皇居周回路の1187、1188

  クロマツ                    マツ科

 皇居を代表する樹木と言えば、「松」を措いて他にありますまい。 皇居周回路 の景観を語る上でも、マツは重要な要素と言えます。 最も展望の開ける半蔵門前 から桜田門方面を遠望する場合、左手の皇居側土手の斜面に点在する常緑樹の 美しさを演出しているのは、殆どこれマツ。 圧倒されるような景観が連なって います。
 桜田門をくぐって桜田門広場へ入ると、今度は左手前方に、内堀通り両側の 良く手入れされた芝生に配置された、枝振りの見事なクロマツばかりで構成された 大庭園が見えて来ます。 皇居の厳粛な雰囲気を醸し出している「皇居前広場の松」 です。 昭和天皇の遺著「皇居の植物」でも、クロマツの項は
     皇居前の芝生には,多数のクロマツが栽植され,その光景が
     大変美しいことは広く知られている   (同書91頁)
と結ばれています。
 就学前に体験させてやりたいとの両親の計らいで、祖父とその妹達から成る 東京見物の老人ご一行に加えられ、昭和14年1月に拝観した「宮城」。
 幼い私の印象に残ったのも、足許の玉砂利と常盤の松を主に構成されている 遠景の荘重さでした。
 昭和16年春、小学校が国民学校に衣替えし、教科名でも、「習字」から名を 変えた「書道」のお手本の中に「大内山 松の緑」の六文字がありました。 右の三字を太めに、左三字を細めに書いてバランスを取ることが要求される教材 でした。 幼い脳裡に遺った印象と、「宮城遥拝」のお写真の二重橋をダブラせ ながら、練習に勤しんだのですが・・・。
 戦い敗れて後、大相撲に登場した巨漢力士が「大内山」を名乗りました。 当時の心情からすれば、「大内山は皇居の美称、何たる不敬!僭越にも程がある!」 と、当初はあまり好きになれませんでした。 映画で見る相撲一筋の態度が、 キマジメ少年の私には気に入って、ラジオで聴く活躍振りに声援を送るように なりました。 最高位は大関だったように記憶しています。
 戦後と言えば、昭和23年7月、「皇居前・・」と呼び名が変わる頃までの ことでしょうか。 大内山の怪力の他に、もうひとつ話題になったのが、広場の マツの受難でした。
 地方住まいの私には見る機会も無かったのですが、一面焼野が原の東京で、若い 男女が愛を語らう場所とて無いまま、アベックの大群が昼夜を分かたぬチタイを 繰り拡げるのに恰好の場と化し、根元を踏み固められ、ピーピング・トムには 枝を折られと、今では想像も出来ぬ被害を受けたとか。
 その当時、新聞に載った植物学者の話では、裸子植物のマツ科は、植物進化の 歴史から見れば、遥か旧い時代に地球上に現れ(註)、既に繁栄の頂点を過ぎた、 いわば過去の植物。 長寿の代表として引合いに出される松だが、決して旺盛な 生命力を有するとは言えない。 根元を踏み固めるなどのイジメは沙汰の限りと いうことでした。 幸い、高度成長期に入った日本、青春を謳歌する場所はどん どん拡がり、いつしかマスコミに騒がれることも無くなりました。

 (註) スギ科より新しいけれど、それでも化石は、白亜紀後期(9600万年
     〜6500万年前)から産出するそうです。

 手入れが行き届いているのか、対策宜しきを得たのか、その後に日本中を震憾 させた松喰い虫騒動でも大きな被害を聞かずに済んだことは、皇居の松にとっても 慶賀すべきことでした。

 昭和39年春、浜松支店から丸の内の本店に転じた私は、東京を手っ取り早く 知ろうと、HATO BUSの客になりました。 東京駅から出たバスは、真っ先 に皇居へ向かいます。 皇居前広場の松を紹介したバスガイドさんの説明の一節、「江戸城を造ったのは、太田道潅。 当初はお濠の周りを板塀が囲んでいました。道潅の時代からさほど下らぬ頃、台風で塀が倒れたが、お手許不如意で修復も侭 ならず、困った家老が恐る恐るお殿様にお伺いを立てたところ、事情はご賢察、 「待つが良かろう」との仰せ。 「さすが名君、よいところに気づかれた」と、喜んだ家老どもに命じられて、早速、植えたのが、「松でした・・・」。
 感心して聴いたのですが、次に國会議事堂へ向かう途中、「赤いジュータンを 踏みしめて本会議場へ入るのは、政治家を志すものの憧れ、ところが、あの赤絨毯 を事もあろうにハダシで歩いた政治家がいます。 誰でしょう?」
 ハ、ダシテ歩くと言うべきをハダシデと言う辺り、先のマツの話も立ち所に、信じられなくなりました。

     我が庵は 松原続き 海近く
         富士の高嶺を 軒端にぞ見る          道潅

               ’82年4月入会   佐々 幸夫(68)