一覧へ戻る ちよだ No.4 昭和55年7月1日(1980)発行
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太極拳の勧め 杉並  田才 嘉彦
 78年から79年にかけて約1年間、筆者は中国上海に居留ビザで勤務する機会を得た。この機会に何か中国古来のもので、中国に於いてでなくては得られないものを学びとろうと、太極拳に取り組むこととした。
 中国では毎朝5時頃から、いたるところで公園、空地、路上で太極拳のグループをみることができる。
 78年秋、北京から東北地方を旅行した折、早朝マラソンで各地の太極拳を見聞したが、どこも短期間では習得できる代物ではなかった。上海の中心地、かつて共同租界があったという黄浦公園が筆者の道場であった。
 黄浦江岸に在る5,000坪位の樹木の多いこの公園に朝5時の開門から大勢の老若男女の中国人が集まり、太極拳がくりひろげられる。79年1月から公園の先生「老師(ラオシ)」について、みっちり指導を受けた。4ヶ月目になって「老師」の指摘するところもなくなり、1グループに入って帰国するまで毎朝演じ、太極拳の奥義を極めようといそしんだ。
 中国体育運動会編「太極拳運動」第一章概説には太極拳の生理保健作作用について次のように記述してある。
 「太極拳は我国民族形成体育の一つで、早くから我国民間に流行していた。何世紀かに亘り実践された太極拳は一種の重要な身を鍛え疾病予防の手段となっている。
 近年多くの人が認め、且つ発表されているように太極拳は体質を増強する以外に高血圧、潰瘍病、心臓病などの治療の補助手段として有効なもので、その効果は顕著である。」
 太極拳の基本は中国語の「静(チン)」と「松(ソン)」にある。「静」は日本語の静(セイ)と同じで、「松」は全身の力を抜いた状態を指し、中国画にある「迎客松」に通ずるところがある。
 太極拳の要領は人体の生理的習慣に符合し、極めて平穏な動作の連続で過激な動作はしない。一通り終了した後は微汗を生じ、多少の喘ぎと共に身体は爽快になる。ゆっくりとした腹式深呼吸と連続した全身の動きにより、もたらされるものと理解される。
 ほとんど毎日5キロメートルの早朝マラソンをする筆者にとって、太極拳の効用について余り意識しないが、6、7年前に痛めた腰に異和感を生じたときは20分の演技で快適になる。安静な心理のもとに精神を集中し、ストレスを解消するので動く座禅と言える。漢方薬のように永い実践がその効果を蓄積する。
 さあ、皆さん、太極拳をやってみましょう。

各地マラソン出場記録

昭和55年3月2日   関東ロードレース大会   佐倉市宗吾廟前
10マイル(16キロ)一般 360名
着順 タイム 氏名
80 60分37秒  東海林和之
113 62分10秒  草野幹夫
250 70分10秒  山田耕二
251 70分15秒  中村和夫
307 75分54秒  平林薫
10キロ  壮年30才台  196名
着順 タイム 氏名
175 46分21秒  種田一登
177 47分02秒  植木孝明
 
10キロ  壮年40才台  187名
着順 タイム 氏名
186 52分04秒  進藤浩敏
10キロ  壮年50才台  80名
着順 タイム 氏名
47 44分21秒  原博己
55 45分59秒  林潤太郎
71 49分10秒  今村有禧
10キロ  女子
着順 タイム 氏名
36 55分33秒  渡瀬みつ子
以上の成績で全員完走

その他
55年4月6日  福井フルマラソン
東海林和之 3時間6分13秒 調子良し
中村和夫 3時間50分15秒 調子やや悪し
4月13日 下島一郎
桃源郷マラソン 10km  52分53秒
4月13日 清水栄一
みもみクラブロードレース3km 9分45秒
4月20日 下島一郎
横浜三池公園(YORC)6km 31分40秒
4月20日 清水栄一
千代田区陸上大会 5000m タイム不明
 
4月29日 下島一郎
塩原温泉湯けむりマラソン 10km
5月18日 清水栄一
シーサイドマラソン 5km タイム不明
5月25日 清水栄一
須加川ロードレース 10km 34分42秒
6月8日 堀隆男
札幌タイムスマラソン 30km
2時間4分53秒


地名の由来とその略史 (四) 池畑 泉
7、麹町
 江戸期には半蔵門から内堀外堀をはさんで赤坂、四谷の両見付に及ぶ地域で、その中央を甲州街道(道宿通り)が東西に貫通し、小路町…糀町とも書かれた。
 地名の由来は麹の製造業者が多かったからとか、東西髪の如き小路町の意だとか、また武蔵国府(府中市)と江戸湊(ミナト)を結ぶ街道上の町で、国府路町がこうじまちに転訛したのだともいわれている。天正年間(1573−1592)までは藪野で、徳川氏入国(天正18年)当時は矢部村といったという。草分け名主が矢部氏で府中・江戸間の運送業者を支配し、旗本の生活物資供給の役も兼ねていた。
半蔵門寄りを一丁目として十丁目までが外堀の内側で十一丁目から十三丁目は四谷見付のあった。明治十三年(1,880)郡区市町村編制法が施行され、東京市麹町区が生れ、麹町一丁目から十丁目までは麹町区、十一丁目から十三丁目は四谷区に編入された。
 昭和二十二年麹町区は隣接した神田区と統合して千代田区となったので、六十年余り親しんだ区名としての麹町は消え、町名としての麹町は十丁目までを六丁目までに編成変えし、四谷区は新宿区となり、麹町十一、十二、十三丁目は四谷一、二、三丁目と名前を変えているのが現状である。

8、半蔵門、半蔵濠
 半蔵門は江戸城の裏門に当り、外は甲州街道に直結し、内は吹上御苑、西の丸(現在皇居のある場所)に通じている。元和元年(1,615)幕布の命を受けた浅野氏が地形(チケイ)(戦闘行動をとる上で利用する緊急地形。接近経路、障害、視界、隠敝、掩敝の五つの要素をいう)を築き、同六年奥州地方の大名により枡形が作られ(枡形については「ちよだ二号」二十三頁参照)が作られ、寛永四年(1,627)門が作られた。
 名称は服部半蔵の屋敷が門前にあったことに由るもので、麹町御門、麹町口門とも呼ばれていた。
 警備は説法十挺、弓六張、長柄鋒十本、持筒二挺、持弓一組を常備し、一万石の譜代大名がこれに当った。
 服部半蔵は伊賀忍者の頭領で、本能寺の変(1,582)が起った当時、僅かな供を連れて堺に滞在していた徳川家康(1,542−1,616)は急遽本国に引揚げたが、そのとき家康の身辺を警護し、道案内して無事浜松城に帰還させた功労者である。
 半蔵濠はもとは千鳥ヶ渕の一部(片方の翼)であったが、竹橋から英国大使館前に通ずる道路ができたので、千鳥ヶ渕から切り離されたので半蔵濠と呼ばれるようになった。濠には多くのハスが生えており、千鳥ヶ渕公園側の斜面には野生化したアブラナの大群落がある。

9、三宅坂
 千代田区永田町一丁目と同区隼町にまたがる坂で、桜田濠の外側にある。昔は坂の下あたりの堀を皀莢(サイカチ)掘といったので、坂もさいかち坂といった。また橿木(カシノキ)坂ともいった。
 三宅坂の名前は最高裁判所脇の小公園あたりに三河国(現在の愛知県の一部)田原藩主三宅備前守の上屋敷があった事に由る。幕末の志士で、画家、蘭学者としても名のあった崋山渡辺登(1,793−1,841)は家老の子としてこの藩邸内で生まれた。
 明治の中期以来、この坂の南側には陸軍省陸軍参謀本部が置かれ、三宅坂といえば陸軍の中枢部を意味していた。

10、隼町
 江戸時代から明治五年(1,872)までは麹町十二町の一つで麹町を冠称。家康の入府当時鷹匠の屋敷があったことによる町名である。明治五年麹町山元町一、三丁目、麹町平河町となった。町名は隣接の定火消屋敷など武家地に成立した隼町に継承された。
 明治五年から四十四年(1,911)までは麹町隼町と称し、現在は千代田区隼町となっている。
 第二次世界大戦中までは陸軍教育総監部、東京陸軍病院など陸軍省の施設で占められていた。昭和九年一部を永田町一丁目に編入。
 

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