第61回 福岡国際マラソン
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2007/12/2
日時:2007年12月2日 12時10分スタート
大濠公園〜福岡市西南部周回〜香椎折返し
千代田走友会 大矢 敏夫(2008.1.17)

1.はじめに
走り始めて6年が経った。健康診断でコレステロールが高いと言われたのが、走るきっかけだった。
初レースは10キロだった。その後のフルマラソンでは何度も地獄を味わった。
2003年11月、東京国際女子マラソン市民の部に参加した。四谷3丁目の40km関門でレースは終った。翌年もまた、東京のど真ん中を走りたいと思った。その後、男子は参加出来なくなったので、○川さんから皇居で声を掛けられることなく千代田走友会との出会いがあった。

2.福岡国際参加のきっかけ
2006年の大田原で初めて2時間50分を切った。この時に、別府大分と福岡国際に参加できることを知るが、福岡国際の参加資格は自己ベストに近いものであり、参加する一年後まで走力を維持することは難しいと思い、参加することは考えていなかった。
2007年の別府大分マラソンに参加したときに、福岡国際を何回も走っている人から、参加資格があるのならば完走云々を考えずに参加したほうが良いと勧められる。大会の雰囲気、沿道の応援の多さ、走りやすいコース、参加賞やパーティーの食事の良さなど、参加するだけでも価値があると聞き、参加することを考えるようになった。

3.今シーズンのテーマ
テーマというほど大げさなものではないが、「腕振り」がおかしいことに気づいたので、「腕振り」に気をつけてジョギングをするようにした。

4.トレーニング
5月に膝を痛め、7月まで走ることが出来なかった。8月からランニングを再開し、故障後だったので、ゆっくりと長い距離を走ることを心がける。夏休みや連休などがあり、8月と9月は走行距離が400kmを越えた。距離を踏めば良いという訳ではないが、今までの最高が月間350kmなので、我ながらよく走ったと思う。
どの程度走れるかを確認するためとレースに慣れるために、10月に新潟マラソンに参加した。ほぼイーブンで走ることが出来、フルマラソンを走れる体に戻っていることを確認できた。
箱根合宿では、昨年の験を担いで長尾峠に2回上る。

5.調整
今までのトレーニングと大きく変えることはなかったが、疲れているときは無理して走らなかった。
ゼーハーゼーハー状態にも慣れておくために、11月からは国立競技場で開催されている激走トレーニングにも参加する。
また、1人ではペース走が難しいので、横浜ハーフと上尾ハーフを入れる。ペース走をするつもりであったが、実際には本気モードで走ってしまい、連続自己ベスト更新。
ハーフ2レースを走った2週間前までは好調だったが、レースで頑張り過ぎたのか、1週間前に体調を崩してしまい、福岡国際までほとんど走らなかった。金曜日には風邪を引きかけたが、ビタミンCを多量に摂取したお陰か、幸い風邪は悪化することなくレース当日を迎えることができた。今回はレース前に無理して走らなくても結果がついてきたことから、レース一週間前になったらジタバタするより体調管理のほうが重要であると再認識した。

6.レース前日
受付後、スタート地点を下見する。Bグループのスタート地点である大濠公園はレース開催を思わせるものは何もなかった。明日参加する選手らしき人が何人かジョギングをしていた。
夕方からは、選手交流の夕べに参加。挨拶もなく、単なる立食ビュッフェであった。宴会場のドアが開くと参加者は料理に突進する。パスタコーナーは、すぐに長蛇の列。出遅れてしまったので、肉料理、魚料理、天ぷら、寿司、ケーキを食べまくり、最後にカレーとパスタで締める。パスタには三種類のソースが用意してあったので、全部制覇する。食べ過ぎて、歩くのがつらかった。お酒も飲み放題だったが、さすがにレース前なので我慢。

7.レース当日
Bグループの控室はプレハブだが、暖房、毛布、座るスペースもあり快適であった。控室にはピリピリした緊張感は意外となかった。トイレも並ぶことがなく、スタートまでゆったりと過ごすことが出来た。
Bグループの選手もAグループがスタートする平和台競技場でウォーミングアップすることが出来た。ウォーミングアップでは、優勝したワンジル選手の近くを走る。佐藤、油谷、高岡の各選手は体操をしているところだった。
スタート10分前ぐらいから選手は番号順にきちんと整列させられる。整列前にウェアを脱いでビニール袋に入れ荷物運搬車に預ければ良いので、防寒対策は必要なかった。東京マラソンのときとは雲泥の差である。
今回のレース運びは関門タイムを優先せざるを得なかった。いつも前後半の差が3分以内になることを目指しているので、想定ペースを前半1時間21分、後半1時間24分とした。
いよいよスタート。Bグループはピストルの合図もなく、いつのまにかスタートしていた。周りは同じレベルの選手なので、隊列を組んだまま動き出し、集団は2キロ過ぎの一般道に出るまで崩れなかった。1kmの通過タイムは3分47秒。スタートロスを考えると少し速いが、集団のペースに合わさざるを得なかった。
一般道に出てしばらくすると前方に20〜30人の集団が出来ていたが、設定ペースより早そうだったので、あえて追うことはせず自分のペースを守った。集団に入ることも大事だが、このときはペースを優先させた。新潟マラソンのときも同じようにして好結果につながったためである。既に遥か前方まで、一筋の人の列が出来ていた。単独走にならないように出来るだけ誰かと並走するようにした。
15kmの関門を通過したときに、10kmあたりから並走していた二人が「少しペースが落ちましたね。このまま行くとヤバイですね。」と話しているのが聞こえたので、この二人とはお別れして、丁度追い抜いていったランナーに付いて行く。
21km付近に、千代田の人の顔が。ウソ?本当?ウソ?本当でした。品○さん、応援ありがとうございました。思いもかけないサプライズに、鳥肌が立つくらいうれしかったです。
ハーフ地点を、1時間20分34秒で通過。想定の範囲内だったが、今までで最速の通過タイムで、脚が重くなり始めたので後半に不安が出てくる。
24km付近で、うちの奥さんの応援。カメラにVサインで答える。ここまでは、何が何でも来るようにとの厳命があったので、ひと安心。
この辺りでは、ランナーはかなり疎らになっていた。また、通過タイムを見ても、どの程度余裕があるのか計算できなくなっていた。その後は、時計を見ることはほとんどなかった。息も上がり始め、脚も重たくなり、いつもならペースを落とすところだが、関門が心配で、ただ只管、前のランナーを追いかけることに集中した。なるほど苦しかったはずで、後でレース結果をみると、この辺りの5Kmのラップは19分を切っていた。
苦しいときに、見覚えのない家族から名前を呼ばれた。このレース中、知らない人から何回か名前で応援してもらった。これが61回の伝統であろうか。名前を呼ばれると一瞬だが不思議とペースが上がる。
28km付近で先頭集団とすれ違い、3位の佐藤選手を応援し手を振る。一瞬だが後姿がテレビに映っていた。
この辺りからは落ちてくるランナーをひたすら抜いて行ったが、さすがに35kmを過ぎると自分のペースも落ちているのが分かった。あと皇居2周、あと皇居1周と考えながら走った。
40km辺りからは、沿道の応援がさらに増え、地元走友会の幟も多数見受けられた。応援に助けられ、最後のひと頑張り。
競技場前で止められることもあると聞いていたので、競技場前の坂を登り競技場に入って、やっと完走を確信できた。競技場内の電光掲示板は39分台を表示していた。ちょっと信じられなかったが、自分の時計を見ても同じだった。自己ベストが出せると思い、あとはゴールしか目に入らなかった。
そして、夢のような、濃密な2時間40分30秒が終った。

8.おわりに
年齢的に記録を伸ばすのは難しいと考えていたが、今シーズンの目標レースでの思ってもみない結果だった。福岡国際という舞台、沿道の応援、千代田のユニフォーム、高速コース、好気象条件、関門への恐怖心が後押ししてくれたからか?「フルマラソンでは、カメがウサギより先にゴールすることもある。」という人もいる。完走できればよいと思っていたのが自己ベスト。フルマラソンは分からないものである。
先日、東京国際女子マラソンは2008年で最後となることを知った。2003年のDNFを思い出した。あの都心のコースをレースで走ることは、もう出来ないかもしれない。いつかまた、あのコースを国立競技場のゴールまで走るために、今日まで走り続けてきたのかもしれない。
次のレースでは、どんな気持ちでスタートラインに立っているだろうか?
次のレースで何を感じるだろうか?

最後に、自由に走らせてくれたうちの奥さんに感謝したい。

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