初ウルトラ完走記
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2008/6/7
  上村 文雄 2008.6.10

 しまなみ海道100Kウルトラ遠足に参加してきました。
 同志は初ウルトラ組が北村、浜渡、大竹、寺崎、曽我(ク)、小林、鈴木(昌)、北原、上村の9名。未完走組が渡部(卓)、高桑(ダ)の2名。ベテラン組は大谷、柴田、森岡、高桑(り)、片山(範)、岸田、伊藤の7名の合計18名である。

 日程・概要(参加者名簿による)
 2008年6月6日(金)〜6月8日(日)
 エントリーは1,109名、(男子853、女子256)、最年長は男子83歳、女子71歳
 最年少男子19歳、女子25歳、平均年齢男子46.7歳、女子45.2歳

第一日目(6月6日)

  朝4時56分の小田急始発電車で羽田空港出発ロビーには6時30分頃到着。既に後発組の大谷、片山(範)、北原、伊藤以外は全員揃っていて私が最後だったようだ。6:55発のJALで広島空港へ。飛行機はりずみちゃんが皆の分をまとめてとってくれたので、後方にまとまった席となり賑やかな旅のスタートとなった。

  広島空港からは数グループに別れ、集合は宿泊・受付会場の福山ニューキャスルホテルである。我々7名(高桑夫妻、北村、浜渡、大竹、寺崎、上村)は一昨年と同じコースでバス、JRを乗り継いでまず宮島観光である。昼食のあなご飯とビールがうまかった。その後原爆ドームと資料館を見学の予定だったが、福山へのJR時刻を見るとあまり時間的余裕はない。あまりあわただしいのが苦手な私はそのまま一人JRの鈍行で福山のホテルに向かうことにした。
 ホームで電車を待っていたら、何と蓉子ちゃんがいるではないか。宮島から福山は鈍行だと1時間30分もかかるが、おかげ様で寝過ごすこともなく、無事福山で降りることが出来た。途中範子さんから電話があり「今どこですか」「4時過ぎにホテルに着きます。蓉子ちゃんも一緒です」。後発組の伊藤、範子さん、ドーム見学・新幹線組の高桑夫妻、大竹はもうホテルに着いていたので結局私達が最後になってしまった。

 夕食を鞆の浦欧風亭に予約してあり、ホテルの送迎バスが4時30分に出発するので、レース受付、部屋に荷物を置きとあわただしく済ませロビーに集合。途中モリモリとキッシーに会ったので、大谷さん以外はもう揃ったのかな。豪華懐石・温泉組は結局、高桑夫妻、大竹、寺崎、伊藤、片山(範)、上村の7名となる。後発の伊藤、片山(範)の二人は東京駅の中央線ホームから新幹線ホームまでダッシュし予約していた1時間前の電車に飛び乗り、送迎バスに間に合ったという。やはり私とは根性が違うな。

 瀬戸内海の島々を眺めながらの温泉と鯛を中心とした海の幸懐石、そしてビールに日本酒はもう、最高、至福の時であった。明日ウルトラを走るなんて考えられません。帰りは路線バスでホテルに向かう。
 明日のレースに備え、夜9時に全員ロビーに集合、大谷さんから、明日の朝食、集合時間・場所などの説明があり、9時半頃には、目覚ましを3時にセットし即就寝した。


  レース当日(6月7日)

 2時半には目が覚めてしまった。同室の小林さんは未だ寝ているようだ。3時前には小林さんも目覚め、早速1Fロビーに朝食を取りに下りた。ランナーでごったがえしており、弁当の前に列が出来ている。コンビニ弁当とバナナ1本、、お茶が配給された。

 部屋に戻り二人で黙々と食う。普段、朝食は食べないことも多かったが二人共きれいに平らげた。
 さて問題はトイレだが、緊張と興奮のためか一向に催してこない。小林さんも同じような事を言っている。結局チャレンジしたがダメで4時20分ロビーに降り、ゾロゾロとスタート地点の福山城に向かう。

 城内の公園のようなところがスタート地点だ。普通のマラソン大会のスタートの雰囲気よりは何だかのんびりしているようだ。
 ベテラン組の人は常連の知り合いに会ったのか、和気藹々と笑顔で談笑している。私の頭はトイレの不安で一杯だ。AM5時、ドンドンドーンと太鼓の音が聞こえ、いよいよスタートとなった。

 道路に出るまでは階段のようなところをゆっくり歩いて下りてゆく。実にのんびりしたものだ。大阪言葉で「こんなとこで走っても変わらへんでー」と聞こえてくる。確かにその通りと思い、石に注意し慎重に道路に出た。前の方からゆっくりと走り始めたようだ。周りの選手に合わせゆっくりと走り出した。
 千代田の選手は大体一団となっている。最初は係員がいて信号を守って下さいと指示しているので何箇所かで信号待ちがあった。町谷会長の話を思い出した。「信号は必ず守らないと、後半疲れてきた時が危ない。無意識で行ってしまうことがある」。ただ早朝の市内はまだ車も少なく、その内1,2人が渡ると、ほとんどが赤でもそのまま走ってしまった。但し、相当の注意を肝に銘じる。

 5Kも走らないうち、案の定、何だか催してきたようだ。店は閉まっているしコンビニもない。市街から離れるほど店の数も減ってくる。野糞がばれて千代田に迷惑がかかってもまずいと思いつつ、いよいよテンパってきた。そんな時、柴田さんが転んだようだ。手だか足だか覚えていないが血が見えた。立ち止まって誰かにテープを貼ってもらっている。私には今立ち止まる余裕はない。フーちゃんごめん。目は隠れ場所を探しているのだ。
 左側に小さな工場のようなものが見え、人影が見えた。一人脱兎の如く隊列を離れ「すみません、トイレ貸して下さい」若い配達員のような男が「どうぞ、こちらです」案内された時ホッと生き返った。
 用を足したら一気に気持ちが軽くなり、私にとって実質的なスタートとなった。千代田のメンバーが誰もいないので、遅れを取り戻そうと少しピッチを上げると、すぐ大谷さんがいた。前を走っていたはずなのに、後ろの私が一瞬消えたのを知っていた。「どうしたの」「トイレ借りてきた」。大谷さんはレース序盤はピッチを上げたり下げたりしながら、写真も撮りながら千代田全体を見ているようだ。やはり忍者だ。

 20K位まではトンネルが続き、横をトラックがゴォーと音をたてながら通過する。(国道2号)それでも用足しした余裕か小林さん、浜渡さん、鈴木さんらと冗談の一つも飛ばしながら、前後して走る。
 海が見えてきた。いよいよ来たぞという感じだ。
 最初の尾道大橋だ。しまなみ海道が始まると改めて気を引き締める。向島という最初の島の中を10K程走ると二つ目の因島大橋だ。
 伊藤さんが最後尾で曽我さんをフォローすると言っていたので、この頃からか大谷さんは範子さんのフォローに絞ってきたようだ。前の様子はわからないが、30K付近では先行する高桑夫妻、北村、北原、渡部、鈴木、岸田、柴田、森岡、浜渡、大竹、寺崎、上村、片山(範)、大谷、小林、曽我、伊藤と2〜3人のグループを形成しながら前後のグループとはエイドで顔を合わせつつ走っていたようだ。ここまで私はほぼ8分/K、40分/5K位のペースではないか。

 35Kのエイドだったか、清見オレンジの生ジュースをその場で絞って出してくれる。うまかった。2杯も3杯も飲んだ人が多いのでは。因島の中を7〜8K進むと40Kエイドだ。
 さらに三つ目の生口橋を渡って生口島に入り10番目が中間50Kエイドで予め着替えが置いてある。着替えようか迷ったが、40Kあたりから、股ずれがヒリヒリしだしたので全取替を決めた、アンダー、シャツ、パンツ、靴、靴下、帽子、手袋を全て新しいものに交換した。ゼッケン2枚の付け替えに手間取り、結局10分位費やしたのではないか、すでに大竹、寺崎の姿はなく大谷さんが一人座っている。「何、未だいたの。皆もう行っちゃったよ」「全部着替えて遅くなった。範子さんは?」、「トイレ」。2、3の会話ですぐ出発、ゴール用に新調した千代田のTシャツで再スタートを切った。

瀬戸田西小学校
 生口島の南国調の通りで大谷さんがりずみちゃんのお父さんが出た小学校を教えてくれた。レトロな感じの映画に出てきそうな学校だ。
 海水浴場にある55Kのエイドでは頑固そうなおやじが飲んだ後の紙コップやすいかの皮等を分別して捨てるよう選手に注意していた。間違ったり、意識せずに捨てた選手にはやり直しをさせていた。

 次は4つ目の多田羅大橋を渡る。しまなみはフラットで景色は抜群のように聞いていたが、アップダウンは結構ある。橋は船舶航行のためか、概ね海面から100m位の高さに見える。海岸通りから橋を渡るとなると少なくとも7回の100m位のアップダウンが必要となる理屈だ。実際、橋までラセン状の坂道や階段が多く、これが結構キツい。(登坂や階段ではほとんどの人が歩いていた)伊藤さんが早く歩く練習を取り入れていた理由がわかった。

 伯方島の70Kエイドではゼッケン番号と名前が一人一人マイクで放送される。スーパーで「伯方の塩」は知ってはいたが、そうかここだったのかと納得する。町の人達の熱心な応援やボランティアの人達の活気をもらい、一瞬心は和むが、体の方はかなり限界に近い。北原さんがマッサージを受けたらしく「マッサージいいですよ」と進め、さっそうと笑顔でスタートして行く。私はマッサージなど受けていたら、間に合わないと気を取り直して北原さんを追うが、どんどんと離されていくのが明らかだ。
 次の伯方大島大橋を渡る頃は既に北原さんの姿は視界から消えていた。日立病院と書かれた千代田と同じライトブルー色のユニホームを着た4,5人のグループとずっと抜きつ抜かれつしながら走ってきた。「ユニホームの色いいですねー。日立は茨城からですか?」、「皆さんにそう聞かれます。山口なんです。全国7病院共通なんです」、「「その色、萩でも随分走ってましたなー」「7人です。この色は早く走れるんです」見ず知らずの人にお互い親しみを感じ、たわいもない会話をする。

 大島に渡り80Kのエイド(バラ公園)にたどり着く。前を行く岸田、柴田、森岡の3人がエイドを出ていくのが見えた。思わず「キッシー」と叫んだが届かない。前を走る選手との差は見えない限りわからないが、ここで3人とはあまり差がないことを知り、屈伸運動とムギ茶、頭から水をかけて早々にスタート、3人を追い始める。
 すでに8分/Kのスピードは9分/K位に落ちているのではないか。(実は10Kラップを70K位までとっていたのですが、いつの時点かオールクリアされてしまい、タイムは全て推測となりました)
 この辺りか、ずっと隣を走っていた男性が「女性軍は強いですなー、あの二人、もう1時間もしゃべりっぱなしでっせー」。確かにいつから走り始めたとか今度どの大会にでるとか、10K位ずっと話続けている2人のおばさんランナーがいた。「ほんとですネー、しゃべるだけでエネルギー使うのにネー」と反応しつつ、そのおばさん達にお陰様で引っ張られてるのだ。

 千代田の3人のユニホームらしきライトブルーの集団は視界に出たり入ったりしていたが、差は縮まらないどころか、次第に離され、やがて視界から消えた。そうなるとあと約15K、全部歩いても9時には間に合うと決めてしまい、最後の来島海峡大橋の長い三つの橋はほとんど歩いてしまった。
 かすかに夕日のオレンジ色が幻想的でこの夕日を見てからゴールする人もいると聞くが、私には空虚な夕日にしか写らなかった。

 92K地点のエイドにたどり着く。いつもの屈伸をやり、ムギ茶を飲み、思わずシートの上で仰向けに寝てしまった。1〜2分だろうか目を閉じ、あと8Kと言い聞かせスタート。
 しばらく行くと大竹、寺崎の二人に追いつく。「あと7K、千代田は完走だ!」と颯爽と追い越すが、ここまで来ると相手の反応も静かで空元気も続かず10mも追い越すと歩いてしまう。走って追いつき、歩くと追い越されの繰り返しだ。今度は二人が「追いついた」といって私を追い抜いていく。二人を追い「三人で同時ゴールしようか」と提案し、ここで三人の同時ゴールが決まった。残り全部歩いても8時45分までにはゴールできる計算だ。

 真っ暗の今治市内の商店街を通り、ライトアップされた幻想的な今治城を3人で歩き、いよいよあと1Kだ。
 ゴールが見えたら屈伸運動をして走り出す約束だ。
 最後の信号で屈伸をして走り出した。
 何だか感動が込み上げてくる。三人で手を繋ぎカメラのフラッシュを浴びる。

 先着していた曽我さんが「おめでとう」と駆け寄ってくれる。
 百合ちゃん、蓉子ちゃんはどっかに携帯電話しながら泣いている。多分、家族や友人に報告しているのだろう。「よく頑張ったネ」と二人に握手を求めると私も込み上げてきた。

 体育館のような今治繊維リソースセンターの中に入ると、先着していた北原、北村、浜渡、岸田、柴田、森岡らの同志が笑顔で迎えてくれた。しかし傷病兵のようにうつろな目で横になっている人もいる。
 私達の10分後位に心配していた範子さん、大谷さんがゴールに飛び込んできた。さすが、きちっと帳尻を合わせてくる。浜渡さんが紙コップにビールをついでくれた。おめでとう、乾杯!

 皆様直後のビールには気をつけよう。30分後に来たホテル行きの送迎バスの中で吐いてしまった。完走の喜びも半分吹っ飛び、すぐホテルのベッドに倒れ込んだ。それでも風呂に入りたい。元気な皆はホテルの大浴場に向かったが、私は一人部屋風呂に入る。湯船に浸かると股ずれがしみて痛い。洗髪してシャワーにしようとレバーを押したり引いたり回したりしたがシャワーにならない。やむなく蛇口に頭をもって行き、考えられない姿勢で頭を流し終え再びベッドに倒れ込む。

 午後10時過ぎ、小林さん、渡部さん、鈴木さんが帰って来た。同室の小林さんは86K地点で関門にひっかかり、やむなくリタイアとの事、渡部さん、鈴木さんは若干タイムオーバーだが、ゴールまで走ったようだ。

 夜11時過ぎ、明日の打合せをするのでロビーに集合せよとの電話が入る。大谷さんが3日目のスケジュール表を配り、簡単な説明をする。その後、缶ビールとおつまみで再び乾杯(この頃にはすっかり回復していた)12時頃散会する。


 第三日目(6月8日)

 朝食は8時、和洋が選べるバイキング、18人が二つの円卓に座れた。ささやかではあるが、あらかじめ頼んでおいた、りずみちゃんのバースデイケーキを出してもらう。昨日が誕生日だったが、全員が集まれなかったので、今日の朝食でやりましょうと範子さんと相談して決めていた。女性軍の主導でハピバースディ♪の歌が始まる。りずみちゃん誕生日おめでとう♪

 朝食後はJRで松山駅に向かう。小林、渡部、鈴木の3人は小豆島にもう1泊するとの事で今治駅で別れた。
 松山に着くと、モリモリ旦那の弟さん夫婦が、何と迎えに来てくれている。荷物を車に預かってくれ夕方空港まで運んでくれるという。さらに道後温泉の風呂・昼食会場まで市電で案内してくれる。実に明るく気さくな奥様だ。
 道後温泉では、あらかじめ和・洋・中華の希望まで大谷さんがとってくれていて、ちょうど和と中華が半々位だったが着席して再び乾杯した。
 食後は温泉につかり、午後は松山城を見学。ケーブルカーまたはロープウエイで登った後、さらに天守閣まで相当歩く。それでも最上階の展望台まで登り、松山市内、海までが遠望できた。大街道で山口の周南市に帰る岸田さんと別れ、松山空港経由羽田への帰路についた。


  振り返って

 今回、初ウルトラ組11名をリードしてくれたベテラン組の大谷さん、伊藤さん、高桑(り)さん、森岡さん、片山(範)さん、柴田さん、岸田さんありがとうございました。
 私にとってウルトラは千代田に入って少しづつ育ってきた夢でした。きっかけは確か2、3年位前14、5人で足利フラワーパークにマラニック花見に行った時、偶然ですが、ウルトラを走ったことがないのは私だけだった事です。
 榊さんに「ウルトラって人生みたいなもの。苦しいけど、次のエイドめざして走るんです。エイドはオアシスみたいなもの。我慢しているといいこともあるんです。若い人より年配の人が多いですよ。」と聞いて、いつかは走りたいという思いを強くしました。

 2年前、亡妻の久美子に相談したら「ムリ、ムリ、絶対無理、今走ったらウルトラに失礼よ」と一蹴されました。久美子のお告げに従い少しづつ練習を始め、去年再び相談に行ったら「あんた、今年走らないとあんたの性格じゃ、一生走らないんだから早く行って来い」と煽られました。1年前まで、100〜150K/月の土日ランナーでしたが、定年退職後少しづつ月間走行距離を増やして300〜350K/月になりました。ウルトラ向けには30〜40K位のマラニック的なものを4〜5回/年やりました。あと走る前後(特に後)のストレッチやスクワットも以前はほとんどやらなかったのを前後で10分位ですがやるようにしています。

 息子にウルトラを走る話をしたら「100K走るのになぜ100Kの練習をしないのか」と単純に質問され、答えに窮しましたが、最後までその不安はありました。
 久美子がその時言いました「あんた、やってみなきゃわかんないでしょ。失敗したっていいじゃない。かっこつけんじゃないわよ」これがエントリーの決め手となり、すぐ郵便局へ行って17000円振り込みました。

 全く、参考にはならないと思いますが、書きなさいとのお告げに従いました。読みにくい文章を最後まで我慢してくれてありがとうございました。最後に参加されたメンバーのお名前を、呼び捨てにしたり、さんづけにしたり、愛称にしたりバラバラとなったこと、敬称を省かせていただきましたこと、お詫び致します。
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