一覧へ戻る ちよだ No.1 昭和54年10月1日(1979)発行
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雑感 原田 好吉
 この度融資の手で会報発行の運びに至り御同慶にたえない。市民マラソンが急速に盛んになり、地域毎に或いは職場毎に走友会が誕生したことは何よりも喜ばしい事である。朝早くから夜遅くまで、楽しく走っている姿は何処でも見かけるものである。実にほほえましい気になる。私は広島や福岡へ行く機会が多い。平和公園、大濠公園に行くと誰か走っている。仲間に入れてもらって、一緒に走る。すぐ親しい友になる。マラソンならでは出来ない人間関係である。
 カーター米国大統領は「国民すべてスポーツに親しめ」と言った。政治理念の立派さに頭が下がる。「私は毎朝ジョッグをやる」と言う。敬服すべき政治家である。我が国にも体力作りのプロジェクトがあり、スポーツ人口が急増した事はその為でもある。
 どの走友会でも同じ事だが、立派な組織にして、その機能を向上させる事は無論大切だが、より以上に忘れてはならない事は、好ましいムードを作ることではないかと思う。みんなが楽しいランニングを楽しめる雰囲気の広場に整備されるべきである様な気がする。なぜならば会員には老若男女それぞれ体力の格差のある者の集団であるからであり、その広場であるが故に、それに適応させるげきである。柏木さん、小林さん始め高齢者も気楽に走れる配慮も必然的に課題となる。体力の限界にいどむ者への方策、次代を背負う少年、幼児、女性ランナー等々の集まりであるが故に、その感を特に深くする。今後に残された大きな課題であろう。整備された雰囲気からは第二の瀬古や宗兄弟が必ず生まれるような気がする。楽しさが一杯漂う雰囲気の広場を痛感するものである。
 皇居周辺を走れることは素晴らしい誇りである。場所柄千代田走友会は日本を代表する走友会である。所属する会員は誇りをもつと共に、その重さを感じなくてはならない筈である。私も所属して7年余、そんな気持ちでいつもやって来た。私事で申し訳ないが、学生時代は短距離を走った。全日本の100米で優勝したこともある。当時は明治に谷三三五さん、東大に中村絹次郎さん、などの有名なスプリンターが居り、各大学高専にも11秒台のスプリンターが1〜2名は居たが、学生短距離界は黎明期で、その直後に文理大の吉岡隆徳さんが彗星の如く現れ、10秒台を出して驚かせた。日本の短距離界も夜明けとなったもんである。吉岡さんを「暁の特急」と言ったのも故なき非ずで、思えば今昔の感に堪えない。南部忠平さんとも幾度か顔を合わせた事もある。走友の堂山さんは私たちより少し後でしょうが、立教時代箱根駅伝で名を馳せた?せた強者である。若い時からのスポーツマンは走力の寿命が長いと言うことも事実のようである。
 マラソンには基礎訓練が要求される。私も一年近く学芸大学の波田野義郎助教授に基礎訓練を受けた。1キロも走れなかった私が年間3500キロも走れるようになったのも、基礎訓練と練習の賜である。そして走ることが生活の中に定着したようである。人生も幸福に変わった。千代田の皆さんにも御世話になった。心から感謝している。今後も走りつつ、板橋区の老人スポーツの会長の職責を果たしたいと考えている。再び皇居周辺を走ることは最高の幸福であり、誇りであることを強調したい。色とりどりのユニフォーム姿で美しく走ることは青松に映えるパラダイスであり、日曜祭日の皇居周辺はマラソンのフェスティバルであってよい。
 会報発行には幾多の苦労も多いことと思う。専門的なことは必要としない。会員のプロフィール、去った会員のその後の消息、動静、会の歴史などが紹介されたら意義も深く、親近感を覚えるであろう。それに配慮されて編集されるようにして欲しい。その衝に当たる人に多謝する。発刊に当たり何か書くようにとの事であたが、取り止めのない雑感になったことを深くお詫びして稿を終わる次第です。

思い出(一) 堂山 和一
 千代田走友会に入会してより早くも7年、皆様方と毎日曜日に御一緒し、冬の青梅マラソン、水戸マラソン、宗吾マラソン、OB駅伝、山中湖のタートルマラソン、千葉のサンケイマラソン等、思い出は尽きません。若き時代の学生生活、軍隊生活5年、戦後の廃居に帰っての数年、食う為の仕事、仕事の十数年、すっかり走ることを忘れた私、一寸した機会に千代田走友会を知り、毎日曜日皆様の御陰で楽しみを味わっている次第です。
 齢(ヨワイ)はすでに60を越し、唯々マイペース、桜井会長と常に走友会のスイーパーを自任して練習を致している次第です。皇居1周を30分ペース、気が向けば10キロ15キロと走り、帰宅後朝昼兼ねての食事、一風呂。1週間の疲れを洗い流し、また新しい1週間の活力を養い、仕事に励んで居りますが、この度会報編集者から昔の箱根駅伝の思い出を書けとの事、遠い昔を思い出し、拙文を掲載させて頂きます。
 私が陸上競技に足を踏み入れた動機は先ず第一に私の幼少の頃の環境にあったと思います。と言うのは、小学校は四谷第二小学校(現在は廃校)は当時の四谷区塩町にありました。ところが4年生の時、中央線の東中野駅近くに手頃の家があり、一家をあげて移り住む事となりましたので、私も当然中野の小学校に転校するものと思って居りました。しかし乍ら当時の早稲田の理工学部に在学していた長兄が受持の山岸先生の所に相談に行き、先生から「もう何年もない。遠い所でもないから、電車通学させてはどうか」と言われ、若かった兄はその場で承知して帰りました。それで私の電車通学が始まった。家から東中野駅まで約12〜3分、信濃町駅から塩町まで15分位、朝は毎日駆け足を3年間繰り返して小学校を卒業し、中学校に入学、これがまた立川の府立二中(今の立川高校)今とちがい当時の中央線は東中野、立川間の電車は1時間に2本、時間によっては1本しかなく、駅から学校までは歩いて15分余り、電車通学の生徒は授業の始まる8字ギリギリの電車が来るので歩いて行っては遅刻する。200名近くの生徒がカバンを下げて、走る走るの毎朝がランニングの競争です。
 こんな毎日の繰り返しと、また学校でもマラソンが盛んで、勉強嫌いな私はついつい陸上競技部に入る事になる。府立の中学校であるので、先生は当時陸上競技が全盛であった文理科大学(後の教育大、今の筑波大)出身の先生方が殆どで、校長を始め殆どがそうであった。体育の先生は竹村博之先生と言って、東京陸協の発起人、其の後女子体育専門学校の先生をやられた方で、その先生の指導を受けて、本格的に陸上競技を始めた。昭和10年頃と思う。竹村先生も今は相当な年になられたと思うが、走友会の方が走った町田マラソンの時に審判長をやって居られるのをプログラムで見て、今尚健在なのだなと昔なつかしく思う次第です。
 さて、ここで鍛えられ、先生にも可愛がられ、先生が中央の大会になると、審判員として出られる其の日は練習を休み、切符を貰い、よく神宮競技場(今の国立競技場)に見学に行ったものです。私は長距離を走っていたので、特に長距離に感銘を受けました。当時の陸上競技は割合に人気があり、さしもの神宮競技場も満員にはならないが、8分の入りであった事を思い出します。それもその筈、織田幹生の時代は終わっていたが、100メートルの吉岡隆徳、棒高跳びの西田修平、大江季雄、200メートルの中島亥太郎、800メートルの青地球磨男、1500メートルの中島清(今評判の瀬古選手のコーチ:当時)1万メートルの村社講平、竹中正一郎等々、実に日本陸上競技の全盛時代であった。
 私の生涯の思い出として残っているのは昭和10年(ベルリンオリンピックの前年)日米対抗陸上競技大会であった。当時は陸上でも水上でもオリンピックの前年は外国、特にアメリカからの選手を招いていた。当日竹村先生から切符を頂き、800メートルのレースを見た。当時の世界記録保持者はアメリカのカニンガムで、当然彼が優勝するものと思いきや、最後の第4コース、胸に日の丸を着けた青年が飛び出し、グングンとカニンガムを引き離す、カニンガムがそれを追うが追いつけず、優勝したのは日本の青地球磨男選手で、タイムは1分54秒の日本新記録であった。当時の日本の選手はまだ2分を切るのがやっとで、現在のタートル協会の岡田さんが確か1分58秒か9秒で、日本記録をもって居られたと思う。
 日本快勝のレースを目の前に見て、私たち若人の血は燃えに燃えた。青地選手は当時の立教の学生であった。同じ年東京陸協創立記念東京府中学校陸上球技大会に先生に引率されて出場した。当時はまだ府立の中学校が外部の大会に出場することはなかったが、竹村先生が陸協を役員でもあったので申し込まれたものと思う。大会など初めてで、学校では走っているが、本格的なレースなど知らず、ただ前の者について走った。結果は1500メートルと500メートルに3位入賞。1位は後年専修大学に入り、専修が箱根駅伝で後にも先にもただ1回だけの優勝した時のメンバーで高瀬敏夫という選手だったことをまだ
覚えている。皆さんがよく山下マラソンに藤沢に行かれるが、あの山下記念マラソンの山下選手も高瀬選手と共に優勝の立役者であったと思う。(以下次号)
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