一覧へ戻る ちよだ No.3 昭和55年4月1日(1980)発行
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頭 言 敵を知り己を知り百戦してあやう殆からず 孫子
 3月5日の毎日新聞は「悲劇相次ぐ市民マラソン」「こわい熱中症、問われる健康チェック」と大きく題して、最近のマラソンブームに警告した。朝日新聞もこの前に「天声八語」で続発するマラソン死に対して警鐘を鳴らした。宗兄弟や瀬古氏など、いわば専門家の走るフルコースのマラソン大会で死亡者が出たことはかぶん寡聞ながら私は知らない。
 ところが市民マラソン大会では今年に入ってすでに3件の事故を起こし、2人は死亡、1人は1ヶ月以上を経過した今日も意識が戻らず植物人間の状態であるという。
 マラソン競技は紀元前490年、ギリシャの首都アテナイの北方約40キロのマラトンの地に上陸侵攻したペルシャの大軍を海上に追い落としたギリシャ軍の戦勝を40キロ走り抜いてアテナイ市民に報じたフェイディビデスの故事によるもので、彼は報告を終ると、その場で倒れ息を引きとったという。死を賭して彼を走らせたのは、何であったそうか。それは与えられた使命感だけで、功名心や名誉ではなかった筈である。
 昨年の青梅マラソンで死亡された方は一昨年の自分の記録から見て、今年は入賞出来ると確信し、公言していたらしいが、当時の体調は長距離のランニングに耐え抜ける状態ではなかったという。それでも彼は入賞を目指して走った。そして死んだ。
 この痛ましい自己に私たちは何を学ぶべきかと、私は考えて見た。すると、冒頭に揚げた二千年前に書かれた孫子の兵法が頭に浮かんだ。長距離のランニングにこれを当てはめると、敵は気象状態であり、己とは、その時、その時の自分の体調で、この2つを充分に勘案して走れば何十回何百回走っても危険は伴わないのではないかと思う。
 レースに限らず、日常のランニングに於いても、走り出した後の自分を知る者は自分以外にはない。まだ無理が利くとか、もう無理は出来ないとかを判断するのは自分自身であるが、往々にして功名心、名誉欲が正しい判断を誤らせるのではないか。無理と解ればスピードを落とし、或いは歩き、或いは棄権する勇気を持つ者が眞の勇者であると言いたい。
池畑 泉

地名の由来とその略史(三) 池畑 泉
6.牛ヶ渕
 千代田区役所、九段会館裏の内堀で、その北東は清水濠につながり、北西部は田安門外で終わっている。
 文禄年間(1592−96)に作られたという。徳川家康(1542−1616)が江戸を本拠と定めて入府したのは天正18年(1590)で、古く縄文時代(9000−2300年前)には海岸線であった、この地も(近くから貝塚が発見されている)海は日比谷公園あたりまで後退しており、早稲田方面から流れて来る古川が平川と名前をかえる地点に当たっており、自然の流れが深く淀んで渕をなし、牛ヶ渕と呼ばれていたのではないかと考えられる。
 牛ヶ渕の名前を由来として銭を積んだ車がひいていた牛と共に渕に落ちこんだまま遂にあがらなかったからという説と形が牛に似ているからという説がある。何が正しいのか解らないが、近くに牛込見附があり、明治11年(1878)から昭和22年(1947)まで牛込区があった。
 南北朝時代(1336−92)に牛込郷の記録があり、江戸時代には牛込村と称した。牛込の「込」は文京区の駒込、大田区の馬込の「込」と同じく「牧」即ち牧場の意味で、現在の神楽坂付近では多くの牛が飼われていた筈で、牛とは切っても切れない土地柄だったといえよう。
7.九段坂
 千代田区九段南2−3丁目の境を東へまないた俎板橋まで下る長い坂で、麹町台北部にある東京の代表的な坂の一つで、昔は険しい坂で有名であった。江戸時代には北側に飯田町があるので飯田坂または飯田町坂と呼ばれたが、宝永6年(1709)五代将軍綱吉が没して家宣(1663−1712)が六代将軍をなった頃、この坂に九段の長屋をつくり「お花畑露地方」の役人を置いたのが九段坂を呼ばれるようになった起源らしい。
 九段坂は江戸時代には月の名所とされ、毎年1月と7月には夜待ちと称して、坂上で月の出を待つ風習があり、大勢の人々で賑わった。その風景は安藤広重の「江戸名所四十七景」に描かれている。
 明治2年(1869)坂上に招魂社がたてられた。明治維新前後から戦争などで国のため命を落とした人々をまつるための神社で明治天皇の発議によるものである。明治12年(1879)現在の靖国神社と改称され、第二次世界大戦の敗戦までは別格官弊社として日本政府の直接管理下にあった。
 阪下の東側の灯明台は明治4年(1871)東京湾の漁船の目印に建てられたもので、可成りの急坂だった九段坂は大正12年(1923)の関東大震災の道路改正で、現在のようなゆるやかな坂となった。
8.番町
 江戸時代の川柳に
   番町で目明き めくらに物をきき
 というのがある、江戸中期に盲人で国学者として名の高かった塙保己一(1746−1821)が、寛政5年(1793)幕布の公許を得て、裏六番町に「和学講談所」を開き大勢の弟子に国学の講義をし、人としての道を教えていたのを詠んだものである。
 或る夜の講義中に、風が急に強く吹き、照明のロウソクの火が消えたので、弟子たちが声を揃えて、「先生、火が消えたので、少し待ってください。」と頼むのを聞いた保己一は「さて、さて目明きというものは不自由なものだ。」といったという逸話がある。
 町名の由来は江戸幕府の創業期に「おおごばん大御番」の屋敷をこの地に与えられた為で、江戸時代には堀端一番町、新道一番町、表二番町、裏二番町、袋二番町、二番町通り、三番町、四番町、裏四番町、土手四番町、五番町、上六番町、中六番町、下六番町の十四町に分かれており「番町に居て番町知らず」といわれていたのも無理からぬことだが、現在は一番町から六番町までの六つの町に整理されている。
 芝居で有名な「番町皿屋敷」は古くからあった「播州皿屋敷」「雲州皿屋敷」を江戸の出来事として改作したものらしい。

箱根駅伝の思い出(最終回) 堂山 和一
 駅伝当日は暖かい日であった。試合前に膝を痛め小田原の合宿1週間練習を落としていたので多少の不安はあったが。汽車で小田原から平塚に出る。当時平塚には陸軍の火薬庫があり、そのうら通りで軽く走る前走者(3区)の走って来る予定時刻の1時間前から軽いジョギングで汗を流した。
 それは先輩の助言によるもので、ジョギングを終えると、前走者紅野さんの到着を待った。彼は八百から五千をこなすスピードランナーで、八百を2分3秒位、五千を16分台で走るランナーであった。当日3区にはオリンピック帰りの村社講平さんが走って来るので、見物人も人の山であった。
 中継点には先ず日大、明大、早大の選手が駆け込み、それに続いて中六の村社選手、その後に少しおくれて紅野さんが私にタスキを渡して呉れた。後で聞いたのだが、紅野さんは村社さんに3分位離されただけでタスキを渡してくれたそうである。
 駅伝というものは自己記録の更新ではなく、相手に少しでも離されないよう頑張り、ネバる事が大切である。この気慨に欠ける事は全員の士気に影響する。前走者の健走で私の士気は大いにあがった。
 負けてはけない。抜かれてはいけない。身体は軽い花咲橋4分、伊達別荘前18分、大磯曲がり角00分の予定のラップ通り。足のバネは上々、ゴムまりの如くはずむ。
 当日4区出場選手の先行者は後年三千米障碍で日本記録の保持者となった日大の大沢、極東オリンピック大会に千五百米の日本代表となった名島(明治)、早大の寺久保、中は朝鮮出身の選手であったと思う。
 紅野さんが第五位でタスキを渡して呉れたので、前も後ろも強豪揃い、平塚を出て小田原に入るまで、応援団のエールと応援歌の合唱、太鼓の音、今の六大学の野球応援そのもの。自分は走っているので何も解らない。時々校歌とセントポールシャインの応援が聞ゆるだけ。段々と調子はあがる。
 スピードがあがると、サイドコーチの制止にあう。私が新人であるので、タイムより予定タイムで入ることに一生懸命である。酒匂川の橋にかかる頃、2分先に出た中大の旗が見え初めた。
 よし、抜ける。私の血は躍った。
 相手の応援囲の車が、わが方に見えないよう、選手をかくそうとする。立教のコーチ陣は私がはやらないよう盛んに声をかける。国府津の坂を下り、ガソリンスタンド前で三百米の差、相手も頑張る。私がスピードをあげるとコーチが制止する。ここまで来てブレーキを起こされてはとの配慮であろう。小田原の町角を大きく曲がると、中継点は人の山、ロープが見え初める。気持の良いラストスパート。五区の金塚選手にタスキを渡す。私の使命は終わった。
 先行の中大とは40秒の差に縮まっていた。
 新人としての役目は充分に果たした。所要タイムは1時間12分40秒で、四区では1位明大の名島、2位日大の大沢、3位立教の堂山と、翌日の新聞に大きく掲載されており、立教が往路5位進出をも告げていた。
 往路は一区を除き二区からは各人の記録はコーチの予定タイムより2〜3分早かった。翌日の復路も六区と七区は予定タイムより2分位早く、いよいよ鶴見東京間の十区で、専修と立教の間に、箱根駅伝の歴史に残る決戦が行われた。
 専修は一万米の斗将須佐、立教は中距離の雄青地で、品川の八ツ山で二百米あった両者の差を青地の力走は増上寺前で追いついたのである。
 二人の走者が並ぶのを見た応援団はトラックの上で総立ちとなり、応援の車は道一杯に拡がる。増上寺の赤い山門が、あの日ほど印象的に私の目に映ったことはない。山門の前を二人の若人が死力を尽して競い合う光景は全く一幅の絵であった。
 NHKの前で立教の青地選手がスパートし、日比谷公園角で五十米引き離した。八百米の日本記録保持者と一万米のランナーではスピードの差があり過ぎ、愉楽町のガード下では完全に水があき、4位入賞を不動のものとした。
閉会式後、大きな文鎮のようなメダルを手にした時の感激は未だに私の脳裡に深く刻み込まれている。二十数人の若人が数ヶ月、或いは一年間に亘り、努力し切磋琢磨し、その目的を達した時の喜び。私たちは初めから上位入賞は考えていなかたのである。ただ伝えることは下級生は上級生の統率に従い、上級生は下級生を巧みに引っ張り、立教大学の長距離陣として箱根駅伝に参加してはいたものの、これまでは14、5位に停迷していたのが、始めて4位に入賞したのである。
 戦い終わって日比谷の報知前で校歌を斉唱したのが、今でも忘れられない思い出である。その後も箱根駅伝に何回か出場し、また東海道が使用できず、二回ほど神宮→青梅に移り、これにも参加したが、初参加の思い出は自分ながら会心のレースができたこと、全員が自分の実力を十二分に発揮できた事で、実に印象に残るレースであったと思っている。
 今、この年令になり、当時のメンバーだけで集会を行うことも度々あるが、矢張りスポーツマンは皆若い。私が青梅マラソンを走っている話から、機会があれば揃って皇居を走ろうなどの話しが出るあり様。昔の先輩、後輩の絆というものは永久に断ち切れないものと痛感する。
 昔の仲間にさそわれ、この二年ほど箱根駅伝の審判者でレースを見たが、四十年前とはスピードに大きな差はあっても、ランナーとしての気持ちは今も変わらない。洗練されているかどうかの違いである。自分が走ったコースの思い出が走馬灯の如く浮かんでくる。実に年甲斐もない。時にドラマもあり、英雄でもある。併し、唯自己の責任とチームのために走る。走る。
 限られた1チーム10名という出場選手の蔭にかくれた偉大な功労者、彼等に支えられて出場という名をとどめたに過ぎない。スターの蔭に努力者があり、勝って驕らず負けてくやまず、唯マイペース、人生もまた同じだと駅伝は教えた。
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