飛行機スレッド
97艦攻に乗っていた方の話がありましたが、身の回りにいる元軍人さんの話をしてみよう。
こーいう話は朝日な人間は超嫌うんだろうけど、国のために戦った人達の武勇伝を話すこと
が出来ない状況ってのもどうかと思う。不謹慎かもしれないけど、早くしないと「伝説」を
伝承する前に彼らは死んでしまうからね…ま、そういう思想的な話は置いといて。
俺の弓の師匠は翔鶴に載っていたそうです。撃沈されたときも当然乗艦していたわけで、そ
の時の生々しい話を聞いたことがあります。
#彼は齢70を越える今でも沖までクロールで行って帰ってこられる(笑)方ですが、元職業
軍人ってこういう超人が多い様な気がするのは気のせいでしょうかね。
考えてみれば、戦場帰りのバリバリの軍人・兵隊さんが復員して就職して、
こんどはビジネス戦争に突入したんだから、戦後日本の高度成長は当然ですな。
私の義理の伯父ももと船舶兵で、甲板で他人の血やら内蔵やらにまみれながらも
米軍艦載機に機銃ぶっぱなしていた元気ものだから、76の今でも免停になったりします。
私の叔父は陸軍に居たのですが、右足ふくらはぎに今でも弾丸が
入ってます。その部分をつまむと、弾丸の形に皮膚が浮き出す…(^-^;
70越えた今でも元気に働いているし、高速でパトカーをぶっちぎったり
しているし、ありゃバケモノですな。
その兄である元文部省官僚が、最近元気が無いのでその落差たるや
スゲェものがあります(笑)
スツーカ(急降下爆撃機)乗りの
ハンス・ウルリヒ・ルーデル空軍大佐
この人は凄いです。
2530回出撃して、30回撃墜されて、
右足を失っても、義足で出撃しています。
しかも、戦車519台撃破、戦艦を含む軍艦3隻撃沈、
車輛千台以上破壊、舟艇100隻以上撃沈・・・・。
この人の記録を抜く人が現れるのだろうか?。
現在も、登山家として、健在と聴いているのだが・・・・。
中学のときの担任は学徒動員で乗っていた空母信濃を撃沈され、
一晩泳いでいたといっていました。
その後、校長になり、昭和の終わりの年に日本列島を覆い尽くした
自粛ムードの中、秋の運動会を大々的に催してくれました。
TVのバラエティー番組でタレント達がアマゾンで生活するという企画があり、
ブラジル陸軍レンジャー部隊の現役兵士達がジャングルサポートとして参加していた。
そして、お元気な頃の小野田寛郎氏がタレント達の激励に訪れた時、兵士達は一斉に整列し、
「小野田少尉に敬礼!」と言って見事な栄誉礼を行った。
それに対して小野田さんもそれはそれは色気のある答礼をおこなっていた。
日本のタレントやテレビクルーにはそれまで鬼のように接していたレンジャー達が、
ジャングル戦闘歴二十数年の小野田さんの前では、借りてきた猫のようにおとなしく、
あこがれのヒーローを見るまなざしだったのが、印象的だった。
そう、世界の軍人達にとって、過酷なジャングルでたった一人で(途中で何人か亡くなられましたからね)
二十数年も任務を遂行した小野田さんはまさにヒーローであり、日本が世界に誇るべき軍人の一人なのだ。
彼らの交歓を「いったい何なの??」と戸惑っていたタレントに代表される様に、
多数の日本人が軍人としての彼の偉大さを忘れているのが悲しい。
小野田少尉に合掌。
私は、戦争に行って来た年代には人には、無条件で
尊敬の念を持ちますがね!
なんせ、戦争で戦って帰ってきた後に、戦後日本を
作った人たちだから、尊敬できないハズ無いでしょ!
ただし、九段下を陣取ってる人たち(設立当初の理念を
闇に葬った人達)の親等は、唾棄すべき存在ですねどね!
ありゃ、新しいスレッド作られたんですね。
ご挨拶までに、九七艦攻にまつわる詳細を、大ざっぱにさせて頂きます
(笑)
予科連での訓練飛行は霞ヶ浦にて「赤トンボ」。海軍入隊直後の配属は
戦艦「榛名」で、後に海軍航空隊で九七艦上攻撃機の三座の真ん中だっ
たそうですが、配属を解かれ特別攻撃隊に選抜されて、順番待ちしてた
ら終戦になってしまった。武勇伝といえば赤トンボを不時着させたとき
の骨折を、麻酔無しで手術したぐらいだ。と笑いながら話してくれまし
た。ご期待に沿える内容でなくて申し訳ない(ぺこり)
そういえばおいらが子どもの頃、浜辺や畑で12.7ミリの弾頭とかいくつ
か拾ったなぁ。小学校と高校の時には近所で米軍の不発弾見つかって休
校になったり・・・。
授業中にF-4の衝撃波で、窓ガラスがビビるな〜んてよくあったし。
太平洋で艦内火災を起こした旧ソ連の原子力潜水艦が沖合を通過して大
騒ぎしたとか。
戦艦大和の慰霊碑とかがある南の島あたりで育つと、こんな思い出もあ
ったりする。(-。-)y-゚゚゚