☆ 何度目かの 1月17日に・・・ ☆ (2001年 1月17日著)


(以下の日記は今から2年前の1月17日深夜に書いた日記です。毎年、この年にはいろいろな想いを巡らせるのですが、 2年前の想いをHPにアップしておきますっ☆)

 今日は1月17日、あれから丸6年が経ちました。今は夜中の2時前なのですが、今日は神戸も忙しい一日を過ごすのではないでしょうか?
 毎年この日が近くなると、いろいろ考えさせられます。始めの1、2年は、テレビの特集を見ながら、何もできない自分が悲しくて泣いていた様な気がします。 それから何年かは忙しさにかまけて、それほど気にしなくなりがちになり、それでも1月17日が来るたびに「まだ何もしていない自分」や、あの時 思った事を 何もできていない自分に気づき、再び決意を新たにしたものです。それなのに淡々とした毎日に振り回され、1年後にまた反省する、その繰り返しだった様な気がします。

 あの地震の時、いろんな事を思いました。あたしの直接の知り合いには幸いながら地震が直接原因で亡くなった人はいませんでしたが、 その後の何年かで地震でのストレスが原因なのか持病の悪化で亡くなった人が何人か居ます。例え自分が助かったとしても、 友達や、いつも遊んでた見慣れた風景がメチャクチャになってしまうのなら自分だけ助かりたくはない、そう本気で思いました。世の中の「自分だけ助かりたい」なんて 思って変な宗教などを信じてしまう人たちを愚かなように思います。
 あの地震の時、誰かの為に何もしてあげられない自分が悲しくてもどかしくて沢山泣いた事を覚えています。人間は「何かしてあげたい」と強く思っていながら、自分が何もできないと、精神的におかしくなりそうになるものなのだと、あの時初めて知りました。地震の事に関しては、きっと軽い欝状態になっていたのでしょう。今でも地震に関して思い出すと涙が出てきます。 あの時、ラジオから流れる生活情報や、春になって平常番組が始まって涙でるぐらい嬉しかった事や・・もし、もう少し頑張って根性出してラジオで喋られる様になっていれば、不特定多数の人の為に何かができたかもしれない、そう思って後悔しました。

 あの地震の時、一番思ったことは「言葉は並べれば並べるほど空々しくなる、嘘っぽくなる」という事でしょうか。一応、喋る仕事をしたいと思ってたあたしにとっては、皮肉なことですね。でも、例え本当に思っててくれても、 「いろいろあるけど、力を落とさずに元気を出して頑張って・・・」というそれほど親しくない人の言葉よりも、大人の男の人のほとんど半泣きの声で 「良かったぁ」と言う言葉の方が伝わってきたし「頑張って」と言う言葉より「また会おうね」と言う言葉の方が嬉しかったです、例え まだ交通が寸断されている時点でも、そんな風に当たり前にいってくれたほうがあったかだった。 欝状態で自分からは人の言葉や音楽を聞きたくなかった時、街で流れてきた好きな音楽に自然に体が動いて、少し楽になった気がしました。そして何か月ふりに電源をいれたCDプレ−ヤ−から流れてきた音楽に、言葉を受け付けたくない心の時でもメロディに乗せた言葉は自然に受け入れられた様な気がしました。言葉なんて並べれば並べるほど嘘っぽく聞こえるけど、音楽やメロディは不思議な力を持っていると思いました。音楽をやっている人を羨ましく思い、曲を作れる人は素敵だと思いました。

 今思えば、あの時、思った事がいろんな意味でキッカケだったのかもしれません。自分の目のコンプレックスから、とっくに諦めていたラジオの仕事、エリアが狭くて小さいコミュニティ−FMとはいえ、公共の電波で喋ろうと白杖もって一人で飛び込んで行く勇気など、地震の前にはおそらくなかったでしょう。大好きな神戸にあるコミュニティーFMだったからこそ、だったのかもしれません。

 「あの時、思ったことを何一つできていない」そう毎年思ってたあたしが、1年ほど前から縁があって、長田区の小学校に福祉体験の講師で行く様になりました。特に去年は、おそらく地震でひどかった菅原市場の近くの小学校などにも行きました。長田に行くとまだ、さら地が多かったり、工事中だったり、まだまだ地震の跡が残っています。ふと、地震の時に「何かあたしにできることは?」と言う言葉が頭をよぎりました。 去年のある小学校の生徒さんからの質問に「火事の時はどうしますか?」というモノが何件かありました。「う−ん、その時になってみないと判らないね」と明るく答えましたが、後でよく考えると地震の時の事なのでしょうか?その前の学年はそんな質問はなかったので、その質問した学年の子供たちの心の中には深く地震の事が傷として残っているのでしょうか?その子たちの為に あたしができることは何だろう?
 そして音楽。あたし自身が音楽に関係しているわけではないけど、ALMAという素敵な仲間と知り合えたこと。彼らの音楽に自分の心も癒され、これからの『見えなくなる』ことへの勇気を貰いました。 もっともっと彼らの音楽を沢山の人に聞いてもらいたい。少しでもあたしたちの『気持ち』を感じてくれる人を増やす為に★
 最近、人の心が歪んできている様な気がします。多分、何でもないことで、精神的に安定してる時は笑って許せることなのに殺人にまで発展してしまう。 世間は疲れすぎているのかもしれません。そして、そんな環境で育つ子供たちは、もしかして『気持ち』を感じられなくなるのかも? それなら、小さい頃に出会ったあたしたちをキッカケに、今はまだ何も形にならなくても、いつかふとした時に『気持ち』を感じられるキッカケになれたら。そんな事を考える様になりました。

( 日記を中断してしまい、早くも2月になってしまってます。)

 今まで行った学校で、地震の被害が大きかっただろう?と思われる地域の子供たちは・・・ よりひどかったかもしれないと思うような地域の子供たちの方が、今はとても元気で、楽しい気分にさせてくれました。それでも「地震」の事が直接、関わって来ることは、今まではありませんでした。
 1/19に 兵庫区の東山小学校に福祉学習の講師として行きました。 その小学校には校庭に地震で亡くなった子の為の植樹がありました。親御さんが子供が確かにそこに居た証の為に植えたそうです。 先生に連れられて校庭に入って行ったとたん、「森島さん、こんにちわ!!」という元気な声。初めてなのに人なつっこい子供たちです。 そんな子供たちが、あたしの話を真剣に聞いていました。いつもゴンタな子も背筋をのばして発表したし、誰一人お喋りせずに話を聞いていて先生も びっくりしていました。そして、授業の最後に子供たちが自ら選曲してくれて歌を歌ってくれました。 「しあわせ運ぶように」という地震の後に作られた歌を聞くと、何だか涙が出そうになってきました。あたしには、まだ何もできていないけど、やっと 何か一歩、近づいたような、そんな想いがしました。この子たちの為に、あたしにも何かができるといいな、そう思えました。

 多分、あたしの目は、もう そう長くは持たないでしょう。 その時に、全く動けないようにならないように、今は精一杯、動き回るしか ありません。全く見えなくなると、きっと今の半分しか動けなくなるかもしれません。それなら今、200%動いていれば、半分になったとしても100%です★いろいろ落ち込む時も多いですが、これをモット−に、今年は 3月に仕事がはいらなければ、盲導犬を連れて1年アメリカで留学中の友達 の所へ一人で行くつもりです。英語は全く判らないのに・・ね。 これで何とかなれば、これらの人生だってどうにか・・の勇気つけにね。

(2001年1月の日記より。)

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