一覧へ戻る ちよだ No.2 昭和55年1月1日(1980)発行
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頭 言 北川 実雄
 エネルギー不安の深刻化、十年二十年後の高齢化社会、どれ一つとっても今後の社会動向は今迄のように機械や人頼りはあてに出来ず、自分一人一人がしっかりとした自身と体力を鍛えておかなくては不可ないと思います。
 特に体力の基礎である足腰は走る事に依ってのみ鍛えることが出来、老いても若い人の足手まといにならず、老人ボケにならないとの事。皆さん、速く走ることよりも、いつまでも走り続ける努力をしましょう。最後の勝利者は健康な人々だと信じます。

ルポ東京人・飯田勝子
綱 領

日本の首都東京の 国際都市東京の中心たる皇居を まわる外国人も同胞も 清磨呂像下に集いつ休み日 早きを競い合うもよし マイペースで走るもよし おのれの調子で楽しく走り 楽しく憩い 楽しく語る これぞわが千代田の走友会 老若男女の友よ来たれ 松のみどりも君を待つ

プロフィール「柏木良之助」 速裸 亭主
 明治三十年(1897)三月二十七日、東京市京橋区元数寄屋町三丁目一番地(現在の中央区銀座5丁目1−6の晴海通り側)骨董屋の家に生まれる。誕生日にまつわる秘話、生い立ちに逸話の多い人であるが、現在自伝「私の誕生日」を執筆中であるから省略して氏の横顔を覗いて見よう。 今から十年前の秋、第一回タートリンピックが行われた時のことである。ファミリーパークを廻って三キロ位走った頃、五十台、六十台とゼッケンのこみ合う中に、格調高いスライドとジャンプ力をもった小柄な老人があった。
 よく見ればなんと、それは柏木老ではないか、老人とは見えぬなかなか早いスピードである。遅れまいと一生懸命ついて走っている中にハッと気が付いた事がある。
柏木良之助
傍の四ツ目垣から歩道に垂れ下がった花をつけた萩の枝があり、すすきも穂をふくらましていた。 前のランナーは萩の花を踏みつけて走った。ところが柏木老はヒョイヒョイと、身軽に飛び越して行く。
 生あるものは草木といえども、それを慈しみ自然の美の片鱗をも害(そこな)うまいとする心の美しさを目の前に見てよき教訓を得、それ以来敬慕の的となった。
 教訓といえばこんなこともあった。昭和四十八年四月二十二日、山中湖畔に於いてタートルマラソン二十五キロの全国大会が開かれたときの事、スタートライン付近の車の規制がうまくいってないのを見た柏木老はポケットから呼び子の笛を取り出し、鮮やかな手捌きで、エキサイトした選手達を誘導し初めた。ニコやかな微笑、それは心から喜びの溢れであろう。
 二百四十一名の選手がスタートすると柏木老は一番後から殿(しんがり)をつとめるかのように走り出した。七十才台十八名、女子四名のうち第四位二時間十七分五秒でゴールしたと見るや、休む間もなく付近に投げ捨てられた弁当の空箱、包み紙、ジュースの空き缶などを丹念に拾い集めるではないか。
 我々も恥ずかしくなって付近の清掃に協力したが、こんな事はランナーのマナーとして当たり前の事であるが、一人で黙々としてやられる柏木老の後姿を見るとき、拝み度くなるのである。
 マラソンとは自分との闘い、他人との闘い、自然との闘いと思いこんでいる人のある中で、この人の走るのは闘いではないのであって、いろいろな人に会えて、自分を励ますまたとない機会なのです。一日の出発に当たっての確認。自然の中で走れることに、本当に生かされている感謝が涌くと柏木老は言う。
 ああ!なんと豊かな心ではないか。
 いつもニコニコ顔の元気な柏木老、いつまでもいつまでも達者で走り続けてください。九十才までも百才までも。
 我らの師表として。

ランニングは美容体操に勝り禅にも通じる 川下喜久子
 千代田走友会の皆さま。毎日曜日、祝祭日に皇居のまわりを走っておられる事でしょう。
 私は今年になって一度も皆さまと一緒に走る機会がありませんが、毎日元気で家の周辺を五キロ走っております。
 先進諸国では従来の生活パターン「見る」「動く」「食べる」の三本柱に「運動」を取り入れて四本柱とし、日常、歯を磨くように「運動」を習慣化しなければ、二十一世紀を生き抜くことは不可能だと警告しています。
 私も走りめて五年、この頃やっと、朝起きて、歯を磨き、顔を洗うように「走る」ことが生活の一部として定着しました。
 以前から毎日走っていましたが、いつも心のどこかで、明日は何キロ走るから、早起きしなければいけないとか、今月は何百キロ予定だから、月の半ばにこれだけは是非消化しておきたいとか、いつも自分に言いきかせております。
 しかし現在はまた仕事が一つふえ、三つの仕事をこなすとなると、以前のように朝早くから走っていては仕事に差しつかえますので、無理のない時間内で走ることを初めましたので、今まで気にしていた色々なことが、少しも気にならず、以前よりもはるかに充実したランニング内容に変わって来ました。
 ヨガは、丁度よい時に、丁度よい事を、丁度よいだけすることが悟りだと教えていますが、三十九才になって「走る」ことに一つの「道」を見出し得たという実感が涌いて来ました。少し大袈裟な表現かも知れませんが。
 今までは走って、長く感じられた距離も走り初めて五分もたつと、無念無想で走れるようになりました。坐って瞑想の世界、無念無想の境地ひたり得るのはせいぜい五分位でまた雑念や妄想が涌き起こりましたが、しかし、今は何も考えず、アッというまに三十分走り終えるようになったことは、自分ながら素晴らしい事だと思っています。
 ストレスもなくなり、心と体を安定させることが出来ます。道元禅師は「住往坐臥すべてこれ法なり」と説かれており、坐るだけが禅ではなく、人間の行為のすべて禅につながるはずで、私は正しい姿勢で、雑念を払い乍ら走るのを「動禅」または「走禅」と言えるのではないかと思うのです。
 つい、先日までは、走っている理由を訊かれて、「太りたくないから」という肉体的な目的の答えをしていました。やせるための運動なら15分の美容体操よりも、30分のジョギングがより多くのカロリーを消耗し、疲労も少ないと言われております。しかし、今は精神的な面が70パーセントを占めており、走った後は精神的な高まりを強く感じます。
 5年前千代田走友会に入会して走るきっかけをつかみ、今も尚走り続けていることは、精神と肉体に確かな効果をもたらしています。日々の健康に留意し、走ることを続けても、長き出来る保証は得られませんが、走り続けることにより、老化という宿命のテンポを遅らせることは必ず出来ると思います。
 健康で幸福な日々を送っている人々は、それが無限のものと錯覚しがちでしょうが、健康も幸福も努力によってこそあがな購(あがな)われるものではないでしょうか。ランニングを続ける努力は何事にも積極的になれますが、安易な日常を望む人々は何事にも億劫になり、生き方に大きな差が出来ると信じます。
 自分自身が健康であることの喜びを感じ、夢多き人生をかみしめることの様に思いがちですが、自分が健康であることは家族、友人、同僚にも幸と明るさの輪を広げて行くことが出来るものと信じます。
1980年代の夜明けを待ちつつ記す。
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