My HIACEと長野オリンピック

1988年夏(昭63)
私はこの年の1月から9月まで無線通信関係の資格を取得するため、東京都府中市にいました。7月に実家に用事があって電話をしたとき、父から「'98年の冬季オリンピックに長野が候補にあがる予定で志賀高原が開催地になる。オリンピック道路の建設で家が立ち退きになる可能性がある。」といわれました。当時'98年の冬季オリンピックのことなど話題にもなく、国内候補地として札幌、雫石など他県も名乗りを上げているときでした。しかしこのころから道路用地の買収の動きや道路建設の説明もあり、図面もできていてしっかり実家が道路に引っかかっていました。近所の角間大橋も橋ゲタだけはすでにできており、今考えるとこの頃から'98年の冬季オリンピックは長野開催が決定的だったと思います。実際に立ち退くのはもっと後になります。
1990年春(平2)
この年の1月から6月まで埼玉県熊谷市にいました。この年は'98年冬季オリンピック開催国(地)を決定する年で日本では長野が候補にあがってました。そしてオリンピック開催地決定の瞬間 サマランチ会長の会見で「city of Nagano!!」...私は翌日の昼、食堂のテレビで見ました。「あ〜あ、立ち退き決定だな〜。」というのが当時の感想で、オリンピックが地元で開催されることにピンときませんでした。
ちなみに無線通信の資格はこの年に取得しました。2年かかりました。
1992年春(平4)〜1994(平6)
この年から本格的に立ち退きの手続きが行われてきました。家、土地、庭に植えてある草木などの補償金が呈示され、代替地が決められました。翌々年にかけて新しい家が建てられました。このときの草木の補償金がまとまって入り、そのお金で買ったのがHIACEです。
新幹線も長野まで、上信越自動車道も信州中野ICまで途中片側一車線もありましたが、急ピッチで建設されました。前の家も取り壊され、志賀までのオリンピック道路も整備されていきました。
1997年夏(平9)
私は'93夏(平5)に北海道から埼玉県熊谷市に転勤してきました。この頃からよく実家に帰省していたので、道路建設、志賀の開場準備を見てました。97年に父が定年退職で自営に必要なハイエースのバンが必要となり、その頭金を私が出す形でワゴンを譲り受けることになりました。初めてのマイカーです。
翌年にオリンピックを控えた志賀では準備が進められ、ブナ平スキー場のゲレンデには大回転のゴール地点の施設が建設されてました。雪に合わせて建物は白い壁でしたが、環境庁から「夏、秋の時期は目立ち、野鳥が寄ってこなくなる。」といったクレームがついたため、その対策で巨大なスダレが屋上からつるされ、周りを覆ってました。しかし風が強くあおられてしまい、白い壁は丸見えでした。「無駄にお金を使って意味ないことをしてるな〜」と思ったことが印象に残ってます。
1998年長野オリンピック(平10)
オリンピック及びパラリンピック期間中も実家に帰りました。オリンピック道路のICに警官が立っていてIC降りて実家に向かうと機動隊のバスが2台止まっていて異様な雰囲気でした。
期間中、実家の仕事の手伝いとついでに滑りに志賀に行ってました。IDパスと乗入許可証を貼ってないと入れない場所もあるのですが、父が持っていたのでスンナリ入れました。ウェアーが派手でスノーモービルに乗ってますから、パトロールかスタッフと思っているのでしょうか、ゲレンデやホテルの場所を聞かれることが多かったです。(笑)また1BOX車で乗入許可証を貼っているため、各国の取材記者が手をあげて乗せてもらおうとすることが多かったです。取材用のシャトルバスと勘違いしてるみたいで笑えました。
競技がないときは、コースが開放されてましたが東館の大回転のコースをチェアスキーに乗ったパラリンピックの選手らしき人が練習で滑ってました。あとを追って滑ろうとしましたがスピードが速くてついていけませんでした。すごかったな〜。
オリンピック招致により、私個人としてはHIACEを所有できたことで恩恵を受けたと
思いますがオリンピック道路建設により、家を立ち退かざるを得ない状況にもなりました。
私以外の地元の人たちに長野オリンピックは何をもたらしてくれたのでしょうか?