎の定紋)、
        実入もよしや世の中の、もちは餅屋の傾城事、大あたりとは是なりけり。」(「役者談合衡」)という状態であ
        った。さて、恐らくこの年の事と思われるが、同じ藤十郎座で「松風」という狂言が上演された(上演月・日、
        作者不明。近松作とも)。藤十郎はこの狂言で行平中納言、後にやつして髪結の忠兵衛という人物に扮
        して好演したのであるが、伊原敏郎はその著「日本演劇史」(明治三十七年刊)の中で、この狂言を例に
        藤十郎の技芸的特徴を次のように述べている。「蓋し行平と言へば歴史的な人物たること無論なれど、此
        の劇に於て示されたる主要な部分は、時代的なる中納言行平よりも寧ろ世話的なる髪結忠兵衛となりて
        姉妹(松風・村雨)を飜弄する間にあり。而も斯くの如き忠兵衛の科白は、行平の変身せるにはあらずして、
        寧ろ宛然たる元禄当時の町人たり。即ち、藤十郎は歴史的の人物よりも社会的の人物を得意とし、時代
        物よりも世話物に巧みに、尊き階級の卑き階級に零落せる謂はゆる『やつし』、又男女間の情事を演ずる
        『濡れ事』及び『口説』に於て其の長所を有し、而も其の滑稽と諧謔とに妙を得たる者なりき。(中略)要す
        るに彼が扮せる得意の人物は重きよりも寧ろ軽く、悲劇的よりも寧ろ喜劇的なりしなり。」と述べ、更に、
        「役者棕櫚箒」(元禄十一年刊)という役者評判記の一部「うれひ事よし。とかく此の人、傾城買に備はり
        たる所あるは、外の愁ひ事より傾城とワリフして色まじくろの(色けまじりの)怨泣、しんそこから能くうつり
        て悲し面白し。(以下略)」を引用した後、「即ち大尽に扮するに適当して最も傾城買を巧にし、滑稽のほか、
        悲哀の表情にも妙なりしかば、彼の『夕霧』に成功したりしならめ。」と結んでいるが卓見であろう。

                                                               (つづく)
         
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (15) (前編) 
                                          杉下賢三
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         元禄十四年(一七〇一)、それは藤十郎が都万太夫座の座本を止め、早雲座の立て立役の座につい
        た年であり、又親交の深かった近松とも一時別座する事になった年でもある。さて、前にも述べた京三
        座の座組編成変え直後の早雲座(座本大和屋甚兵衛)では、二の替狂言として「けいせい嵯峨野原」を
        上演。藤十郎は猿使いの泉州百助に扮したが、元禄十四年三月刊の「役者略請状」という役者評判記
        には、「当二の替りの猿つかひおもしろし。外のものゝ得せまじき所也。わけてくぜつ有べき所を猿にさせ
        て、自分のくぜつをさし置給ふ事かはっていよいよおもしろし。」という評もあれば、「『猿にくぜつをさせて
        其身くぜつをし給はぬをかはってよし』といふ評は不可也。此人けいせい買の名人とは第一くぜつ事上手
        成故也。其上手芸を猿にさせて、いきごみ計にてはかったといふ計にて、さのみ込入ておもしろしとはい
        はれず。」と批判する評もあったり、賛否こもごもといったこともあってか、芝居の入りは、言わば役者無人
        の都万太夫座(座本古今新左衛門)の近松作「けいせい富士見る里」の人気にも押されて不入であった。
        同年十月、早雲座では「今様能狂言 五番」を上演。藤十郎はその第四で吃りの役を勤めた。狂言の中
        で曲舞を歌って、事の訳を言うところがあり、好評であった。(近松の「吃又」の原型ともなったといわれる)
        藤十郎の吃りの演技については、前から定評があり、「耳塵集」に、「『村松』と言う狂言(上演年月は不
        詳)で、藤十郎は吃りの役を演じたが、その芝居の初日、彼が吃る度に観客はおかしがって笑った。芝
        居の出来もよく、評判も上々であったので、ある人がその夜、お祝いに行き『貴方の吃りは上出来でした。
        』と誉めた。ところが藤十郎はその上出来という誉め言葉に今一つ納得がいかなかった。『この度、吃り
        役をしようと思いついたのは、見物衆の心に何時もの芝居では藤十郎はせりふを沢山言う、今度は吃り
        の役なので、思っている事をちゃんと言う事ができず、可哀相だと思わせ、見物衆を泣かせようと思った
        のに、今日、ご見物は泣くどころか逆に笑われたのです。見物の皆様が笑われたのは私の工夫が足ら
        なかったからです。明日からは泣かせてみせましょう。』と言って案の定泣かせたのである。此の後、或
        る役者がやって来て、『ご見物が今日のように泣いたのはどんな工夫をなさったからですか。』と藤十郎
        に尋ねた。藤十郎は『吃りは、自分が吃りだということを自覚しているので、吃る所を人に聞かれるのが
        恥ずかしくて、常々努めて吃らないように気を付けるものです。だが、嬉しい時とか、腹が立った時など、
        要するに感情が昂った時には、日頃の嗜みを忘れ、理性を失って思わず吃ってしまうものです。だから、
        今日は吃らないようにして、嬉しい時、腹の立つ時、又おかしい時にだけ吃るようにしました。』と答えた。
        更に、先の役者が『けれども、初めからしまい迄、吃りのように見えたのはどういう訳でしょう。』と重ねて
        尋ねたところ、藤十郎は『言葉の出だしの部分を予め口の中で吃っておいて、声に出すところは吃らなか
        ったのです。口の中で吃るのだから、それに要する時間を念頭において、せりふの頭に間を置き、せりふ
        の出だしを遅れ気味にずらしただけの事です。』と答えた。」といった話がある。こう見える為には如何に
        見せればよいかといったこうした表現技術についての逸話は、この「耳塵集」に限らず「役者論語」の中に
        も枚挙に逞がないほど数多い。元禄歌舞伎の役者達のこうした表現技術に対する強い関心と飽くなき工
        夫の積み重ねが、彼らをしてプロの俳優たらしめ、歌舞伎を玄人の芸能たらしめる原動力になった事は疑
        う余地がなかろう。同年十一月、都万太夫座(座本嵐三右衛門)は顔見世狂言として新作「嵐百人鬘」を
        上演する事になった。此の度の顔見世興行の座本、嵐三右衛門(二代目)は大坂の座本を止めて上京し、
        都万太夫座の座本になったのだが、病を得て一日も出勤する事なく十一月七日に急逝するという事件が
        起り、急遽、古今新左衛門を座本に立て、芝居は何日か遅れて開演された。藤十郎は此の狂言で春永
        元方之助に扮したが、その演技について、役者評判記「役者二挺三味線」(元禄十五年三月刊)には、「
        顔見世春永元方の助になられ三笠殿(三笠城右衛門の事。この芝居では、千石舛右衛門という浪人役。
        元方之助は故主に当る。後、元方之助を裏切り敵役となる)にかくまはれ、いもとかざし(山下亀之丞扮す
        る)と密通し、あらはれてめいわくせらるゝあたり、惣じて此格の芸、三ケの津に絵にかかふと言ふてもな
        い。」とあり、かなりの好演だった事が判る。実は、大正期、菊池寛の「藤十郎の恋」の典據となった「賢
        外集」にある藤十郎の逸話は、この狂言上演に際しての話かという説がある。その大概を紹介すると、「
        藤十郎が祇園の或る料理茶屋の内儀に恋を仕掛けた。いよいよ思いを遂げようとした時、その内儀はす
        すんで藤十郎を奥の小部屋に連れて行き、直に入口の灯を消した。所がどうした事か、藤十郎はその場
        を逃がれ帰ってしまった。翌日、藤十郎はその料理茶屋へ行き、内儀に向って『お蔭様で次の芝居の稽
        古が出来ました。今度の芝居では間男の役ですが、今迄一度もそのような体験をした事がないので、ほ
        とほと演技に困り、その為開演が遅れておりました。興行主からは早く初日を出したいと何度もせがまれ、
        昼も夜も考えあぐんでおりましたが、何しろ、間男の稽古を男相手でしたのでは、情がうつらないので少
        しも稽古になりません。だが、此の度私の念願が叶って昨夜は稽古を致しました。そして今朝、興行主に
        明後日に初日を出すよう言ってやりました。』と厚く礼を述べられたのである。この話を聞いた一座の人
        達は『さすが名人と呼ばれる人の心がけは、凡人の知恵の及ばないところだ。』と唯々感心するばかり
        だった。」という話に『賢外集』ではなっている。当世風の倫理感からすれば、内儀の心を弄んだ藤十郎
        は許し難いとか、藤十郎は余りにも利己主義だなどと非難できよう。しかし、「賢外集」の話自体は、藤十
        郎の実際を見て写そうとする芸熱心を称揚する目的で載せられている話で、結びが「一座の人々扨々名
        人と呼るゝ人の心がけは、凡慮の外なる事と手を打ぬ。」とある事でもわかろう。さて、この逸話の主、藤
        十郎に対する研究者達の評価は可成区々である。その中で守屋毅は「一つの役を演ずるに当って、か
        ほどまでに苦心したという美談になっている。しかし、この話、藤十郎の素朴写実論の限界を示すばかり
        である。未経験のことがらを舞台で表現できない役者とは、何と想像力の乏しい芸術家であろうか。」(
        「増補役者論語」)と、なかなか手厳しい。一方、守随憲治は「如何にも藤十郎が写実的の演出に苦悶
        した跡がよくわかる。細かな動きは解らぬけれど、彼自身が密夫としての心持だけを考へたものではあ
        るまい。相手の妻女の動き出す心持をも観察したのであろう。とにかく演出の研究がここまでこなければ
        納得できなかったのである。」(「役者論語」)とかなり同情的であると共に、役者藤十郎よりも、演出家
        藤十郎の立場を評価している点で、守屋の評言とは異なる。さて、この話のポイントは「密夫の稽古を男
        に出合もらひては、其情うつらねば、ひとつも稽古にならず。」にある。藤十郎は此の時、都万太夫座の
        立て立役の地位にあり、一座の役者達ヘの演技指導、助言も行わねばならない立場にあった。でなくて
        も、藤十郎という役者は平常から同じ舞台に出る役者達には、一つ一つのせりふ、一つ一つの仕草に至
        るまで事細かに注意を与え、指導も怠らない役者だったのである。「耳塵集」に次のような逸話が載る。
        「其の頃、女かた、若衆がた、立役、道外、親仁方に至るまで、藤十郎の相手役を勤める役者は、皆上
        手に見えた。というのも、せりふの言い方から、息の継ぎ方、様々な動作までも、藤十郎が自らやってみ
        て教えたからである。役者達はすべて藤十郎に心酔しているので、彼の教えに背かない。教えられるま
        まに演ずるので、格別によく見えたのである。」と述べられている如くである。密通の相手の妹役は男性
        の女形であり、稽古の時も男装だっただろう。しかも、此の度の密婦になる「升右衛門の妹かざし」役は、
        山下亀之丞という漸く京都の若女方之部で「中」の位付けを得た(「役者二挺三味線」)ばかりの新進の
        俳優であった。「おぼこに見へ」(「役者二挺三味線」)るのが取柄の相手役であってみれば、藤十郎が
        「其情うつらねば、ひとつも稽古にならず。」と嘆き、当惑し、苛立つのも無理ではなかろう。そこで、立て
        立役という自らの立場からしても、守随も述べているように、自ら密通体験をして密夫としての心の動き
        や行動の推移などを観察し、自らの演技表現の中に生かそうとだけ考えていたのではなかろう。寧ろ、
        密通場面での密婦側の心的、身体的な反応を冷静に観察し、それを舞台での相手役である若い亀之 
        丞のせりふを含めた仕内の指導に役立てたい、そうしなければ、此の芝居は成立しないと考えたに違
        いない。であるなら、こうした切羽詰った「恋のしかけ」の中で、私は、観察者としての藤十郎の凄味を
        そこに感じるのである。どのような緊迫した状況の中にあっても、他人の事を冷静かつ客観的に観察し
        得る目、さらに自己までも突き放して観察し得る醒めた目、そうした藤十郎の目はもう役者の目というよ
        り、それは「演出家」の目と言うべきであろう。
                                                               (つづく)

               古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (16) (前編) 
                                             杉下賢三


         元禄十五年(一七〇二)の都万太夫座(座本古今新左衛門)の初芝居は「小栗」の狂言(「天照姫大言
        葉」)であった。藤十郎は小栗判官に扮したが、「てるてにあふて大蛇とちぎりしはなしの仕やう、三男の
        三郎をなぶらるゝいきかた、岩上源太が引立ゆく時、池の庄司(中村四郎五郎扮す)やれかまふてくれと
        めいわくせらるゝあたり、おかしうてはらをよった(「役者二挺三味線」)」などと好評であった。続く二の替
        は、久し振りの近松作品「けいせい壬生大念仏」が上演され、取り分け藤十郎の糟買のやつし芸が熱狂
        的な人気を博し、大当り狂言となった。同年春、後日狂言として近松作の「女郎来迎柱」、更に、後日の
        後日狂言として同年秋、近松作と推定される「壬生秋の念仏」と上演され、秋一杯まで持続するほどの評
        判となった。藤十郎五十六歳、その藤十郎と一年ぶりに手を組んだ近松門左衛門五十歳の輝しい成果で
        ある。「けいせい壬生大念仏」は、題名が示すように京の壬生寺の本尊地蔵菩薩の開帳を当て込んで書
        かれたもので、「けいせい仏の原」などと同じく大名家のお家騒動が枠組みになった作品ではあるが、そ
        こに悲劇的要素も加わって、一段と深みを増し、近松の歌舞伎狂言中の傑作の一つとして知られている。
        藤十郎扮する高遠民弥は、備後国の国主高遠家の惣領であったが、京都島原の傾城道芝(霧波千寿扮
        す)との愛に溺れて出奔。酒の糟買いに身分をやつして現れ、藤十郎得意の仕方咄による傾城買いの独
        狂言をたっぷりと演じてみせ、「仏の原」の梅永文蔵の廓咄と共に彼の最高の当り芸とした。又、中の巻で
        の中村四郎五郎扮する高遠家の忠臣、三宅彦六が吾子とは知らず、禿を殺害して金を奪う幼児殺しの運
        命的悲劇の場など、各場に盛り沢山な趣向を凝らし、それぞれの役者たちの得意な技芸を生かした、正に
        円熟の名狂言となり得ている。江島其磧は、前にも掲げた役者評判記「役者一挺鼓」で此度の狂言におけ
        る藤十郎の演技について見事な分析批評を行っている。「扨此度二の替り傾城壬生大念仏に、高遠民弥
        になられ糟買のやつし、近来の出来物、それ故に大あたり。……先酒に酔ての糟買の出端、凡三ケ津に
        是程に移す人は又も有まじ。難波にて大和屋殿(大和屋甚兵衛)がせらるれど、惣躰身ぶりからがちがふ
        ……此人(藤十郎)のせらるゝは、其まゝの酔助也大和屋殿は狂言と見ゆる。もちろんはなばなしければ、
        おもしろき所もあれど、芝居猿の粋共は、此人の糟買を悦ぶ事まぎれなし。そなたのやうな粋顔する素人
        がいふには、此度の糟買の嶋原狂ひの長咄と、仏原(「けいせい仏の原」)の咄とがおなじやうにいへど、
        天地黒白のちがひ也。仏原の咄は酔ずして実に誠を語れり。今度の糟買は酔て夢中のごとく、しかも空
        なる事をいへり。しかれば仏原の咄よりは、此度の咄が大きにむつかしく、実めきたる所有ては、末々迄
        の狂言のわけたゝぬ所、いひなづけのかつ姫(浅尾十次郎扮す)にあふて咄にしこり、備後の国をあかし、
        起請の文段を咄すとて、我名をいはるゝあたり、さながら夢中のごとし。こゝらに少にても狂言らしき所あれ
        ば、見物のいかう請取ぬ芸じゃ。お見やる通少も狂言躰にあらず、其儘の酒の酔なり。次に酔醒て、我と
        我名をあかせし事を後悔して、口をつめりなどせらるゝ所、始真の酔らしう見えし故に、此所一倍はっきり
        と聞え侍る。(後略)」其磧は藤十郎の技芸の内部へと入って行って、そこに素人衆(「芝居猿の粋共」)に
        は見えない無数の相違を発見しようとする。とりわけ「けいせい壬生大念仏」の糟買の嶋原狂いの長咄と、
        「けいせい仏の原」の梅永文蔵の廓咄との違いなどを丁寧に分析して見せる所など、見事という外はない。
        ともあれ、この度の糟買いの演技が如何に「入神の技」であったか、それを象徴的に物語る逸話が、宝暦
        十二年(一七六二)正月刊行の歌舞伎劇書「歌舞妓事始」に見える。「初代坂田藤十郎が延宝年間(元禄
        年間の誤り。正しくは元禄十五年)「壬生大念仏」の芝居で古糟買の役に扮し、自分は揚屋に居ないで、せ
        りふと身振りによって、傾城買のあらましを演じてみせたことがあった。その場面、初日・二日目までは、観
        客はさほど喜ばなかったので、もう一度稽古をやり直そうと、藤十郎は相手役を誘って夜ふけまで稽古をし、
        さまざまに苦心を重ねているうち、夢現の状態に陥ってしまった。と、古糟買の荷を担いだ者が現れ、その
        一声二声呼わる様子が、賎しい姿ながら如何にも気品があり、暫く所作をして橋懸りを入って行った。退場
        した後も、まだ藤十郎は役に心を奪われて、茫然自失。側に居合わせた二、三人の者もこれを見て、まる
        で此の世の者ではないと思ったのだろうか。気絶してしまった。藤十郎は此等の有様を見て初めて我に帰り、
        不思議な体験をしたと、帰宅してから更に工夫を重ね、翌日の演技は、人々に大変な感動を与えた。それ
        からというもの、此の芝居を何回上演しても、何時も好評だった。これは、全身全霊を込めた芸の力なので
        ある。」といった話である。役を作るという事が近代と前近代とでは如何に違うかを示している。。我々の常
        識では、役作りの際には、その過程で何らかの分析なり、再構成なりの理性的処理が介在するものだが、
        ここでは稽古を積み重ねていく内に「うつつ」となり、遂には人間離れして「怪しのもの」を体験するに至るの
        である。ある種の精神的没入から来る幻相といえよう。己を空しうして憑依する行為に近い。まさしく、「これ
        芸の精」といわねばならない。芸能がその源流において、何がしかの神仏の霊験に結びついていた名残り
        が、此の頃には未だなお生きていたのである。とにかく、「けいせい壬生大念仏」は大当りであった。
        その要因の最も大なるものは、近松の狂言台本が優れていた事もあろうが、何といっても藤十郎の、右の
        ような芸の工夫もあっての彼の卓抜な技芸に負うところが多い。前掲の「役者二挺三味線」にも「此度のあ
        たり、もちろん四郎五郎殿も出来さるゝとはいへど、おほくは此人一人のはたらきゆへに大あたりといへり。」
        とあるが如くである。
         ところがである。折角「けいせい壬生大念仏」で一年ぶりに提携が復活し、大成功をおさめた藤十郎と近
        松との連携も、此の年の秋をもって完全に終焉する。具体的には「けいせい壬生大念仏」の三の後日狂言
        「壬生秋の念仏」を最後に、藤十郎は近松の作品に出演しなくなる。近松自身は、その後も宝永二年(一
        七〇五)頃まで、他の役者たちの為に六、七編の歌舞伎狂言を書いてはいるが、秀作とはいえず、近松の
        関心は、漸く歌舞伎から離れ、再び浄瑠璃の方へと移っていくのである。では、何故この時期に近松は藤
        十郎のもとを去り、浄瑠璃界へ接近していったのか。実は、その要因はよく判らない。後述する藤十郎の健
        康の衰え、それと共に歌舞伎が沈滞し始めていたのに対し、今や、円熟期を迎えつつあった竹本義太夫を
        中心とする浄瑠璃界が生新かつ意欲的な活気を感じさせるような状況になっていた事。浄瑠璃の方が歌
        舞伎よりも作品への自主性が重んじられる上に、彼が意図する悲劇の具象化にも適した様式であった事。
        座中において義太夫に次ぐ厚遇を与えられ、物心の安定が保証された事などが指摘されてはいる。だが、
        ここでは、近松の側に起った一つの事件を、その転機の重要な契機として考えてみたい。一つの事件とは、
        元禄十六年(一七〇三)四月七日(二十三日とも)大坂曽根崎天神の森であった若い男女の心中事件であ
        る。その心中の噂は忽ち大坂中を駆け巡った。この年の四月の初め、近松(五十一歳)は遇々京都から大
        坂に来ていて、この事件をいち早く耳にした。この時、頼まれて書いた「曽根崎心中」は同年五月、道頓堀
        竹本座で初演され大当りとなった。近松は浄瑠璃の世界に初めて「心中」という生々しい現実(世話の世界)
        を持込んだのである。歌舞伎作者ならではの発想だが、「世話事の最初」であるこの「曽根崎心中」の大成
        功は、竹本座にこうした新しい冒険的な企画を今後も積極的に取入れていこうとする気運を開いた。また、
        竹本座の最高位の太夫で、一座の柱でもあった竹本筑後掾(義太夫)が竹田出雲に座本を譲り、自らの芸
        に専念出来るようになった。代って出雲が一座の経営責任を引受け、竹本座は経営的に安定する。更に、
        人形遣いの名手辰松八郎兵衛が登場し、未だ一人遣いながら、かなり複雑な人形の動きを見せる事が出
        来るようになった。一方、今迄互いに新しい歌舞伎作りにと琢磨して来た坂田藤十郎が宝永期に入るや身
        体の不調を訴え、舞台から遠ざかる事が多くなっている。そうした流れの中で、近松は新生竹本座の中に
        自身の文章力を活かすより有効な場を見つけた。こうして、近松は漸次歌舞伎界を離れ、やがて招かれて、
        宝永二年(一七〇五)から竹本座の座付作者の道を歩んで行く事になるのである。
                                                               (つづく)
        
               古今東西名優列伝

                
         寛濶役者 坂田藤十郎 (17) (前編) 
                                          杉下賢三
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          話を藤十郎に戻そう。ようやく「けいせい壬生大念仏」ブームが一段落着いた元禄十五年十一月の顔
        見世興行から翌十六年の初春興行頃迄の都万太夫座(座本都万太夫)は、当り狂言が続いた。その主
        な功績はやはり藤十郎の優れた技芸にあった。それは元禄十六年(一七〇三)三月刊行の役者評判記
        「役者御前歌舞妓」の藤十郎の項に「顔見せ此かた、あたらぬ芸一つもなし。」といった評言からでも判
        るであろう。では、個々に見ていこう。まず、元禄十五年十一月の都万太夫座(座本同人)の顔見世狂
        言「嫁入小袖」では、藤十郎は滝口田原之助に扮し、得意のやつし芸で好評を博した。翌元禄十六年、
        五十七歳になった藤十郎は同じ都万太夫座の初狂言「年徳神」では太郎君に扮して好評。前掲の「役
        者御前歌舞妓」には、「扨初狂言に太郎君と成、きつねにたましひをうばはれし故に…あとやさきそろは
        ぬ詞つきよし。後に正気になって、花月の介(京右衛門役)とのつめひらき、どうもいはれぬ武士のぎり
        づめのしうたん、お上手お上手。」などとある。更に、同座の二の替狂言「けいせい宝寺」では藤十郎は
        歌之丞に扮し、これ又好評であった。同じ評判記の「役者御前歌舞妓」には、「此度のげいさのみ大役
        にはあらね共、中々むつかしき仕所也。只芸を我物にしてなづまず、平生のやうにして、しかも狂言成
        事、八万四千の舌をもってほむる共、ねんもないこと、ねんもないこと。」とあり、この時点では藤十郎は
        未だ元気で活躍していた事がわかる。ところが、宝永と改元された(三月十三日改元)宝永元年(一七
        〇四)前後から、藤十郎の身体に変調が見られるようになり、遂に、都万太夫座の初狂言。二の替狂言
        を休座した。その為、平常なら正月、或いは三月に発刊される筈の役者評判記が藤十郎の休座の事も
        あって四月へ遅延することになった。異例の事である。この宝永元年四月発刊の役者評判記「役者舞
        扇子」では此の刊行遅引の理由を「口上之覚」の中で、「当春の評判、例年より延引に罷成候こと、定
        而御侍兼可被遊と奉存候へ共、御存知の通、京三しばゐ、当二の替、さのみ大当りもみへず、其上坂
        田殿、三の替より御出のよし承候故、迚のぎに、藤十郎殿御出を待候而此評をのせ度、三の替迄相待
        候故、只今に罷成候事」と述べ遅引の断りとしている。兎も角、この事態は未だ京都の劇界は藤十郎を
        抜きにしては成立ち難い側面があった事を物語ってもいよう。「口上之覚」にもあった宝永元年三月の都
        万太夫座(座本同人)の三の替狂言は、例の夕霧狂言「夕ぎり名残りの正月」であった。藤十郎はむろ
        ん藤屋伊左衛門役で出勤。夕霧役は何時もの霧波千寿ではなく、若手の山本哥門(かもん)であった。
        前掲の評判記「役者舞扇子」での藤十郎の伊左衛門評に、ついては、「先年仏の原の格式なれど」、
        「夕霧をなかす是も古きことなれ共」、「いつもといひながら、取分おかしく」、「とかう申されぬ大出来、是
        でこそ是でこそ」など、新味には欠けるものの、堅実な演技が好評をもって迎えられたとしている。たヾ、
        評言の終りの部分に、「此上手げいを、病にうづもらしてをかんかと思ひしに……」とあり、彼の病いが未
        だ十分に治癒していない事も伺わせている。続いて、藤十郎は、同座の四の替狂言、金子吉左衛門作
        「市川団十郎百ケ日」に家老役で出勤し、若衆方の名手、小野川宇源次と「ぬれ一道を衆生にしめ」して
        「大あたり狂言」(「役者舞扇子」)とした。ところが、此の後、病患が再発したのか、手足の痺れ、言語障
        害などの後遺症に悩む事が多くなる。宝永二年四月刊行の役者評判記「役者三世相」に、「去年御病
        後より、いまだ詞長に物いはるゝ時は舌内まはりかぬる所有。苦にならぬかしらね共、ひいきに思ふ心
        からいかふあやしう、跡にあたりはせまいかと思ふほどにござる。」と書かれ、去年(宝永元年)羅患した
        事と、後遺症が宝永二年になっても完治していなかった事がわかる。ともかく、宝永二年(一七〇五)、
        五十九歳になった藤十郎は昨年来の中風の後遺症に悩まされながらも舞台に立った。子息の坂田兵
        七郎が初めて布袋屋座(縄手芝居)の座本となり、その太夫元初芝居だったからである。藤十郎は松ぐ
        れ江口の丞という役を勤めたのだが、かなり無理しての出勤かと思われる。この松ぐれ江口の丞という
        役は、藤十郎得意の傾城買の役柄ではなく、かなり実事がかった役柄であったらしい。この時の藤十
        郎の演技について「役者三世相」には、次のような評言が見られる。「実事山下(半左衛門改め京右衛
        門)よりおとれるやうにいはるゝはあやまり。惣じて実事に真草の差別あり。此人の実は真の実也。当
        春顔みせに、松ぐれ江口の丞となって、庄司左衛門(安達三郎左衛門扮する)を打て女房おみす(浅
        尾十次郎扮する)を離別せらるゝ所、至極の実事也。今若手の実事は草の実とて、花ばなしき計にて
        誠めかず、此人の実は真の実というものよく見覚た。」とある。即ち、此の評者、江島其磧は、一般に
        実事の芸と言っても、真書(楷書)体の実事芸と草書体の実事芸とがある。藤十郎が演じる実事は、今
        の若手の花々しいばかりで、誠のない草書体の実事芸ではなく、花やかさには欠けるものの、真実味
        の濃い実事芸なのだということを強調し、従来実事に定評ある山下京右衛門や竹島幸左衛門などとは
        違った意味で、藤十郎の実事芸も見所がある事を評してみせたのである。だが、この芝居、病後を押
        しての藤十郎の健闘はあったものの、「役者三世相」に「藤十郎殿御子息、初て太夫本新芝居の顔見
        せ、正月廾五日よりと出し、廾九日迄延しゆへ間ぬけがしてぶ繁昌気の毒に思ひました。」とある通り
        不入りに終ってしまった。続く同座では、二の替狂言として三月三日から「けいせい因旛松」を上演す
        る。この狂言は、先に大坂の片岡座(座本片岡仁左衛門)の二の替狂言として大当りをとった「けいせ
        い沖の石」を殆どその儘に演じたもので、「京でもまんまと大当り」(「役者三世相」)であった。従って、
        役者評判記などの論評の多くは、京、大坂での役者それぞれの演技の相互比較が論点となっている。
        藤十郎は花筏百次郎役で出勤した。藤十郎のこの役は、大坂では杉山平八という役者が勤めていた。
        平八は此の当時未だ若輩でかなり格下(「役者三世相」の位付けでは「中の上上」)の立役役者であっ
        た。ところが、この二人の演技を比較した「役者三世相」では「此度の役目は大坂片岡座にて杉山平
        八せらるゝ所也。杉山と合てみてはかくべつな所多し。いふもくだながらそれ程かくべつなちがいあっ
        てからが、杉山方しと見ゆる。……はじめの日雇はともかくも、切のたばこやに成て大臣に急にかね
        のむしんの所、京大坂を見くらべるに、杉山があたりおびたゞしく、見てもさりとはおかしい也。いかにし
        ても坂田氏は似合ぬ也。……坂田氏といふ三ヶ無双の名人と、人毎に思ふて見るゆへにや、杉山ほ
        どにあぢをやるとはいはれず。……とかく替った事をと工夫仕過しぬれば、……却て興のなきもの也。」
        と評され、二人の演技には相互にかなりの相違があったが、その上で杉山の演技の方が良かったと
        評定している。何故そうなったのか。役者評判記の評言をまとめてみると、先ず、此の役柄は藤十郎
        には「おかしい」「似合ぬ」ものであった。即ちミスキャストだったと言うのである。その事は恐らく藤十 
        郎も感じていた事と思われる。それに大坂で評判だった杉山を意識するものがあったのかもしれない。
        兎も角、藤十郎にあるまじき気負いがあったようだ。「とかく替った事をと工夫仕過しぬれば」という評
        言がこれを裏付けている。ところが、その工夫は今一つ効果があがらなかった。今迄、役の工夫には
        精魂を尽くして来た藤十郎にあってみれば、更に工夫を重ねたであろう。だが、それらは「却て興のな
        きもの」になってしまったのである。此処に、藤十郎の体力や技芸の衰えを見て取る事は容易い。更
        に、この評判記では「二の替りはけいせい事にさだまった事と、犬うつわらんべもがてんしてゐる事」
        を藤十郎が今度のような役柄を演じるに至った事が不評の原因であると言うのである。そして「皆人
        此坂田殿けいせいかいを江戸の為替ほどまっていた」のにとある。京の見物衆は此の二の替に恒例
        の藤十郎の傾城買狂言を心から待っていたのである。こうした京の見物衆の期待を大きく裏切った
        藤十郎であってみれば、ある程度の不評は致し方がないとでも言いたいのだろうか。其の上にである。
        前にも述べたが「去年(宝永元年)御病後より、いまだ詞長に物いはるゝ時は舌内まはりかぬる所有。
        」(「役者三世相」)などとあるように、病後の後遺症が彼自ら特技としていたエロキューションに支障を
        来たしていたのである。藤十郎は元々せりふ術には自信があった。驚くほど長い独白も得意の話術
        で訳もなく克服した。例えば、込み入った筋の説明や過去の経緯なども観客に容易に理解させ得た。
        それらが今回十分に機能しなくなったのである。その事がまた藤十郎の芸の衰えに一層の拍車をか
        けた事であろう。追い討ちをかけるかのように、藤十郎の技芸に対する厳しい批評は、これに止まる
        事はなかった。藤十郎と言えば、「都名物男当流ぬれ事の開山やつし事の名人、けいせい買は古今
        似た人なし。」(「役者略請状」元禄十四年三月刊)、或は、「けいせいかいの随一、くぜつぬれごとの
        開山」(「役者三世相」)と称せられ、揺るぎない評判を得ていた役者である。それが今回揺るぎ出した
        のである。それを幾つかの役者評判記から確めてみよう。先ず、前掲の「役者三世相」では、「けいせ
        いかいくぜつの開山とはいはるゝは聞へたが、ぬれごとの開山とはいはれまじ。ぬれごとはお江戸の
        中村氏(中村七三郎)などのせらるゝは、くゝんで持程うまし。此人(藤十郎)のぬれはお年ゆへか、
        ぞくぞくする程ぬれにうつる事なし。」と評し、藤十郎の事を傾城買口説事の開山とは言われまい。が、
        濡れ事にかけては江戸の中村七三郎などの方が若くてうまいからである。今の藤十郎には年のせい
        か、ぞくぞくするような濡れ事は似合わなくなっていると断じている。また、「「役者友吟味」(宝永四年
        三月刊行)でも、「ぬれやつしの名人とはむかしの事成ベし。やつしは数年の功にておもしろし。ぬれ
        はさりとはうつらず。第一にやはぬやうにみへ侍る。」とあり、藤十郎が濡れ事、やつし事の名人と言
        われたのはもう昔の事。やつしは、まだ長年の経験でおもしろい所があるが、濡れ事はもう似合わな
        くなっていると、藤十郎の濡れ事の芸に疑問を呈している。さらに、「役者色将棊大全綱目」(宝永五
        年正月・二月刊行)では、「三ケの津に坂田殿程の大臣なしとは心得ず。京大さかにては御大臣、お
        江戸にては中村七三郎殿。坂田氏と合いてはきりやう七三郎殿方ばつぐん由、諸人のおもひつき各
        別なり。分けてけいせい事ぬれ事はわかいときりゃうが第一、七三郎殿きりゃうがよふておとしわか、
        夫ゆへしょ芸はんなりとしてよし。いはゞ春の桜を見る心地せり。坂田殿は秋の紅葉と存る。今三ヶノ
        津で当流の大臣と申は、七三郎。古風の大臣は藤十郎、とかくきりゃうと年若でなければうつらず」と
        まで書くのである。特に、傾城事や濡れ事は若いという事と、器量がよいという事が最も大切である。
        江戸の中村七三郎は、その二つを兼ね備えており、それ故に総ての芸がはんなりとして結構である。
        言わば春の桜を見る思いだ。それに比べて、藤十郎の芸は秋の紅葉とも言うべきかと藤十郎の傾城
        事、濡れ事の芸に対して、相当厳しい評言が見られるのである。元来、傾城事、濡れ事は初代嵐三
        右衛門の衆道事からでたもので、元禄の初め頃は三右衛門の傾城事、濡れ事は、既に「古流」呼ば
        れていたのに対し、藤十郎のは「当流」と称されていたのである。それが時代を経て、宝永期に入ると
        藤十郎は老い、患い、そして芸の衰えまで云々されるようになった。そして今や「三ヶノ津で当流の大
        臣と申は、七三郎。古風の大臣は藤十郎」とまで評されるようになった。当流の濡れ事師は何時の間
        にか古流となってしまった。この時点で藤十郎に「或る重大なる決意」を促すものがあったに違いない。

                                                              (つづく)
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (18) (前編) 
                                          杉下賢三


         ところが、宝永三年(一七〇六)、六十歳になった藤十郎は不死鳥の如く甦った。前掲の「役者友吟味」
       (宝永四年刊)に「近年御病気にて、身ぶり物いひむかしのごとくならずきのどく成しが、去年より御快気に
       て身ぶりも物いひも能、去戌の年中(宝永三年中)の芸おもしろし。」とある如くである。但し、個々の芸評
       については、誉褒貶、相半ばといった処ではあったが…。先ず、同年の正月、都万太夫座(座本同人)の
       二の替狂言「けいせい安養世界」に出勤し、大尽松崎屋八兵衛に扮した。だが、此の時の藤十郎の演技
       については、役者評判記「役者友吟味」の批評では非常に手厳しいものであった。昨今の藤十郎の濡れ
       事はうつらず、似合ねぬとした後、「取りわけ去年(宝永三年正月の二の替狂言「けいせい安養世界」の
       大臣八兵へはゆるしたまへ。山下(京右衛門)の表太よりはるかにおとりておかしからず。」とあり、又、
       「高遠民弥(「けいせい壬生大念仏」の主人公)のかすかいの芸と、大臣八兵への芸とは、伽羅と灸の蓋
       程ちがふたものじゃ。かすかいは酔て来て、うつゝにけいせいぐるひのはなしをして、さまざま手のこもっ
       た芸がおほふかった。大臣八兵へは花崎にあはふ計に、気ぬけのした八兵へなんの手のない芸。なん
       ぼ坂田殿でも、出来ぬ事は出来ぬといはねば講をむすんで大勢寄合しての評判の詮がない。」と切り捨
       てている。さらに、狂言の「惣躰のしぐみよろしからざるゆへに」藤十郎も仕所がなく不出来になったのだ
       という擁護論に対しても、「しぐみがわるきゆへ出来なんだとは、猶以ふづまりな云ぶんじゃ。しぐみはわ
       るかったがさすが坂田程ある、大臣八兵へが所はおもしろふようはしたとこそいふべきはづを、しぐみが
       わるきゆへに八兵へもすぐれなんだとは、ひいきの沙汰にして本評にあらず。」と容赦もない。同じ不評
       でも、昨年の「けいせい因幡松」の花筏百次郎役の不評は、藤十郎には「似合ぬ」役柄だった事と、京の
       観客が切望していた藤十郎得意の傾城事、口舌事でなかったことの不評という一面があったが、今回の
       「けいせい安養世界」の大尽八兵衛役の不評は、藤十郎得意の傾城事が仕組まれていたにも拘らず、
       不評であった事は益々彼の芸の衰えを裏付ける結果となってしまった。この狂言の切として、お万、源
       五兵衛の心中事件を扱った「鳥辺山心中」が上演されたが、藤十郎は刀鍛冶のしづの孫三郎という役
       に扮して、若い小野川宇源次(源五兵衛役)や滝井半之助(お万役)の脇を支えた。この後、藤十郎は
       同座で例の「夕霧名残の正月」で伊左衛門役で出勤。又、同座の盆狂言の「二日曽我」には得意の十
       郎祐成を演じ、「いつとても祐成のお役目一しほ出来ばへいたす。凡三ケの津に名人おほしといへ共、
       十郎らしくさながら誠の祐成をみるやうなは此人の十郎也。」(「役者友吟味」)と称賛されている。いず
       れも手慣れた狂言の得意の役柄で面目を保ったと言う所であろうか。更に秋になって、同座で上演され
       た新作「女座禅紫雲石」では藤十郎は、はだの左近ノ丞に扮し、十一月の顔見世興行には万太夫座か
       ら早雲座(座本竹嶋幸十郎)に転じ、「助六心中紙子姿」という狂言に出勤、能がかりの所作をする役を
       演じた。評判記には、「顔みせの能間がかりの狂言の出端、松をすくとのしゆかう、日本第一けいせいか
       いの元祖なれば、松をすくの下心おもしろし。」(「役者友吟味」)とあり、趣向のおもしろさを評価している。
       なお此の時、主役の助六を演じ、評判を得たのは、当時大坂から初上りして来た若手立役の大和山甚
       左衛門であった。同座した藤十郎は、そのはんなりした柔らかな彼の演技を目の辺りにし、大いに注目
       した事であったろう。此の年、藤十郎は正月興行から十一月の顔見世興行迄、年間六本余の狂言をこ
       なす大活躍ではあったが、手慣れた狂言では主役として面目を保ち、新作の多くは、主要な役は他の
       役者に演じさせ、自らは脇に回って支える事が多かったのである。
        而して、翌、宝永四年(一七〇七)、六十一歳になった藤十郎は以前から考えていた「或る重大なる
       決意」を実行に移すことにした。同年、早雲長太夫座(座本竹嶋幸十郎)の二の替狂言「石山寺誓の湖」
       で、夜番の久助(実は播州若松家の家来、大井仙左衛門)に扮した藤十郎がかの大和山甚左衛門(若
       松家から江州志賀郡の高富家へ入婿した若殿百太郎役)に劇中でやつし事の象徴である「紙子」を譲
       って傾城買いの技芸を指南したのである。老いと患いなどにより、芸の衰えを自覚した藤十郎が甚左
       衛門こそ自分の芸風の後継者として相応しく、将来も又有望であると考え、芝居に擬えて、勘当された
       百太郎が寒さ故に夜番久助に紙子羽織を借り、二人で曲輪へ揚がる設定の中で、藤十郎得意の傾城
       事、やつし事の技芸を甚左衛門に伝授したのである。この紙子譲りの件について、当時の二点の役者
       評判記を見るに、先ず「役者友吟味」(宝永四年三月刊)には、「扨当二の替り石山寺(「石山寺誓の湖
       」)に、夜番久助となられさまざまのたはごと。別して此度かんじ入しは、其身はけいせいかいをやめて
       大和山殿にかはせ、指南せらるゝ所いかにしてもおとなしし。殊に去冬年来夕霧にて名をとられし御家
       の紙子を、大和山甚左(衛門)殿の芸のきりやうを見てゆづられしよし、世間に此風聞をさせて、此度の
       二の替りにすぐに紙子をやらるゝなど、前方の噂から持込で来た紙子なれば、一しほあたりつよし。」な
       どとあり、今一つの「役者色将棊大全綱目」には、前にも引用した「今三ケノ津で当流の大臣と申は、七
       三郎。古風の大臣は藤十郎。」とあった後、「とかくきりやうと、年若でなけねば、けいせいぬれ事うつら
       ずとおぼしめして、大和山殿に、紙子羽織をゆづり給ふ。……当流古風桜紅葉のたがひ、それ程の事
       は坂田殿腹中にも合点はある。それゆへ大和山殿に古風をやはらげ当流となし、紙子羽織をゆづり給
       ふ。」と紙子譲りの経緯や意図などが述べられているのだが、ここで注目すべきは「年来夕霧にて名を
       とられし御家の紙子を、大和山甚左殿の芸のきりやうを見てゆづられし」ことである。藤十郎は、自らの
       名跡や自身の芸を息子たち(坂田藤九郎や坂田兵七郎)に継承することをしなかった。自らの芸の後
       継者として最も相応しいと思われる「芸の器量」の持主を選んで「芸」の伝承をはかったのである。選
       ばれた大和山甚左衛門は、無論、藤十郎の血縁者ではなかったし、門弟でもなかった。しかも、その
       際、名跡の継承などよりも、芸の伝承が優先した。いや、名跡の継承など、藤十郎にとっては関心外の
       事だったに違いない。そして、此の事は、江戸の役者たちが名跡や家の芸の伝承の際にあく迄も血縁
       にこだわったのとは違って、血統よりも芸統を重んじた上方の役者たちの伝承スタイルーそれは、この
       藤十郎が大和山甚左衛門を芸の伝承者と決めて、紙子を譲ったときから始まったのである。
        さて、この辺りで紙子を譲り受けた大和山甚左衛門という役者について、瞥見しておくのも悪くはなか
       ろう。
        大和山甚左衛門は、延宝五年(一六七七)大和国の農家の子として生まれた。十一歳の時、「中興
       女形の最上」(「おもはく哥合」)と称えられた初代上村吉弥の弟子となり、師の没後、元禄二年(一六
       八七)頃に小桜林之介(助)を名乗って、若衆方、若女形として旅芝居で修業を重ねる。此の後の事に
       ついては、役者評判記「役者芸品定」(享保七年正月刊)に簡潔に紹介されているので、それに依ろう。
       「小桜林之介とて、旅しばゐの若衆方。三ケ津のぶたいは終にふみたることもなく、田舎廻り計して、一
       生是にてくちはてんは、無念の至りと飛子(諸国を回って男色を売る若衆。旅子とも)の時から思ひくら
       し、」……氏神へ立願して、三年不犯のちかいをたて、十九の年(元禄八年ー一六九五)野郎をやめて、
       小桜林左衛門と云立役になられ、あたまから旅にて人の跡につかず、たてものとなって芸修行し、大
       ざか岩井半四郎座へ、大和山甚左衛門と名をあらためて出られし(二十九歳となった宝永二年の正月、
       岩井座の初狂言「からゑびす」に藤九郎狐に扮して出勤した事をいう。続く同座の二の替狂言「文珠の
       開帳」にも、長岡大二郎役に扮して出演。やつし事、傾城事に妙味を発揮し大出来であった。因に、此
       の時点での役者評判記による役者位付けは、大坂立役之部の「中の上上」にランク付けされている。)
       より、日々にあたりをとられ、難波に二年つとめ、三年めに都竹嶋幸左衛門座へのぼられて(宝永三
       年ー三十歳ーの十一月、竹嶋座の顔見世狂言「助六心中紙子姿」に万屋助六に扮して出勤。「役者
       友吟味」に「坂田氏の見立程有て芸に油がのって、扨もよふうつりました。」とあり、好評であった事を
       いう。)より、一年ましにほまれを取、(例えば、翌宝永四年の京都早雲座の二の替狂言「石山寺誓の
       湖」で、藤十郎から紙子を譲られ、傾城買いの秘芸を伝授受された事も含まれよう。尚、この後の役
       者位付けは京都立役之部の「上」に。その四年後の正徳元年の位付けは「上上白吉」に。更に四年
       後の正徳五年には、最高位の「上上吉」と順調に昇進した。)十六年めに、又難波の幸左衛門座へ
       くだられ、かほ見せに藤屋伊左万屋助六椀久の大あて(享保五年―四十四歳―十一月竹嶋幸左衛
       門座の顔見世狂言「大名錦草摺」に出勤。若殿のお守り役、本間助十郎に扮して、藤屋伊左衛門、
       万屋助六、なにわ椀久の三人の所作を演じて大当りをとった事をいう。)…正月(享保六年の正月)
       狂言小栗に後藤左衛門の役、京にていたされし、そがの五郎のかくを以て、かほまっかいにぬって
       のあらごと、 に後面はん女の狂言に、女の所作ごと、とりつけひっ付ケ、京にて是迄して来られしこ
       とを、出されしかば、ねんごろなる人、此人にむかひ、さりとは名人に似合ぬ、さまざまの外のことを、
       数々品をかへて出さるゝこと、よろしからず。ゆうびなるぬれごとゝ、やはらかなる芸のいきは、外に
       又似せ手もない上手芸、それをこそ諸見物がほうびあって、見たがり給ふに、さのみほうびもない、
       あらごと、うしろめん、ことに女の所作など、急にかずかずの、芸づくしのやうに、いたさるゝこと、何と
       やら未熟なやうにおもはるゝと、ゐけんせられければ、甚左申さるゝは、我もそふは思へども、どふし
       たことにや、京にてした程のことを、はやくして見たい心しきりなりといはれしが、今おもへば、年のう
       ちに死行身なる故に、五年にも十年にもする色品の芸を、急にしてしまはれしは、一生の仕おさめと、
       心にしぜんとおぼえありしや。一入心入いたまし。」とある。果して、同年七月の同地大坂の竹嶋幸
       左衛門座の盆狂言「室町千畳敷」に出勤した甚左衛門は、足利義輝と義昭の二役を好演していたが、
       熱病に罹り七月二十七日より舞台を引き、市山助五郎を代役に立て芝居を継続するが不入りが続く。
       ために、自ら申し出て閏七月七日より病いを押して再び出勤。十一日、どうにか舞台を勤め上げたも
       のの、楽屋に戻るや昏倒、失神してしまう。それより自宅にて養生に努めたのだが、八日後、遂に息
       を引き取った。時に、享保六年(一七二一)閏七月十九日の未明の事であった。享年四十五歳。葬
       儀は千日寺で行われ「くんじゅ(群集)山のごとく袖をしぼらぬものもなし。」といった状況であったとい
       う。戒名は「秋(初)峰了清信士」。
        大和山甚左衛門死すの報を知った多くの人々の悲嘆の情は非常なものであった。前掲の「役者芸
       品定」にも、それに触れて「せかいのまれ者、役者の花、芸盛にちってはてられし、此おしさ…諸万人
       の残念がり…涙をながし、おしまぬ者はなかりき。…むかしより大嵐(初代嵐三右衛門)を始め、坂田
       (初代坂田藤十郎)、山下(初代山下京右衛門)、江戸中村七三郎(初代中村七三郎)伝九(初代中
       村伝九郎ー奴荒事の開山ー)と、三ケ津に名をあらはせし名人達、死去せられても、大和山殿程に、
       数万の人がおしがりし役者もなし。いづれ又も出来まじき名人にてありしぞかし。」などとあり、評者も
       惜別の涙を隠そうとしない。 彼、甚左衛門の風采と芸風については、小兵ではあったが、容姿に優
       れ、江戸時代中期の随筆「翁草」に「人品は、どうも言へず上品にて、芸の躰、常の事を見るが如し。
       」と見え、品格備わり、芸風の上からも藤十郎の衣鉢を継ぐ者として大いに人気があった。「当流すい
       の只中坂田風のかたぎを以て、ぬしの一流を仕出しぬれ事のよさ、やつしの名人口上のおもしろさ、
       とりわけけいせい買の諸作、一ッとしてあたな事なし」(「役者色将棊大全綱目」)。このような役者評
       判記の評が彼の芸風をよく表わしている。このように甚左衛門の芸風は、坂田風の濡れ、やつし事
       を最も得意とし、「居狂言の名人」とも評されたが、所作事も能くし、武道荒事も兼ね、藤十郎の衣鉢
       を継いだ芸の外に幅があった。とまれ、甚左衛門は、芸の伝承をはかった藤十郎の期待に立派に応
       えた立者だったのである。
                                                              (つづく)
                                      
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (19) (前編) 
                                          杉下賢三


         さて、宝永四年(一七一九)十月、早雲座で「三荘太夫」を上演。藤十郎は公家姿の老人役を演じた。安
        寿は山下亀之丞、三荘太夫の三男の三郎役は座本の竹嶋幸十郎であった。此の時の三郎役の役決めを
        めぐって、役者評判記「役者五重相伝」(享保四年三月刊)に、次のような興味深い話が見える。それは、
        「先年竹嶋幸十郎座本せられし時、大坂にて染川十郎兵(衛)があてられし山升大夫の新狂言を取くみ、三
        男の三郎役染川がして大当。爰は座本幸十(郎)役目ニうってつけたと、談合しまりて惣はなしすみての上
        ニ、其座の立物坂田藤十郎此狂言の咄しを聞て、此三男の三郎は仕様のあらふ物なれば、我等がいたさ
        ふと申出せしを、座中の人々聞つたへて、是はなんぼう名人の坂田氏が申出されても、大きなる了簡ちが
        いと存る。色事師の身として、男だてをふまへて仕立た役を、藤十(郎)がせられては、此狂言の疵となっ
        て、ふはんじやうのもとい、ひらさら(ひとえにの意)是は無用と、内證からとめる人おほかりし時、藤十郎云
        やう、事は多分ニつけなればぜひとはいはぬが、此三男の三郎ばかりは、おそらく仕様のありさふなものと、
        工夫していふた事也。我等ニ此度の三男の三郎をさせなば、末の世ニ至って、田舎人迄此しばゐで、むか
        し坂田藤十郎といふ役者が、山升大夫の三男の三郎をして、一年が間大入を取たと語り句にさせふものを
        残念な事と、其身は公家の老人をしてしまひぬ。藤十はてゝのち、山下京右衛門此事を云出し其身やはら
        か成芸にて、一代名を取し身にて、此三男の三郎をせふといひしは、よくよく仕やうを、我心に工夫せしもの
        ならん。どふした仕やうぞさせて見やうもの。さりとは残心と臨終の時迄いひ出せしとかや。」といった話し
        である。この話、先ず、年老いて、芸の衰えを自覚しながらもなお、自らの技芸の仕様の工夫に執念を燃す
        藤十郎の恐しい迄の役者魂が如実に語られていること、それと共に、此の頃、所属する一座内において
        「其座の立物坂田藤十郎」が如何なる立場に置かれていたかを物語る興味深い話にもなっている。役変
        えの問題にしても、藤十郎が役変えを申し出たタイミングはよくなかった事は確かであるとしても、恐らく全
        盛期の藤十郎の事であったならば、「是はなんぼう名人の坂田氏が申出されても、大きなる了簡ちがい
        と存る。色事師の身として、男だてをふまへて仕立た役を、藤十がせられては、此狂言の疵となって、ふは
        んじやうのもとい、ひらさら是は無用」と切捨てた、此程の異論、反論は出なかっただろうし、よしや、これに
        近い反論が出たとしても結果は藤十郎の思い通りに動いたであろう。だが、ここではそうは進まなかった。
        三男の三郎役を「男だてをふまへて仕立た役」と、役柄を固定的にしか考えられない固陋な太夫元名代、
        金主や役者たちの反発は強硬だったのである。結局、藤十郎は「ぜひとはいはぬが」と折れ、「残念な事
        と、其身は公家の老人」役をしてしまった。「其座の立者坂田藤十郎」にとっては、まさしく屈辱的な結果で
        あった。後日、盟友山下京右衛門が「其身やはらか成芸にて、一代名を取し身にて、此三男の三郎をせ
        ふといひしは、よくよく仕やうを、我心に工夫せしものならん。どうした仕やうぞさせて見やうもの」と語り、
        藤十郎のその時の無念さを察し、臨終の床に迄、それを口にしていたという、名人の心、名人が知る話と
        もなっている。
         同月、久しぶりに上京していた江戸の立役、三代目村山平右衛門が一年を経て江戸に帰るというので、
        藤十郎の私邸で「立振舞い」(旅立ちを祝う宴会)が催された時の話が「耳塵集」に載っている。「宝永四
        年十月の事、京都都万太夫座に出演していた村山平右衛門が、一年ぶりに江戸へ帰るというので、坂田
        藤十郎が私邸で旅立ちを祝う宴会を催した。私(金子吉左衛門)もお相伴にあずかったのだが、その席上、
        平右衛門が藤十郎に向って、『あなたの御恩を有難く思っています。私、初めて江戸へ下った顔見世の
        時(元禄十一年十一月の森田座の顔見世の時)から、あなたをお手本にして、実事・濡れ事はむろんのこ
        と、すべてあなたの真似ばかり致しましたところ、いい芸はどこでも認められるもので、私も今では、江戸
        で二、三を争うほどの役者になりました。これひとえに、あなた様のお蔭です。』と、お礼をいった。然し、
        藤十郎は頭を横にふって、『きっと、あなたの芸は駄目でしょう。自らの根性で独自の芸域を切り開いてこ
        そ、秀れた芸といえます。私を手本にしている限り、私以上になるはずがありません。今少し考えて自分
        なりの方法を見出すようがん張りなさい。』といわれたので、その場はしらけてしまった。」という話である。
        こうした役者の会合が、そのまま芸談の場でもあった事の例話ともなっているエピソードだが、それは扠
        おき、此の話のポイントは「芸は我性根より一流仕出したるこそよけれ。」にある。藤十郎は言う。人まね
        は所詮人真似、それでは其の人の右に出る事は出来ぬと、だが、こうした彼の言葉は「立振舞」の席に
        は相応しくない野暮な発言でもあった。事実、その発言によってその場は白けた。併し、彼は恐らくその
        ような結果を承知した上で、敢えて芸のあるべき姿に対する自分の所信を述べたに違いない。一見厳し
        い彼の発言は、実は後輩に対する最高のはなむけの言葉だったのである。それは自分独自の芸を切開
        く事の困難さを知り尽くした彼が、平右衛門に内在する「一流仕出」す力を認め、鼓舞する激励の言葉だ
        ったのである。それが「今少し工夫いたされよ。」という言葉によく表れている。
          同年十一月、藤十郎は早雲座から亀屋座に移り、顔見世狂言「子福二福神」で、絶間之丞と下男の
        久兵衛の二役を演じた。此の時の藤十郎の演技については、芸評に「此度顔みせの狂言、たへまのぜう
        と成り、亀の丞(梅枝姫役)殿との濡、しっぽりとしてよし。きりに下男と成りて、くき大根つけられし所作別
        ておかし。」(「役者色将棊大全綱目」)とあるようにかなり好意的であった。なお、この時の藤十郎の「大
        根漬け」の演技がどんなものであったかは不明であるが、「大根漬け」の所作と言えば、この年より六年
        後、正徳三年(一七一三)の冬、江戸へ下った上方の名女形、初代芳沢あやめが、中村座で「女楠太平
        記」という狂言の中で、楠の妻、菊水、後に下女のおたけにやつして、「大根漬け」の演技をおもしろおか
        しく演じ、芝居小屋が崩れる程に観客がどっと沸いたという逸話を思い出す。あやめはこの度の藤十郎の
        「大根漬け」の所作を見て、学んだのだろうか。
          宝永五年(一七〇八)は、一月が閏年であった。これを当込んだ亀屋座(座本榊山小四郎)の初狂言
        「福引閏正月」は大当りとなる。藤十郎は八わた五兵衛に扮し、「御役目大出来」(前掲同書)と好評では
        あったが、いみじくも高野辰之が「名優の老苦」で「長十郎(沢村)の奴鹿蔵がいつもの出来だのに、なぜ
        か八わた五兵衛の自分が仕負けたやうな気がする。」と、その時の藤十郎の心境を語らせたように、人
        気は将来を有望視されていた若手立役の沢村長十郎(二十九歳)の方に移っていたことは否めない事
        実であった。その事は続く同座の二の替狂言「けいせい暁の鐘」にも現れていた。藤十郎は多賀大膳の
        惣領万左衛門、後に勘当されて左官万兵衛となる役を勤め、やつし芸を披露したが出番は少なく、此の
        狂言の主役は大膳の次男の民五郎、やつして、いなば屋十右衛門役を演じた長十郎であった。
         同年十月、同座では、看板に藤十郎一世一代と書出し、「夕霧」狂言を上演。今も伊左衛門は藤十郎
        が演じたのだが、此の時の芸評は必ずしも藤十郎にとって芳しいものではなかった。宝永六年三月刊の
        役者評判記「役者胎内捜」には、「御老躰でけいせい買、前方とちがふたもの。せりふも口跡に色なく病
        人の咄するやうで、あげやの座敷とは見へず。」とかなり厳しい評言である。又、此の時の事として、同じ
        「役者胎内捜」に、「坂田藤十郎、一世一代と看板出て、最早藤十郎芸を止めらるゝと、京中のみ込て、
        冬の空に汗の出づる程大入。然る処万太夫座より『霜月顔みせより藤十郎罷出申候』と張紙出たるゆ
        へ少しは淋しく成」といった記事が見える。この記事にあるように藤十郎は十一月の顔見世から都万太
        夫座に出勤、「今参祝言三階松」という狂言で、天津袖右衛門役を勤めた。この時の芸評には「主のた
        めおやを打武士のぎり、更に狂言とは見へず、誠々」とあり、次の替り狂言「杉形の俵」では牢人兵介に
        扮したが、その時の芸評にも「坂田殿はしっぽりと侍の風自然と備り……我女房の敵と知れての詰ひら
        き其身にはまって芸とは見へず。是が真の実と申物じゃ。」とある。こうした「さらに狂言とは見へず」や
        「真の実」といった評言は、元禄十二年辺りから役者評判記などの彼の芸評に現れてくるのだが、元禄
        十二年と言えば、彼が「けいせい仏の原」で名演ぶりを恣にした年である。従って、「狂言とは見へず」、
        「真の実」といった評言が藤十郎の芸評の重要なキーワードになるのは、彼の全盛期以後の事といえよ
        うが、その辺の事の詳細は後編に譲ることとし、ここでは指摘するだけに止めておきたい。


              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (20) (前編) 
                                          杉下賢三


         翌宝永六年(一七〇九)、六十三歳になった藤十郎は、都万太夫座(座本同上)の初狂言「大飾福寿草
        庭」に神主作太夫という軽い役で出勤した。前掲の「役者胎内捜」の芸評に曰く「相坂の関所へ来り……ぎ
        んみ役の侍といつはり……関所の侍共をしばり御母公を供し関所を通らるゝ所出来たとはぞんぜぬ平の
        二番目の狂言じゃまで。」とあり狂言共々好評とはいえなかった。続く同座の二の替狂言は、安達三郎左
        衛門作の「けいせい大仏供養」で藤十郎は、寺の六尺実は家老立野幾右衛門という役を勤めたのである
        が、同じ「役者胎内捜」の芸評を見るに、「当年の大仏供養は大不出来供養でござんす。」と、先ず此の狂
        言が大不出来であった事を述べたあと、「坂田さんに芸がつかぬ」上に、「一ツとして当り所みへず」と批判
        され、具体的には「重巻さん(松本重巻、この狂言では傾城うてな役)とのはめやいのせりふ、先がしれて
        一さいおかしうない」と、本来おもしろかるべき傾城との秘術を尽したはめ合いのせりふの遺り取りも先が
        読めてしまって一向に面白くなかったと、その不出来を指摘され、更には「大立者の坂田さんの芸にはさり
        とはでけませぬ。天野藤八殿(道外役、「中の上」の役者)なされたとあまりちがいの有まい芸じゃ。」と散々
        の評価に終っている。この狂言が恐らく藤十郎の最後の舞台になったものと思われる。
         同年の十一月一日、今日から顔見世という日の朝、初代坂田藤十郎は、京都ふろや町の自邸の一室
        で静かに息を引き取った。後世、「元禄時代の(歌舞伎界の)全体は彼により其の光明を有つといはんも
        過言にあらざるべし。」(伊原敏郎『日本演劇史』)と位置づけられた元禄期を代表する名優、坂田藤十郎
        は亡くなったのである。享年六十三歳であった。当時としては、決して短命ではなく、長寿でもなかった。
        戒名は「重(十)誉一室信士」という。(この戒名については、近年、藤十郎の戒名ではなかった事が明ら
        かとなった。詳しくは宮本圭造著「上方能楽史の研究」を参照されたい。)藤十郎の墓は京都東山あたり
        の浄土宗の寺院の墓地にあるものと思われるが、現在のところ所在不明である。供養塔は、大阪四天王
        寺境内の墓地の一郭に「重誉一室信士/坂田藤十郎/宝永六年十一月一日没」と刻まれた小さな五輪
        塔がそれである。この供養塔は、大正八年(一九一九)十月、菊池寛の「藤十郎の恋」を初代中村鴈治郎
        の主演で大坂道頓堀の浪花座で上演し大成功を収めた感謝の気持ちを込め、自らが発起人となり、興
        行主だった松竹株式会社の白井松次郎らと諮って建立したものである。
         藤十郎の病没した日が十一月一日、折しも顔見世が始まる日の朝という没日が没日であっただけに、
        疑われて逆宣伝だなどとも噂されたが、すぐに事実だったことが判明して、京坂の数多くの子女は為に紅
        涙を絞った。例の江島其磧が書いた「寛濶役者片気」に、藤十郎死亡当時のいくつかの噂話が載ってい
        る。その内の一編(「名残の人形は物いわぬ鴛鴦の池」)の一部を意訳して紹介すると、「京都は龍安寺
        の近くに一人の若後家が草庵を結んで住んでいた。十九歳の時に、或る大店の主人であった夫と死に別
        れ、店と一人息子は手代に任せて自分は芝居通いに日を送っていた。贔屓の役者は坂田藤十郎で、一
        度木屋町の料亭の奥座敷で会ったこともある。しかし、それからは差し障りがあってはといって会うことは
        なかった。藤十郎が亡くなってからは、草庵の離れの六畳間に仏壇を置いて朝夕拝んでいる。仏像があ
        るのかと見ると、藤十郎の傾城買の身振りを写した人形が置かれている。これは八年前に作らせたもの
        で、どういった名人の作か判らぬが、今にも「かわいや、かわいや」と藤十郎得意のせりふを言い出すか
        と思われる程生き写しである、会うことの出来ない藤十郎の代りに何時も身から離さず、寝床の中も一緒
        である。口こそきかないが、女の思いが乗り移って汗もかけば手足も動く。藤十郎は死んでもこの人形は
        生きているかのようである。この噂は忽ち京都中に広まった。女が龍安寺の池の辺りに人形を抱いて遊
        びに出てくる日には、『藤十郎さまのお姿を拝ませて下さんせ』と、着飾った老若の京の女たちが、池のま
        わりに集まってくる。それは錦を敷きつめたような女の山となる。」といった話である。この話、当然其磧の
        筆にフィクションが入っているにしても、藤十郎の死がもたらした京大坂の婦女子の悲嘆のさまが手に取
        るようにうかがわれる話とはなっている。
         藤十郎には、役者になった息子が二人いた。年長の坂田藤九郎は、寛文八年(一六六八)京都で生ま
        れたといわれる。十二、十三歳の頃、京の某座での大江山の物まね浄瑠璃に源頼光役で出演し、浄瑠
        璃三味線に合わせて「子共のうれしがる事ばかり」演じて見せたという記事(「役者大鑑合彩」)が見える。
        次いで、十九歳の時には、大坂の荒木座で「御当地初舞台」を踏み、「南もめん町西より弐丁目北側」の
        借地に住んで、「今年給金弐十五両」を貰っていた事が書かれている。(「難波立聞昔語」貞享三年刊)
        因に、この役者評判記の評文を見るに、「坂田藤九郎 但シ藤十郎実子」と記された後、「御当地初舞台
        なれば諸芸評じがたし。先さしあたって申そなれば、小顔にして取なり(なりふり・姿)しゃんとしすぎたれ
        ばあいなし(可愛げがない)。」とあり、如何にも御曹子らしいなりふりが、大坂では却って多少の違和感
        を生んだのかもしれない。貞享四年(一六八七)刊行の「野良立役大鑑」には、京大大坂若衆方の「中」
        に位付けされ、大坂荒木座の役者として載る。元禄二年(一六八九)頃、彼二十二歳の頃に京に戻り、
        以後京を中心に大坂などにも出勤する事になる。元禄五年(一六九二)刊行の「役者大鑑」で、彼は京
        坂の若衆方の「上」に迄ランクアップし、京の布袋屋座の役者として活躍する。この頃の役者評判記の
        評文にある、「舌ばやに、よく物のたまふ」(「雨夜三盃機嫌」)ところなどは、話術を得意とした父藤十郎
        譲りといえようが、「中々しょげいをちつき、二こしさしてのつめひらき、舌切すゞめのやうなれ共、あぶな
        げなしにこなさるゝ。めんていうつくしく、目が有やらないやらちょっとみたにはしれませぬ。むかしよりひ
        ょうしをよくふまれたるが、今も其足もとたがはず、ぬれ事は不得手、太刀打はよし。とかく行年がくすり
        かや。」(「役者大鑑合彩」)などは、藤十郎の芸域、芸風とは可成違っている。元禄六年(一六九三)藤
        九郎二十六歳の十一月、京四条南側、中の大芝居、村山平右衛門座の極り番付が発表されたが、立
        役筆頭に京初上りの市川団十郎、若女形に水木辰之助、若衆方に坂田藤九郎などの名が見える。翌
        元禄七年(一六九四)の正月興行より、藤九郎は団十郎と共に村山座に出勤する事になる。同年九月、
        村山座での団十郎暇乞狂言「熊谷名残盃」には、団十郎の熊谷次郎(当り)、辰之助の巴の前、大和
        屋甚兵衛の平忠度らに伍して藤九郎は平通盛に扮して好演した。そして、元禄十年本の「役者大鑑」、
        元禄十一年刊行の「役者椶櫚箒」という役者評判記の位付けでは共に、京の若衆方の「上」のランクを
        得たのである。だが、その元禄十年本「役者大鑑」の追評には、「此君一さかりよほど名をあげられし
        徳にや、桜山(林之助、江戸の若衆方のトップ役者だったが、元禄九年、二年ぶりで京へ帰り、十一月
        から名を庄七と改め、立役に転じた。)がかわりにも成べきかとおもひ、江戸の座もとがよび下しけるに、
        そのきぼのない事座もとも其身も不仕合、もはや取おくれの他国一両年、巳前京都へのぼられしもさ
        のみほめるほどのげい仕出されず、とかく武道のせりふ一すじとうんうん。」とあり、一時かなり名をあ
        げた事もあった、そのせいか江戸から京へ戻った桜山林之助の替りにと、江戸の座本から声が掛った
        が、結局は江戸へは行かず、折角のチャンスを失ったこと、又、以前大坂から京都へ戻って来たが、そ
        れ以後、武道事のせりふ回し一筋で、外にそれほど褒められるような芸を見せていない事などが述べ
        られ、かなりきびしい評文になっている。元禄十一年(一六九八)、若衆方から立役に転じた藤九郎は、
        同年十一月の顔見世から父藤十郎が座本を勤める都万太夫座付の役者となった。翌元禄十二年(一
        六九九)正月、三十二歳となった藤九郎は、都万太夫座(座本藤十郎)の大当り狂言「けいせい仏の
        原」に月窓寺法印に扮して出勤する。同年三月刊行の「役者口三味線」での彼の位付けは「中」、同
        年刊行といわれる「役者千石とをしでは「中ノ上」にランクされている。いずれも最低及至はそれに近い
        評価であった。では、その「役者口三味線」の評文を見るに、「此人大坂にて、木屋の長蔵のやくめの
        時、(元禄十一年、岩井半四郎座、狂言名不明、この芝居から立役として番付に載る)はじめて角前
        がみになられしが、さすがに若衆方の時、下手といはなんだゆへに、子共あがりの間のないには、よ
        ほど諸げいをこなさるゝ。当年中のやうすをみて、よしあしをかさねて申てきかしましよ。ぼんさま御そ
        く才でござれ。」とある。
          だがである。此の後、坂田藤九郎の名は三都の役者評判記や絵入狂言本などからふっつりと見え
        なくなってしまう。病没したのであろうか。だとすれば、この評文の最後の「ぼんさま御そく才でござれ。
        」なる一文は妙に暗示的である。
           なお、享保年間(一七一六〜一七三五)になって、突如として幾つかの役者評判記に、「坂田藤九
        郎」を名乗る大坂嵐座付の色子、若女形役者が登場するが、年齢などの関係からして別人かと思わ
        れる。
                                                              (つづく)
                                     
              古今東西名優列伝

                
        寛濶役者 坂田藤十郎 (21) (前編) 
                                          杉下賢三

         
         藤十郎の弟は坂田兵七郎を名乗り、若衆方、若女形を勤めた。出身地、生没年ともに不明で、幼少期、
        修行時代の事なども全くもって判っていない。恐らく父藤十郎について若衆方、若女形の修行を重ね、長
        ずるに及んで幾つかの舞台にも出勤したのであろうが、その辺の事も想像の域を出ない。
         彼の芸歴として知られている最初は、宝永二年(一七〇五)、初めて京都布袋屋梅之丞座(縄手芝居)
        の座本となり、役者評判記「役者三世相」(同年四月刊)の京三芝居惣役者目録若衆方之部の巻軸に置
        かれた事である。この時の、布袋屋座の初狂言は、初日の日取りの手違いなどがあり、父藤十郎の出勤
        を見たものの、結局不繁昌に終った事、二の替狂言「けいせい因幡松」を桃の節句の三月三日より出して
        今度は大当りをとった事など、前にも述べた。この二の替の舞台で兵七郎は、あげやの弟長九郎に扮した
        が、役者評判記の評文を見るに、「若衆 坂田兵七郎 藤十郎御子息……此度あげやの弟長九郎姿。
        つめ袖りこうにみへ、第一此君御きりやう能目もとかはゆらし。ざしき舞扇の手よく……」などとあり、評価
        の対象が利口に見えるとか、器量が良いとか目元が可愛らしいなど、外見上の利点に集中し、芸評とい
        えば、座敷舞の際の扇の使い方がよろしい程度の事しか評価されていない。
         翌宝永三年(一七〇六)は、若女形の名手浅尾十次郎と京の亀屋久米之丞座の相座本を勤め、二の
        替では「けいせい寝覚関」を、秋の興行には大坂から実悪の名人片岡仁左衛門を招いて「難波丸」「石川
        五右衛門」を上演した。とりわけ仁左衛門の五右衛門が上出来で、大入りとなった。無論、その間、兵七
        郎も何らかの役を得て舞台に立ったものと思われるが詳しい事は判らない。同年十一月顔見世より父藤
        十郎と共に、早雲座(座本竹嶋幸十郎)へ転座する。
         翌宝永四年(一七〇七)の早雲座の二の替狂言「石山寺誓の湖」には、播州老松家の長子百太郎(こ
        の狂言の中で夜番に扮した藤十郎から紙子を譲り受ける。大和山甚左衛門役)を養子婿にした江州高富
        兵部の娘、初姫に扮し、「ぽっとりとし(柔和で愛らしいさま。おっとりとしたさま)お姫様に打てつけ」(「役
        者友吟味」)と評された。同年十一月、同座の顔見世狂言「お火焼三人娘」には、山田甚八(道化役の名
        手)扮する家主の女房となって出勤。役者評判記の評文には、「若衆方のときは、今すこしかひなし(弱々
        しい)と思ひしが、女方と役替なされて各別よし。此たび山田甚八殿女房となりて、子共いさかひのわび事、
        もつ共よし。いまだ御としわかなれば、ずいぶん諸げいに気をつけ、御親父にあやかりたまへ。」(「「役者
        色将棊大全網目」)とあり、位付けは「中」ながら、かなり好意的な評文といえる。
         宝永五年(一七〇八)十一月の顔見世興行より、父と共に都万太夫座(座本同人)へ転座した。
         翌宝永六年(一七〇九)正月、兵七郎は都万太夫座の初狂言「大飾福寿草庭」では、伝教阿奢利(山
        田甚八扮す)の妹、お春に扮し、続く二の替狂言「けいせい大仏供養」では、大名の娘月姫に扮して出勤
        した。恐らく此の狂言が父と共演した最後の舞台だったかと思われる。前掲の「「役者胎内捜」(宝永六年
        三月刊)の評文には、「兵七殿はぽっとりとしてお姫様風。夫故、当二の替、月姫、大名の娘にうつりてよ
        し。」とある。因に、この二年間(宝永五、六年)の兵七郎の位付けは、京の若女形之部の「中の上」にラ
        ンクされている。
         父藤十郎という偉大な後楯を失った兵七郎は、正徳二年(一七一二)の正月二十四日より上演された
        京都市郎次座の二の替狂言「けいせい涅槃床」に傾城泉川となって出勤したが、同年、三月刊行の「役
        者箱伝授」での位付けは、京若女形之部の「中の中」ランクの六人衆の一人として掲げられている。その
        評文には「六人ながらどなたも御きりやうよし。女郎やりて口きゝのお衆、御出世の時こまかに申ませう。」
        とあり、ここに来てもなお、技芸についての批評は殆どみられない。そうした中、正徳四年(一七一四)正
        月刊行の役者評判記「役者目利講」の江戸森田座の女形、藤田花之丞の評文の中に、「坂田兵七殿と
        御一所ニ顔みせ(正徳三年十一月の森田座顔見世を指すか)とぞんじましたが、兵七殿は去年の暮迄、
        都に男になってござった。」とあり、兵七郎が正徳三年の暮迄に都において男役に転じていた事を思わせ
        る一文が見える。一体如何なる事があったのか。この後の兵七郎の消息は杳として判らない。夭折した
        のかもしれない。
         ところがである。享保二年(一七一七)四月刊行の役者評判記「野傾髮透油」に、大坂岩井半四郎座の
        若女形として「坂田兵七」なる役者の名が見える。そして、享和二年二月十二日初日の同座の二の替狂
        言「和州久米寺開帳」に、いちせ三輪右衛門(藤岡政右衛門役)の女房に扮して出勤した事が書かれて
        いる。更に、その評文に「三わ右衛門女房と成、とり目にて道行よし。」とあり、大坂若女形之部の白文字
        の上に位付けされているのである。果して「坂田兵七」は、「坂田兵七郎」と同一人物なのか。別人なのか。
        同一人物だとすれば、改名したのか、又、前掲の「役者目利講」には男役に転じた事が書かれていたが、
        再び転じて若女形に戻ったのかなど、全く以て判っていない。
         藤九郎、兵七郎ともども、役者として将来性のある素質を持ちながらも、恐らくは十分な芸の修練を積む
        ことなく巡り来た折角のチャンスを掴み損ねたり、父藤十郎の庇護に安じたりして、持てる能力を十分に
        伸し切れず、結果的に父藤十郎をはじめ多くの人々の期待に添えずに終ったのである。
         これら二人の兄弟とは別に、藤十郎は生前柊屋兵四郎に嫁した妹の子(藤十郎の甥)に坂田姓を与え
        て、坂田兵四郎と名乗らせ役者の道を歩ませようとしたが、結局、役者としては大成せず、江戸へ下って
        長唄の道に入り、六世杵屋六左衛門に師事し、後、江戸長唄の名人と称せられた。享保二十年(一七三
        五)正月刊行の役者評判記「役者初子読」の瀬川菊之丞の項に、「当顔見世(享保十九年十一月の江戸
        市村座の顔見世興行を指す)『ゆんぜい源氏』(正しくは『陸ノ奥勢源氏』)に……松島庄五郎、坂田兵四
        郎殿、両人かけ合の長唄にて椀久の所作……」とある。小唄も能くし、これ又名人と言われた。なお、後
        述する三代目坂田藤十郎は、この兵四郎の実子(門弟とも)である。
                                                            (つづく)
        
              古今東西名優列伝

                
          寛濶役者 坂田藤十郎 (22) (前編) 
                                               杉下憲三


          坂田藤十郎の家名は、初代の門弟坂田長左衛門によって襲がれた。長左衛門は寛文九年(一六六九)
        山城伏見で生まれたといわれる。それ故、俗に「伏見藤十郎」とも呼ばれた。長ずるに及んで役者の道に入
        り、伏見稲荷の芝居では桑名屋長左衛門と称し、奈良辺りの田舎芝居では坂田長左衛門と名乗って、立役
        として人気があった。(「役者大福帳」)。その間に、初代藤十郎に弟子入りしたものと思われる。宝永六年
        (一七〇九)十一月、初代坂田藤十郎が病没した二年後の宝永八年(一七一一)、既に四十三歳になってい
        た長左衛門は京へ上り、正月の京、布袋屋座(座本中村市郎次)の二の替狂言「けいせい二代男」で、梅
        永かもんの介を演じて、二代目坂田藤十郎を襲名したのである。この「二代男」は新藤十郎を当込んだ外題
        である。尚、此の時の襲名の口上で、新藤十郎は自分は初代存命中に兄弟の契りを結んだ、私は初代藤十
        郎の義弟であると述べたという(「役者大福帳」)。そして、この「役者大福帳」では今藤十郎(二代目藤十郎)
        の位付けを「坂田藤十郎と有お名、前々より巻頭の座外へ直しがたく、惣巻軸になをします」と断った上で、
        「巻軸立役」という言わば特別な座に据えたのである。その芸評に曰く、「さっても似たり風俗から物ごし、横
        顔から見ればやはり前の藤十殿。」と、初代の再来かと思うばかりの似様であったと懐かしがる一方、「藤十
        殿(初代)は前々よりけいせい買、大尽風そなはった人ゆへ、年老もかまはずして、けいせい買は坂田と見物
        がてんして大当り。今坂田殿は顔つき実事らしう悪性の色事に身をはめさふな男と見へず…」(「役者大福帳」)
        と、同じ傾城事を演じても、二人の資質に根本的なところで違いのある事を鋭く見抜いてもいる。同年、改元し
        た正徳元年の秋、二代目藤十郎は大坂へ初下りした。そして十一月の嵐三右衛門座の顔見世狂言「大名常
        陸帯」に、かとりの介に扮して出勤、大出来だったとある。役者評判記「役者箱伝受」(正徳二年三月刊行)の
        評文には、「(『大名常陸帯』という狂言は)とっと以前死なれた坂田殿、京村山座の顔みせにいたされし狂言。
        物ごし横顔其まゝの坂田殿、それゆへ顔みせ大当り。」とある一方、「成程うつり其まゝ、しかしこうとう成芸
        (地味、質実な芸風)にて色事になまうつり。」と、成程外見は初代によく似ているが、芸質が異なるので色事
        の芸には違和感があるとしている。尚、此の年の今藤十郎の位付けは、「当年難波初下り、立役上の巻軸」
        (「役者箱伝受」)とある通り、大坂立役之部の「上」の位の最後の座に据えられている。
          正徳三年(一七一三)も大坂に滞在し、篠塚座(座本篠塚庄松)に出勤。「女今川制詞条々」、「系図娘」な
        どに出演した。
          翌正徳四年(一七一四)、久し振りに京に戻った藤十郎は、正月廿五日より上演の光山座(座本光山七三
        郎)の顔見世狂言「玉女神緑船」に、手塚大いの介を演じ好評を得た。「役者色景図」(正徳四年二月刊)の
        評文には、「此度の芸は大坂へ下られし顔みせに、嵐座でいたされ(前掲の「大名常陸帯」)、手に入た芸ゆ
        へ一入でけました。とかく諸芸をすくなふ、古坂田の心いきをうつし、くせ数をあまりにせ給ふな。」とあり、中
        でも「古坂田の心いきをうつし、くせ数をあまりにせ給ふな。」という助言は、「続耳塵集」に載る音羽次郎三郎
        (元禄から享保にかけての上方での立役、実事の名手。作者も兼ねた)の次のような話にも通じる。「初代坂
        田藤十郎のせりふの癖として『かわいやかわいや』とか、『おれじゃおれじゃ』など、ことばを二つずつ重ねて言
        うことがあった。これは大入満員で騒しい場内にせりふの通りをよくする為、又、せりふを言う時の調子に弾み
        をつける為の工夫でもあった。ところが伏見藤十郎という役者(二代目藤十郎)が、初代に非常によく似ている
        というので、坂田姓を名乗り、演じた芝居の中で、相手の役者が『地蔵はどういう仏なのですか。」と尋ねると、
        かの伏見藤十郎が応えたせりふに『六道能化(六道ー地蔵・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の迷界ーに
        あって、衆生に悟りの道を教え、仏の境地に入らせる事)の地蔵菩薩じゃ地蔵菩薩じゃ』と長いことばを二回繰
        り重ねて言うのであった。どうしてもせりふは重ねて二度繰り返さねばならないと思い込んでいるのだろうか。
        正しく噴飯物だ。」と冷笑している。初代藤十郎の癖とみられた技は、それなりの意味があったのに、二代目の
        それは、それと気付かずに、平気で語尾を重ねて言う癖を模倣している事に、音羽次郎三郎は冷笑したのであ
        る。二代目藤十郎の真価はこれによって判ろう。このように二代目藤十郎の技芸は専ら初代の浅薄な模倣に
        止まり、心意気のうえでも所詮初代坂田藤十郎の後継者ではなかった。
          さて、三代目坂田藤十郎は、前に述べたように初代藤十郎の甥で、江戸長唄の名人と称えられた坂田兵四
        郎の実子(門弟とも)として、元禄十四年(一七〇一)、上方に生まれたといわれる。
          「三代目藤十郎」襲名の頃までの芸歴は、役者評判記「役者秘事枕」(宝暦三年―一七五三―正月刊)に、
        次の如く紹介されているのでそれに依る。「此人三条勘太郎弟子にて、三条半弥といふ若衆形なりしが、其後
        役者を止られしと聞た所、享保十六年亥の顔見せより、敵役坂田定四郎とて出られ、元文五年申の顔みせよ
        り実事に役がへせられ、此時より坂田藤十郎と改メ、太平記の狂言(「宮柱太平記」)にて殊外当られし……」。
        即ち、彼は初め「八百屋お七中興の祖」といわれた江戸の若女形、二代目三条勘太郎(後、立役の三代目花
        井才三郎となる)の門弟として三条半弥を名乗り、若衆方として舞台に立つ。其後、一時役者を廃業するが、
        復帰後、今度は大坂の若女形、富沢千代之助(後に、立役富沢文左衛門となる)の門弟となって、富沢兵四
        郎を名乗る。(俳名は車連と号した)。亨保十五年(一七三〇)、二十九歳の時(「役者秘事枕」では亨保十六
        年の事としているが誤りか)二代目坂田藤十郎家の養子となり、坂田定四郎と名乗る。同年十一月の江戸中
        村座顔見世狂言「入船蛭小嶋」に、はん沢の七郎役を勤め、「大出来」。江戸立役の部で「上」の位を得た(亨
        保初代坂東彦三郎の曽我十郎祐成(「増補古今俳優似顔絵大全」所収)十六年正月刊の「役者若見取」)。以
        後、主として江戸劇壇を中心に立役として活躍する。亨保二十年(一七三五)正月刊の「役者初子読」では、「
        上上半吉」に進み、元文四年(一七三九)十一月の江戸河原崎座の顔見世興行(「役者秘事枕」に元文五年
        の顔見世とあるは誤り)で、三代目坂田藤十郎を襲名。その顔見世狂言の「入船太平記」では、妻鹿(めが)
        孫三郎に扮して「大でけ」、将来を期待された。元文五年(一七四〇)正月刊の役者評判記「役者恵宝参」で
        は「定四郎殿、御名をかへられて、藤十郎とは追付むかしの藤十郎ほどに成かねまい御人と存る。……此度
        義貞の家来妻鹿孫三郎の役……五大院右衛門宮をねらふ故取てなげてのあら事、一両年の内に御江戸の
        立物ニ出世有べきは此人と幸四郎殿(二代目松本幸四郎のこと。後に四代目市川団十郎となる。実事、実悪
        の名人)と存ずる。」とあり、大層な期待度である。だが、三代目藤十郎を襲名した彼の芸風は、傾城買、やつ
        し事を得意とした初代坂田藤十郎の芸風とは可成違っていた。むしろ、「芸坂東彦三郎殿かたで、さりとはよし。
        」(「役者多名御」)、「芸坂東風にて、さりとは当りがよい。」(「役者年徳棚」)、「御役実事のしなしは彦三殿を
        うつさるゝ」(「役者満友家」)、「坂東風の武道第一に芸が厚板」(「役者紋きう」)、「坂田定四郎殿は藤十郎と
        名改、彦三郎風の実。」(「役者一会桜」)など、枚挙に逞がない程に役者評判記で評されている如く、初代坂
        東彦三郎の実事、武道事の芸風に似ていた。いや似せようとした。
          初代坂東彦三郎は、この時期、いわば元禄歌舞伎の総仕上げの時期に、二代目市川団十郎、初代沢村宗
        十郎、初代大谷広次と並んで江戸劇壇の「四天王」と呼ばれた名優であった。どちらかといえば小柄だったが
        容貌と口跡にすぐれ、芸風は「全体物の当りを好まぬ性、大器量にて、コセつかぬ芸風なり。武道、太刀打は
        外に似せ手のなき名人なり。」(文化二年五月刊「中古戯場説」)とあるように、スケールの大きな嫌味のない
        芸風で、大当りした「敵討巌流嶋」の月本武者之助をはじめ、大森彦七、工藤祐経、不破伴左衛門などといった
        実事、武道事を得意とした。その彦三郎の芸に藤十郎は私淑したのである。前掲の歌舞伎劇書「中古戯場説」
        には、藤十郎が彦三郎宅を訪ね、自らの芸について教えを乞うた時の話が載っている。「二代目(三代目の誤
        り)坂田藤十郎、薪水(彦三郎の俳名)が芸を甚信じ、折々聞合などせしが、或時、芝居休のおりから、薪水宅
        へ来り問しは、実事は至てむづかしき事と存るなり。我何とぞ貴所ほどにせんと種々工夫して励むといへども、
        とかく下卑たやうなる心持になり、己れと扣かへめ(ひかえめ)にする心ゆへに上達せず、いかゞすべきや、と問
        しに、薪水少し笑をふくみ、よくも心付れし、成ほど其はず也。其もとの芸は、上に人を置て下知をうけてする芸
        風ゆへに、見だてなし(見ばえがしない)。折角問るゝ故に、我ら心一ぱいを云程に、必や立腹せずして能く心
        得られよ。御自分の芸、実事師の家老職と云心にて出精とは見ゆれども、一体が我々より器用過、こせつくが
        癖なり。それ故、太平記ならば、恩地左近にはよけれども、楠は相応せず。曽我なれば、本多の次郎には打付
        なれ共、重忠にはなられず、近江小藤太はよけれども祐経には及ばず、かりにも役をつけず、何とぞ工夫して重
        忠が相応すれば、本多の次郎は出来るなり。去とてはおしき事なり。工夫あれと云しと也。夫より藤十郎も返へ
        すがえす工夫せしかども、出来ぬと見へ、其顔見世より実悪になりてよかりし也。名人の見る所少しもたがはざ
        りし。」とあるように、藤十郎の芸は基本的なところで、彦三郎のそれとは如何に違っていたか。
                                                                       (つづく)
       

                  古今東西名優列伝

                
             寛濶役者 坂田藤十郎 (23) (前編) 
                                               杉下憲三


          彦三郎の芸風は。あく迄も場当り的な芸を好まぬ「幅のある」(「古今役者大全」)、ゆったりとしたものであ
         ったのに対して、藤十郎のそれは器用に過ぎて、こせつく癖があり、おまけに「花」に乏しいところがあったと
         いう。従って、藤十郎は、此の後発奮して工夫に工夫を重ねてはみたものの、遂には彦三郎風の実事は自
         分の天品ではないことを悟り、それからは実悪に転じ成功したというのである。ところが、この藤十郎の実悪
         役への転向についても、前掲の「中古戯場説」が伝える評価と、当時の世評との間には可成の違いがあるよ
         うに思われる。藤十郎が本格的に実悪に転じたのは、延享三年(一七四六)十一月の江戸、森田座の顔見
         世狂言「大鳥毛五十四郡」で、かしま次郎、鳥海弥三郎の二役を演じ、それらが実悪の役柄だった、その時
         からである。彼、時に四十五歳であった。そうした彼の実悪への転向を「中古戯場説」では、「実悪になりて
         よかりし也。」などと、その転向を一応の成功と促えているが、当時の役者評判記などでは、必ずしもそうと
         はみていなかったように思われる。例えば、「役者艶庭訓」(宝暦二年正月刊)では「古坂藤(初代坂田藤十
         郎)は和事のめいじんにて、江戸の古中七(初代中村七三郎)と牛角(互角)の色事仕なりしが、其名を継で
         実悪を致さるゝ事、油に水のまじった様な物、ことに薪水(初代坂東彦三郎)の形がうつれば、やはり実事が
         ましまし。」とあり、実悪役者坂田藤十郎には、その名跡、彼自身の芸風からして、かなりの違和感がある事
         を指摘している。更に、寛延三年(一七五〇)十一月の江戸、市村座の顔見世狂言「帰陣太平記」で、恩地
         左近に扮して立役に復帰した時の芸評にも「御尤なる役がへ、大ぶんによく存る。殊に坂東殿がうつります、
         うつります。」(寛延四年正月刊「役者枕言葉」)など、藤十郎の場合、実悪役より、やはり坂東風の実事役
         に期待を寄せる声が強かったのである。斯くして四年を経て立役に戻った藤十郎は、その後江戸を中心に、
         上方、時には地方を巡業しながら、その殆どを立役、とりわけ実事師として活躍する事になる。その彼の芸
         も年齢を重ねる毎に、漸次、彦三郎写しの実事芸から脱脚していき、「己の風でする」(「役者大極舞」)実事
         芸へと一層深まることになる。そして、最晩年に至って大いに熟するのである。明和七年(一七七〇)、彼七
         十歳となった正月に刊行された役者評判記「役者不老紋」での、「いつにても舞台引しめてせらるゝ故、狂言
         の筋わかり面白うござる。さすが年功年功。」であるとか、同年刊行の「役者美開帳」での、「いつとても何を
         致されてもあしき事なし。」とか、その巧者ぶりを賞したうえ、同年江戸、中村座の初春狂言「鏡池俤曽我」で
         曽我太郎祐信に扮した藤十郎の技芸について、「此人は藤十郎では有まい。ほんの祐信で有ふとの噂」(同
         年刊「役者色艶起」)と、それが当に彼の入神の演技であった事を称賛し、後日狂言「敵討忠孝鑑」で信田庄
         司に扮した藤十郎の技芸についても、「いやはや誠の事の様に思ひました。しゅぎょうとは申ながら詞にのべ
         がたし。巧者といふは此人此人。」など、かって初代藤十郎の芸評にもみられた評言で絶賛される。更に、翌
         明和八年(一七七一)刊行の「役者子錦衆」では、「今までの巧者、実事師の名人……お年のよるのが惜ふ
         存じます。いつ見ても仕内はづさず、たしかたしか。」とまで述べるようになるのである。だが、彼の場合、役決
         めに際しては、とかく「役者無人」になる事が多かった河原崎座などでは主役を張ることが出来たが、中村座
         や市村座などでは、前掲の「中古戯場説」での彦三郎の言にもある如く、準主役級か、老練な技芸を要する
         脇に回る事が多かったといえよう。位付けについても「上上白吉」、「上上半白吉」を上下する事が多く、標準
         的最高位の「上上吉」に上って落着くことはなかった。その事について、翌明和八年刊行の「新刻役者綱目」
         という歌舞伎劇書では、「今少にて吉の黒くならぬ(上上吉にならない)は、花なきゆへなり。」と述べているが
         適評であろう。
           さて、明和九年(一七七二)一月、七十二歳となった藤十郎は、その二日開演の中村座の初春狂言「菅
         原伝授手習鑑」に判官代輝国役で出勤した。その時の芸評に、「此度判官代てる国役、かんせうぜうのむか
         ひにきたり、かくじゅをうたがひ、次ににせ向ひ来りしゆへ、うたがひをはらし、誠のかんせうぜうをともなひ入
         らるゝまで、きまった物でござる」(同年刊「役者物見車」)とあるように、存分に老功ぶりを発揮し、続く二月
         二日初日の同座の「振袖着更衣曽我」という曽我狂言にも得意の鬼王新左衛門役で出勤していたが、その
         二月二十九日の午の刻、目黒行人坂の大円寺より出火、翌日にかけて燃え広がり、市村座は中村座と共
         に類焼するという大災害を惹起した。その為、この興行も二十九日をもって打切られてしまうのである。その
         事が主たる要因かは一概に言えないが、此の後、藤十郎は江戸を去り、地方巡業に出る。そして、二年後の
         安永三年(一七七四)の八月二十四日、旅先の仙台で客死するのである。享年七十四歳、戒名は「本行院
         常念」。遺骨は江戸に運ばれ、当時、本所にあった日蓮宗の古利、妙源寺(現在は、葛飾区掘切三の十二)
         に葬られ、墓碑も建てられたが、現在は行方不明となっている。三代目藤十郎の没後、坂田藤十郎の名跡
         は襲ぐ者もなく今日に至っていた。ところがである。平成十七年(二〇〇五)十二月、二百三十一年ぶりに、
         三代目中村鴈治郎丈が念願の四代目を、(ご本人は、その著で「あえて四代目であることを表記などはせず」
         と言われている。)しかも初代ゆかりの京都顔見世に於て襲名披露されたのである。
          既に見て来たように、二代目は論外として、三代目についても、確かに、或る時期、達者な役者として重宝
         され、かなりの評判も得はしたが、決して大立物とは言えなかったし、ましてや初代のような歌舞伎四百年の
         歴史の中にあってエポックメーキングな存在ではなかった。従って実質的には、初代坂田藤十郎が没した安
         永六年(一七〇九)以来、約三百年ぶりの快挙となったのである。誠に喜ばしい限りである。新藤十郎丈の
         今後の活躍を祈るや切である。
          
                                                                       (完)