四万十川ウルトラマラソン奮戦記
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2011/10/16
  若林 昌二 2011.10.21

挑戦のきっかけ

今年は私たち夫婦が結婚して30年、それを記念に何処かに行こうかと話が出て、四国で唯一行ったことがない(家内は)県である高知がその候補になった。
日本一の清流で知られる四万十川を巡るウルトラマラソンが10月中旬にあるらしい、日程も空いているので早速申し込んだ。
ところが、磐梯高原ウルトラマラソン(9月3日)から1ヶ月半後に迎えるこの大会、更に半月後の11月3日には湘南国際(フル)27日には、つくば(フル)を予定していた。かなりハードな日程だが、どうせこちらは抽選(倍率2倍)だし落選の可能性もある。当選したらその時考えるか!と軽いノリでエントリーしてしまいました。結果は見事当選。後はやるしかないと今夏は猛暑の中、ほぼ毎日走り、取り敢えず距離だけは踏むことが出来ました。
振り返れば佐藤綾子さんに誘われ出場した磐梯高原ウルトラは夏場のウルトラレースに向けての最高のシミュレーションにもなりました。感謝。感謝です。

ウルトラ対策
4月のチャレンジ富士五湖(112km)で体感したこと、それは70キロあたりから体全体のボルトが緩む感覚?言い換えれば体にガタがきて軋むような感じを覚えました。ウルトラは下半身はもとより体全体のバランスも大事であることを反省し、体幹を鍛えなおそうと、腕立て、腹筋、スクワットを取り入れ上半身・中半身・下半身全体のバランスを鍛えることにしました。
この大会は序盤の20km位までは登りで600m程登ります。それから30km付近まで一気に下り、あとは途中若干の登りの厳しい箇所を除けば、四万十川を眺めながらのコースが続きます。
序盤は必要最小限のエネルギーで乗り切り、中盤から後半に向け如何に体力を配分して走るか、登りは腕振りで揚力を、骨盤・腹筋を使った捻力で脚の負担を軽くしようと無い頭を捻って対策をこうじました。

大会前のエピソード
大会前、事務局から送られてきた資料一式の中に地元中学生からの(直筆の)メッセージが同封されていました。“苦しくなったら清流四万十川を見て元気を貰って下さいね・・・頑張って下さい、応援しています”云々と書かれていました。大会参加者約2,000人(100km1500人、60km500人)全員に出しているのだろうか?いずれにしても葉書で御礼を出しました。事前受付の会場では地元の子どもが四万十川の小石に絵を描き陳列してあるとか、選手は記念にひとつ貰えることを知りました。町ぐるみで大会を盛り上げていることを実感しました。否が応でもスタート前からモチベーションは上がります。

大会前日
高知龍馬空港からレンタカーで約3時間(結構遠い)かけて四万十市に着きました。これほど交通不便な場所に全国からランナーが押し寄せることが不思議でした。町のいたるところに幟(のぼり)が立ちます。四国や関西圏から車で来る人はそのまま車中泊も多いようです。理由は宿不足でしょう。受付を済ませフィニッシャーTシャツを注文しました。12月上旬料金着払いで送付とのこと、完走できなければ自動的にキャンセルされると説明を受けました。(当たり前か)ゴールシーンが編集されるDVDも受け付けしていました。こちらは料金先払いでキャンセル不可と聞き、見送りました。そして前述の四万十の小石コーナーへ!
大小形も様々な小石に地元の子供が可愛い絵を描いています。小さめの丸三角の石に川の流れが描かれたものを選びました。お天気は小雨が残ります。今晩も雨の予報、ただし明日(レース当日)は快晴の予報に期待して宿へと向かいました。

大会当日・スタート〜35km
予報通り雨は上がっていました。西日本の夜明けは東京より約1時間遅く真っ暗です。午前3時に宿を出発15分かけて駐車場へ、既に8割がた埋まっていました。そこから徒歩20分かけてシャトルバス乗り場へ3時30分からの運行でしたが1便は既に出発、2便に乗って約15分かけてスタート会場の蕨ケ岡中学校に着いたのが4時でした。
スタート会場は真っ暗、霧が立ち込めその中を松の篝火がたかれています。暗闇に浮かぶ篝火、地元の中学生が和太鼓で雰囲気を醸し出します。何とも幻想的な雰囲気に包まれました。まるで出陣前の戦国武将の気分です。
5時30分スタートしました。まだまだ真っ暗です。駅から30分もバスで離れた中学校がスタート会場。道路の街灯は皆無、明かりは投光器数台のみです。それを補ったのは住民の車のヘッドライトでした。約50m間隔で前方の道を照らしてくれます。高級車からワゴン車、軽自動車から農作業用の軽トラックと地元の人達が朝早くからコースを照らしてくれます。更に驚いたのは人家の途絶えたコースには手作りのろうそくランプが2m間隔で数百メートルも続きます。ボランティアやスタッフは、スタートからゴールまで国道も市道も農道も山道も川原もどこにでも100m間隔に立って誘導・応援してくれます。100kmの道程を全てです。まさに地域をあげての大会です。ゼッケンには出身都道府県が印字されています。東京と書かれた私のゼッケンを見て何度も“遠くからようこそ!”と声をかけて下さいました。
序盤は約ハーフの距離をかけて600m登ります。特に15km過ぎからの6kmは傾斜もきつく厳しいコース、腕を振り腰を捻って足を運びました。面白いように人を抜いていきます。決して無理をしてではありません。峠の山頂で初めて休憩しました。ここから約10数キロかけて下ります。
待望の四万十川に逢えたのは35kmを過ぎてからでした。しかしこの峠超えのコースは東北の奥入瀬渓谷を彷彿させるほどの素晴らしい景色と空気でした。途中何箇所か集落があり総出で歓迎してくれます。苔むした原生林は強い日差しからランナーを守ってくれます。寒いほど涼しかったです。
鳥のさえずりや川のせせらぎを聞き、湧き出る清水で顔を洗い、喉を潤しながらのランは最高です。眼下に清流四万十川、さぁこれからが本番だぞと気持ちを切り替えました。

35km〜カヌー館(62km)まで
四万十川に出ると時折日陰はありますが、強い日差しに遭遇。天気は快晴しかも朝霧から気温の上昇は覚悟していました。着衣はスポーツ下着にランシャツです。川面に晴天の青空が映え、清流が一層輝きを増します。走るのには辛いけど、この素晴らしい川を拝むにはやはり晴天が・・・しかしそう思ったのはその時だけでした。
50数kmポイントにコース最大の見所?半家沈下橋(はげちんかばし)を渡ります。欄干のない幅3mあるかないかの橋を往復します。対岸には大勢の応援者が声援を送って下さり、お決まりの撮影ポイントがありました。私も身なりを整えポーズを決め通過しました。そろそろ55km付近です。突然携帯が鳴りました。同行した家内は今日は高知市内に観光中、私からはカヌー館(62km)でメールすることになっていました。誰だろう?声の主は片山さんでした。“トータルマラソンの応援に来ているんだけど、場所がわからないんだ!若林さんどのあたりにいるの?”こんな感じの内容でした。“片山さん!トータルじゃなくて、タートルでしょ!どのあたりっていうか、私は同じ川でも四万十川を走っている最中なんです”と応答。その後奥様からも励ましの声をかけて頂きました。今回はアウェーでのレースでしたが、予期せぬ仲間の応援を頂き元気が出ました。片山御夫妻、この場を借りて御礼申し上げます。
暑さがボディーブローのようにききはじめ徐々に設定の時間から遅れ始めました。カヌー館(62km)は13時10分着13時30分出発の予定でした。着替えたりシューズ交換、栄養補給等が出来るエイドになっています。余裕のあるランナーは30分以上費やす人もいます。ここに着いたのが13時30分近く、予定より20分ほど遅れています。調子に乗って写真をとったり、ビデオを撮ったりしたのも原因でしょう。着替えもせず、消炎スプレーを膝に吹きかけ、家内に20分遅れであること、ゴール出来てもぎりぎりかもしれないとメールを送り、携帯はそのまま荷物に預け、休憩もそこそこで出発しました。

カヌー館〜80kmまで
後半の時間設定はゆるく作りました。心の中ではまだまだ余裕はありましたが、何が起きるか分からないのがウルトラです。ペースをあげ走り続けました。しかし徐々に暑さで体力を失い気持ちとは裏腹にペースが上がらなくなってきました。そんな時あるエイドで見知らぬ女性から“若林さん!頑張って下さい”と、・・・けげんな私の表情を汲み取り“サクです”と返されました。知らない振りも出来ず“あぁお久しぶりです。出身はこちらでしたか?”と応え声援に御礼を述べその場から立ち去りました。身に覚えが無い(すみません思い出せないだけだと思いますが)人からでも個人的な名前で応援を受けると嬉しい限りですね。更に暫く走っていると沿道に身を乗り出し望遠レンズで写真を撮っているご婦人に気が付きました。どうも私がターゲットのように感じる!まさか・どうして?通過直前に呼び止められ、一瞬地元地方紙のカメラマンが飛び入り取材か?しかも名前を呼ばれた。“若林さんですね!”、“ハイ”と応えると、そのご婦人は大会前応援メッセージを貰った中学生のお母さんでした。私が書いた葉書を見せて貰い、やっと事の真相が分かりました。本人はボランティアで出ているようで、娘さんに頼まれ代わりに沿道で待っていてくれていたようです。何時間も自分の到着を、しかもリタイアすれば来ないかもしれない自分を待っていてくれたかと思うと熱いものがこみ上げてきました。

80km〜ゴール
期待していなかったサプライズがまたおこりました。今年から閉鎖されたはずの私設エイドのビールです。ある集落の小さな食堂の前でグラスに3分の1程度でしたが振舞ってくれました。冷たく冷えたそれは渇いた喉をキリキリと潤します。あの味は忘れられません。
振る舞いビールに元気を貰い更に走ります。しかしウルトラマラソンの本当の地獄はこれからでした。西日は否応なく私から体力を奪います。右手に時には左手に悠々と流れる四万十川の流れのようには行かず足が前へ進みません。膝も太ももも、まだまだ大丈夫です。屈伸も出来ます。それなのに足が思うように前へ進まない。体全体が痛いのです。首筋がパンパンに張り着地の振動で胸、腹、腰周りの筋肉が悲鳴を上げる。
更に困った時の腕振りも脇の下がこすれ真っ赤に内出血し思うように振れません。腰を捻っての走法も恥ずかしい話ですが、股間付近がやはりすれて痛みが走ります。関門を通過する度に持ち時間の余裕がなくなります。エイド毎に頭から真水を被り、暑さとの戦いも厳しいものがありました。 スタート前のゴール予定タイム19時(19時30分が制限時間)から遅れることが確実になってきました。いつしか西日は夕日へと変わり90km過ぎてからはどっぷりと日が暮れました。 ペンライトを渡され足元を照らしながらのラン?いやウォークが続きます。気が付くと朝スタート時と同様地元の人達が自家用車を出し、コースを照らしてくれます。ゴールでは家内が待っていてくれます。町に近づくにつれ沿道の応援も徐々に増え始めました。もうこうなったら這ってでも時間内完走するしかありません。ゴール手前はきつい上り坂です。殆どの人が歩いています。勿論私も。
やっとゴールの県立中村高校のグランド照明が見えてきました。再び走り始めました。そう最後は格好をつけなきゃね。
ゴール付近はスタッフ、ボランティア、市民がこぞって声援、後押ししてくれます。
“がんばれあと少し”の言葉も勿論ありがたいのですが、もう充分自分なりに頑張ってきたランナーにとっては“お帰りなさい”“よく頑張ったね”“お疲れ様”といった言葉がより心に沁みますね。四万十の人達はその辺りをよく心得ていて、励ましより労いのことばをおおくわけて頂きました。 とうとうゴールゲートが目に飛び込んできました。オーロラビジョンに自らの姿が映し出されゼッケン番号が呼ばれ、お帰りなさいのアナウンスが響きます。家内が“お疲れさま”と声をかけてくれました。 ゴールは万歳をして、感動のFINISHゲートをくぐりました。ゴールタイムは手時計ですが13時間45分位かと。制限時間を15分弱を残してのぎりぎりのゴールでした。中学生から完走メダルをかけて貰い、水分をとったまでは良かったのですが、緊張が解けたからか激しい悪寒と脱力感に襲われました。
早々に宿に帰り大浴場まで行く元気もなく、内風呂にて体を温めた後はそのままベッドになだれ込み翌朝まで爆睡してしまいました。

大会を振り返って
四国の地方都市で、宿泊設備もあまりなく近くに有名な観光地があるわけでもなくスタートもゴール会場も便が悪い大会にどうして全国からウルトラランナーが集まるのか不思議でした。四万十川の魅力?勿論それも一要因でしょう。しかし最大の要因は人です。温かい人情、おもてなしの精神が息づく大会。そこに人は引き付けられるのではと感じました。私も一夜あけた17日には来年も是非走りたいと実感致しました。最後にこの大会に携わった全ての方々に篤く御礼申し上げます。駄文・長文にお付き合い頂き有難うございました。

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