沖縄マラソンに挑戦してきました
一覧へ戻る
2009/2/22
  若林 昌二 2009.2.24

かねてより一度は挑戦してみたい大会が沖縄のマラソン大会でした。
那覇マラソンは有名ですが、他にも本島南部・南城市で開催される尚巴志(しょうはし)マラソンや今回参加の沖縄マラソン(沖縄市)には是非一度は挑戦したいと思っておりました。
沖縄の大会はどれも地元の暖かい、いや熱い位の声援に後押しされ子供からお年寄りまで町ぐるみで大会を盛り上げるその様子を雑誌やメディアで知り、どうしても参加したくなったのです。

那覇マラソン(12月第2週)は大会の日程が合わず、尚巴志マラソン(11月上旬開催)はつくばマラソンとの兼ね合いから日程的に厳しいかなと思い最終的に沖縄マラソンに照準を合わせました。

2月21日(土)大会前日現地に着くとそこはもう初夏の陽気。最高気温も25度近くに上がり想像以上の暑さと、高い湿度に翌日の激戦を覚悟せざるをえませんでした。

大会会場の沖縄県総合運動公園にて前日受け付けを行いましたが、私の番号107の受付カウンターが見つかりません。スタッフに確認したところ、招待選手や競技選手と同じカウンターにて手続きすることに。何でも陸連登録者は競技選手ということで、何とも気恥ずかしい思いでゼッケンを受け取りました。

泊まったホテルは会場から徒歩10分ほどですが、事前受付に行く際一人の青年と出会いました。聞けば東京都荒川区からこの大会に参加するため1人でマラソンツアーに混じって来たとのこと、住所も我が家から近くランニング談義に花を咲かせ同行させて貰いました。彼曰く“沖縄マラソンは一度参加するとその雰囲気にはまってしまいますよ!私は今回で三度目です!”と。
やはり期待していた以上に熱い大会であることを確信し明日に期待をもちました。

一方会場往復で歩いた道のりで坂 道の勾配のきつさも実感しました。会場にはハブ出没注意の看板があったり、沖縄独特の形をしたお墓の売り出し現場を見たりと徐々に沖縄にいる実感がこみ上げて来ました。

2月22日(日)
大会当日歩いて会場入りするとそこは既にお祭り騒ぎ。
出店や、マッサージに心電図計測等本土の大会にある物は勿論ですが、あちこちで沖縄民謡が流れ、太鼓の音が鳴り響きいやがおうにも気持ちは高ぶります。ゼッケン番号順に整列しスタート時間を待ちます。
前述のごとく陸連登録者は番号が若く最前列のブロックに入れます。フルマラソンエントリー者が9,010名で500人毎のブロック分けでした。開会セレモニーの後スタート地点に移動すると沖縄テレビが生中継に入り、沖縄プロレスのレスラーも参加し大会を盛り上げ(ただし10キロですが)キャスターの声は前回の優勝者や入賞者をゼッケン番号と共に紹介をし、その後私たち陸連登録者を記録狙いの強者競技者達と紹介しておりました。(何とも恥ずかしいやら複雑な気分でした。)

9時 丁度にスタート。気温は約20度、湿度80%、南西の風2〜3mがスタート時の条件でした。今回は使い慣れた時計と走りながらペースが見られる時計、計二つを両手首にはめ、脱水症状やエネルギー切れ予防に腰に飲料ボトルやゼリー状の補給食を装備しスタートしました。
ところがスタートして10分ほどしたあたりで左手首にはめた時計が動いていないのに気づきました。スタートボタンを押したつもりが不完全だったようです。とにかく慌てました。右にはめたペースを計れる時計は問題なく作動していたので一安心ですがどうやって左の時計を修正しようか(キロ単位の目標ラップを設定していた都合)考えながら走っているうちに最初数キロの表示は見逃し、5キロ付近までは神経が時計の修正にとらわれ、ついオーバーペースになってしまいました。
また公設エイドは5キロ毎更にありその間スポンジエイドが2.5キロ毎にあるほか数え切れない私設エイドの多さに驚きました。会社やグループ、各種団体があちこちでエイドを作り更に個人が自家製のお菓子や黒糖飴、塩飴、ちんすこう、オレンジ、レモン、アイスキャンディー、バナナ、梅干し、自家製ケーキ、チョコレート、乾燥梅干し、冷水、スポーツ飲料を無償で誰彼隔てなく差し出してくれます。中でも有り難いのは消炎スプレーを持った方があちこちにいて後半膝痛や筋肉がつったランナーにスプレーをしてくれる様は痒いところに手が届く地元応援者の暖かさを実感しました。
そんな訳で事前に分かっていれば重たいボトルや補給食を腰に巻き付けなくて良かったなあと後悔しましたが後の祭りです。思えばスタート時にこれらを纏まり付けている人が本土の大会に比べ少ないことに気づきました。

沿道を埋め尽くす人、人、人、しかも太鼓やタンバリン、口笛に町内毎なのかあちこちで子供達がおそろいの衣装を身につけエイサーを踊り、前述のごとく個人が有志で差し入れを出してくれる様に感謝感激あめあられ状態が延々と42キロ続くのです。特に小さな子供が差し出してくれるアイスキャンディー(チューペットを半分にしたもの)は後半疲れと暑さと喉の渇きに何ともいえないパワーを貰いました。
パワーと言えば、地元高校生が学校総出で応援してくれました。17.5キロ付近そろそろ折り返し地点にさしかかる前半の山場ですが、正門前を通り抜けると口笛に声援の嵐、やはり若い人の応援は凄い力を貰います。聞けば数年前から生徒会長の発案で始まり今は恒例になっているとか自分たちも高校野球等の応援を受けパワーをもらったからその気持ちを返すとか、泣けますね!思わず声援に呼応したら何倍もの声援が帰ってきました。
沖縄マラソンのコースに嘉手納基地(29k〜31k付近)が入ります。後半唯一のフラットが約2キロ続きますが、ゲートをくぐる際、米兵達に思わず“Yes, we can!”と大きな声で発しました。そこはユーモアのきく彼ら、すぐさま“Oh yes! you can”と返してくれました。基地内の米兵や家族の応援はやはり熱狂的なアメリカ国民そのものでそれはそれで楽しかったです。決まり文句は“Good job”と言ってました。

レースの後半39キロから約1キロ急勾配の下りがありました。タイムの稼ぎ時のはずがスピードは全く上がりません。あまりにも急すぎて足に負担が大きい為ブレーキをかけながら下りました。その後の残り2キロのフラットにラストスパートをかけました。その影響かゴール後は足がガクガクになり、先にゴールした家内に写真を撮って貰いましたが、同タイムでゴールした米兵とゴール後同じポーズでうなだれる姿を見て疲れた時は国籍問わず皆同じだねと笑いました。

私自身のレース運びの予定は、前半の折り返しを1時間57分で、後半が2時間2分で計3時間59分を目標に走りました。結果は前半が1時間56分、後半は坂のきつさに予定をオーバー2時間6分かかり結果4時間2分44秒と今回もサブフォーは達成なりませんでした。前回のつくばは前半1時間55分後半が2時間7分ですからレース展開に大差ありませんが、コースの厳しさ(特に後半は坂の連続)を考えれば自分なりに納得のいくレース運びだったと思います。実際に翌朝の新聞では9,010名のエントリーに対し6,971名が完走(完走率77.4%、時間制限6時間15分)したとありましたのでつくばに比べ完走率の低さがこのコースの厳しさを物語っていると自負し自己満足しております。

私自身の順位も9,010名中858位で翌日の沖縄タイムスでは上位1,000番までの名前が掲載され思わず一部記念に買ってしまいました。冷静に考えると前回のつくばがほぼ同じタイムで順位は4,000番くらいでしたから全体的なレベルが低いのか自分が頑張れた結果なのかは微妙ですね、良い方に解釈しましょう。
家内も10キロにエントリーし無事に完走出来ました。今回、彼女は仕事の都合で殆ど走れずいつものように当日まで出走するかを迷いましたが結局走りタイムは平凡ながら彼女なりに楽しんだようです。
ゴール時の気温が25度近くになったため、、着替えもしないでそのままホテルへ戻りシャワーを浴びた後参加賞のTシャツに着替え那覇市内に食事・買い物を楽しみ一日を終えました。このTシャツは毎回全国からデザインを公募し審査した結果最優秀作品の逸品です。今年は黒地に朱色のシーサーがデザインされたもので、家内はこのTシャツ欲しさにエントリーしました。来年も是非夫婦で参加出来ればと思いました。
 

前述の青年の言葉通り沖縄マラソンにはまってしまったようです。
長文におつき合い頂きまして有り難うございました。
count: カウンター