一覧へ戻る ちよだ No.4 昭和55年7月1日(1980)発行
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いつまでも元気で走りたい 竹田 実
 走り初めてから12年位になる。その動機は肥満体になり、好きな山登りがきつくなったから、やせるのが目的であった。最初は横須賀にある狭い工場の屋上をこまねずみのようにくるくる廻っていた。
 そして10分位持続して走れるようになると、思い切って街を走ることにした。当時は盛夏に老人がランニングシャツとパンツ姿で走るのは全然見受けなかったので、町の中を走るには相当の心臓が必要であった。
 そのうちに7キロから10キロ走るのが日課になった。日曜日には東京の自宅に帰るので川越街道をよく走った。そして色々の苦しみを重ねて、ようやく25キロを持続して走れるようになった。中学時代、年一回行われる16キロの長距離競争に参加したことはあるが、60才を越えてから25キロを走れるようになったことには我れながら感心した次第である。
 長距離にすっかり自信がつき、25キロ以上を50回以上は走ったと思う。5年間の横須賀勤務を終り、東京に定住するようになったのを機会にレースに参加することにした。その関係で次々に友人ができ、走る楽しみが倍加した。
 これまでに参加したレースで、特に印象に残っているのは山中湖畔で行われた第2回25キロのタートル・レース、同じく同所で行われた耐暑マラソン、それと天草の20キロレースである。
 いずれもマラソン・ブーム以前のものであるから参加者は少く、密集して走るのはスタート直後の、ほんの僅かな間で、左右の景色を眺めながらノンビリと走ることができ、とても楽しいレースであった。
 これらの内特に印象に残っているのはタートルレースである。というのは初めての25キロレース参加であった事であり、その上スタート直後思わぬハプニングが起ったからである。スタートして500米も走ったかなと思ったとたん、パンツの紐がプツリと切れてしまった。しまった、と思ったがもうおそい。紐の切れたパンツはずれ落ちそうになるので、手で支えながら、何か紐の代用品はないかと左右を見ながら走った。
 このこっけい滑稽な姿を沿道の人が見たら、さぞくすくす笑をしたことと思う。幸にして季節的に人の姿は殆ど見かけなかったのでなぐさめになった。やっと代用品を見付け、パンツをしっかり止めると快調に走れるようになり、ゴールの手前500米の所で織田幹夫さんに励まされ勇躍ゴールインした。
 耐暑マラソンは盛夏の日中に行われたので、咽喉のかわきには全く閉口した。26キロを過ぎた所で初対面の千代田走友会の和田さんに冷水をプレゼントされたときは本当に嬉しかった。
 天草マラソンは景色に恵まれたコースであり、ノンビリと走れたし、自衛隊の野外浴場に浸り、疲れが一ぺんに解消した。青梅の30キロは何回となく走ったが、試走や先発単独走であったから、何も印象に残っていない。
 何年もの間、10キロ20キロ25キロ等のレースに参加したが、何れも好タイムで走れなかったし、費用もかかったので、70才の時の京都府久美浜での全国健康マラソンレースを最後にレース参加を断念した。その関係で友人が減少するのは寂しいことであるが、実力が劣っているので止むを得ないと思っている。
 年をとると体が弱るのは当然であるが、71才のとき毎日の走りすぎか、突然下肢の筋肉痛に襲われ、200米の歩行にも気の遠くなる思いをし、全快までに6ヶ月もかかった。また冬季腰骨にひびが入ったような痛みを経験したこともあるが、現在は全治している。
 だが走力は年毎に低下し、今は女性の方にも負けるようになった。こんなに走れない筈はないと思うが、致し方ない。時に負けん気にを出して早く走って見ることがあるが、長続きせず、翌日まで疲れを残すようになった。まことに情けない次第である。
 かつては三度の食事よりも好きであった乗馬は経済的と体力の関係でズーッと昔におさらばし、山登りも仕事の関係で行けなくなった。それで今はランニングに傾倒している。皆さんに助けられ、本当に楽しく走らせて貰っている。心から皆さんに感謝している。
 千代田走友会では古い方になった。長年の間次々と新人を迎えたが、殆んどの人が長く続かず、何時の間にか一人消え、二人消え、現役で古い人は少なくなった。親しかった人が見られなくなるのは寂しいものだ。
 私は心臓が不整脈なので無理をせず、ユックリ走ることにしている。人に追い抜かれても平気になり、ユックリ周囲を見ながら、連れがあれば話をしながら走るのをモットーにしている。全くの健康ランニングである。従って心臓がきつくなったことは一度も経験していない。
 であるが、あと何年走れるかと考えると寂しい。でも健康な限り走り続けたい。地元にも立派なコースと、走友会があるが、皆さんに混って走る方がとても楽しい。
 それでヨチヨチ走りの白髪の老人を追越すときは「お爺ちゃん、無理をせずユックリ走りなさいよ」と一言声をかけて遠慮なく追越して下さい。
 頼みますよ。
おわり


武相マラソン出場者の記録 791名出場  昭和55年5月25日
  氏名 順位 タイム
10マイル  草野 幹男 119 62分45秒
 高石 真太郎 300 69分07秒
 渡辺 良和 365 70分53秒
 山田 耕二 373 71分06秒
 中村 和夫 481 74分24秒
 林 潤太郎 549 77分13秒
 松本 勇 624 81分35秒
 天野 伸雄 661 83分40秒
 今村 有禧 716 89分11秒
 奥野 精一 750 93分32秒
 佐竹 嘉雄 766 96分10秒
 進藤 博紀 767 96分10秒
 曽我 与志次 785 106分12秒
5マイル  渡瀬 みつ子 34 47分28秒


76キロのデブからフルマラソンへ 佐竹 嘉雄
 古い昔のことで、私が27才の頃だったと思います。戦後間もなく始まった青森→東京間の駅伝競走が毎年ありました。
 当時、私は公務員で仙台に在住していました。何しろ日本一の大レースなのです。選手が仙台に入ってくる時刻になると仕事をオッポリ出して見に行ったものです。あの迫力ある素晴らしいスピードで走る若者たちの生き生きとした目、弾力ある体にすごく感動しました。特に当時ボストンマラソンで世界最高のタイムで優勝した山田敬三さんの流れるようなフォームを見て、ほんとにホレボレしました。
 そんなことで、人一倍感激屋の私は「よし、俺も走るんだ」と真剣に考えました。でも、なかなか実行できないのです。当時ランニングといえば学生か、社会人の専門家が走っているのみで、現在のように、どこに行っても老若の男女が走っている光景など一度も見かけたことがなかったのです。
 それでも勇気を出して、スポーツ店でランニング用具を買求め、早速初めました。近所の人々になるべく見付からないように朝早く走ったり、夜おそく走ったりで、週に二回宛5キロ程走りました。いい年をしてと思われそうで、恥づかしい思いをしました。今の時代を考えると、それは夢のようです。
 さて、それから東京に転勤になり、毎日多忙でランニングのことなどすっかり忘れていました。その結果、体重は76キロになっていました。本当にショックでした。走って見ると膝がカックンとするので、もしや脚気ではないかと思い、医者に診て貰うと、矢張りそうだったのです。困ったことになったわいと、何か気が抜けてしまいました。
 当時の私は酒もタバコも人一倍のみ、食べる方でも豪傑でしたから体重は増加するばかりです。何とかしなくては、と悩みました。何年か前に走ったことをフッと思い出しました。そして、今度はやせるために走ろう。とにかく走っていれば何とかなると、雲をつかむような気持でいろいろと考えました。
 やせ度いばかりにいろんなことを想像しました。朝もやをついて勇ましく走っている自分の姿、そして前より早く走れる自分など。しかし、走って見ると駄目でした。現実は厳しかったのです。余りにも肥満し過ぎていました。
 でも慌てることはない。スロー、スローからスタートしよう、と先づ早起きの練習から始めよう。朝5時に必ず目を醒ますようにと、音の馬鹿デッカイ目醒し時計を買いました。こんな状態が1ヶ月位続きました。陽春の4月より実行です。しかし、たかが早起位と思っていましたが、年輩になってからは大変つらいことでした。
 次は早く歩くことです。なるべく手を大きく振って「ヤセロ!ヤセロ!」と大きな声を出して歩きました。人が来ると号令をやめて休みました。恥づかしかったのです。始めは1キロ位から始め、徐々に4キロに延ばしました。
 しかし、朝の運動となりますと、毎日は続かないものです。デブの悲しさ、大変疲れます。なかなかスムーズには起きられません。チョッと疲れても、今日は止めた、明日にしようなどと何回も休みました。それでも、やせるにはこれ以外にないんだと思って頑張りました。
 何時の間にかすぎ去った1年を振り返って見ると、われ乍らアッパレなことをしたものだと自信が出てきました。体がしまって、足も大変強くなったようです。
 嬉しかったですね!!
 食べる方は相変わらずで益々おいしく感じるようになりましたが、タバコは少し減りました。減らそうとしたのではなく、自然にのむ回数が少くなったのでした。
 そして2年目です。2年目からはノンビリ、ユックリと五百米走って百米歩くで、5キロ程走っては歩き、歩いては走ることにしました。膝、足首、フクラハギなどアチコチが痛くなり、走れなくなったこともありました。
 走りすぎかな、と思って接骨医に行くと「神経痛」だと診断されました。
 「こんな馬鹿なことがあるもんか」と思ってとにかく走って悪くなったんだから、走っていれば治るだろうと、休まずにビタコン・・・・ビタコンと歩いたりしているうちに、いつしか治ってしまいました。こんなことの繰り返しの連続でした。
 やっぱり歩く筋肉と走るそれが違うらしいと言うことが、自分で感じた貴重な経験でした。一番苦しかったのは2年目でした。
 体重が5キロ減りました。体重を減らすために一杯汗をかいて、・・・・苦しくて止めようかなァと何度も何度も思いました。寒い冬の朝など、何事も暗く考えて、悲しく思う時もありました。
 それでも4月になって爽やかな季節になると「よく頑張ったもんだなァ」と一層強く感じました。そして、この頃になって「おれは2年もの間走り続けてきているんだ」と言う妙な自信で、胸を張って歩く、そんな気持ちになりました。
 さあーいよいよ3年目になりました。
 体重はまだ71キロありましたが、足腰は2年前と較べると、見違える程丈夫になりました。この頃になって漸く、朝走っている人がチラホラと見えるようになりました。私はこれらの人々とあう時は大きな声で「オハヨウ」と挨拶するようにしました。
 これからは愈々本格的に走ろうと思って近くに1周5キロのコースを定めて北野コースを命名しました。北野は居住地の地名です。この1周コースを休まずに、歩かずに、悠々と走れるようになりました。時には2週から3週もしました。
 習慣というものは恐ろしいもので、朝のランニングが私の一日の生活の中に自然と入ってしまったのです。10キロ以上走るとさすがに疲れました。帰って来ると汗ビッショリ、呼吸はフーフー、タイムは1時間位でした。
 まだ、体がズングリと丸いので、無理をせずにノンビリを旨として走りました。ランニング後は適当にラジオ体操をして体をほぐし、風呂に入って、自分の手の届く処を入念にマッサージをしました。
 それでも、大変疲れましたので、雨の日は休んで、疲れたらまた休み、そして日曜日は完全に休養です。
 これが3年目の状態でした。
以下次号
 
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