日向山(689m)・・・別名御嶽堂山または三峰山                             hkk-1570
                              ◆伝説の鞍ケ淵周辺散策
                         ◆特攻隊指導教官の親子3人が自決した墓碑拝礼

長野県  2017.12.22 М氏との忘年山行  終日最高の快晴
コース 日向山 砂原峠付近から山頂往復。往復1時間ほど
日向山山頂 三等三角点

山友Мさんに、「信州の鎌倉=塩田平を案内してもらう

上田市南部の里山。国地院地図には三角点・標高の記載はあるが山名は記されていない。Мさんの調べによると「御嶽堂山」の名前もあるらしい。近くには同じ地名の集落もある。
 

鞍ケ淵や遊佐卯之助の碑など塩田平の中を車で走り、最後は本命の「日向山」へ。砂原峠から東方へ少し下ると左手に池が見える。池畔に車を止めて出発。たぶん登山道はないだろうという予測。
それにしてもこのみごとな快晴はどうだ。年間でも一日あるか無しかの完璧な晴天。混じりっけなしの吸い込まれるようなコバルトブルー。朝から一点の雲もない。朝の冷え込みとはうらはらに、無風、歩くには気温も最適。

池畔から、藪の薄そうなところを選んで適当に南向き斜面へ取りつく。地図を見ると高低差は150m弱。藪を分けて少し登ると「日向山古墳」の看板、古墳という雰囲気はない。歩き良さそうなところを選び、乾いた落葉のカサカサなる音を心地よく体感しながら、歩きよさそうなところを選んで適当に登って行く。ほどなく尾根上に出た。いくつか赤テープが残されいたので、訪れる人もいるのだろう。

踏跡のしっかりした尾根を西へ向かって進む。粗末な造りの小さな社、そこには「三峰神社」と小さな標識あり。北側から明瞭な道が上ってきている。この道を使えば藪をかき分ける必要はなさそうだ。

さらに尾根を西進、また北からのルートが合流する。そこから三角点の山頂はすぐだった。行程30分強。ただ三等三角点があるだけ、山名表示もない。冬枯れの樹木の隙間から、雪に覆われた北アルプスの一部が垣間見えるだけだった。

下山は、来た道を少し戻り、あと南へ向かって道なき斜面を下る。ぴったり同じ所へ降りたつことができた。小さなヤブ漕ぎの山だった。

 【伝説のくら(鞍)ケ淵周辺を散策】―案内板をそのまま転記―
 全面結氷の貯水池―鞍ケ淵付近

『昔、独鈷山(1266m)の頂に寺がありました。若い僧が読経を始めると、毎夜どこからともなく美しい娘がお経を聞きに通ってきました。不思議に思った僧はある夜、そっと後をつけました。翌朝、和尚が糸を辿っていくと、糸は本堂の戸の節穴から外へ抜けていました「こんな穴を何ものがとおったのか・・・」と大変不思議に思い和尚は娘の着物の裾に糸のついた針をさしておきました。夜が明けて見ると糸は戸の節穴を抜けこの鞍ケ淵までつづいていました。見ると大蛇が赤児を産もうと苦しんでいました。僧は驚いて寺に戻りました。娘は鞍ケ淵の主、大蛇の化身でした。産まれた児を鞍岩の上に置き、大雨を降らせ大蛇は死んでしまいました。この川は産川(うぶかわ)と名付けられ、大蛇の遺骨は蛇骨石となって散らばり、現在も探すことができます。流された児は小泉村の老婆に拾われ、伝説の主人公小泉小太郎となりました』


 慰霊碑
特攻隊員指導教官遊佐卯之助が、贖罪の意識から親子3人自決した墓所拝礼

終戦直後、教え子を特攻隊員として戦地に向かわせた。上からの命令だとしても、若い命を失わせた罪は深く、家族3人、贖罪のために自らの命を絶った哀しいできごと。遺族や地元の人などの手で慰霊の式が今年の8月、上田市で開かれましたが、その慰霊碑に手をあわせてきました。
名前は書きませんが、戦争犯罪人極東裁判を、ずるさと要領で逃げ切り、ふたたび政界にのし上がり、何ごともなかったように総理大臣にまで上り詰めた人もいました。自決を褒め讃えるわけではありませんが、何と言う違いでしようか。

さるブログに「遊佐准尉は軍国主義の時代でも決して部下に暴力を振るわない人だったそうです。こんな人が家族と共に死を選ぶという悲劇を、後世に伝えていきたい」 これはさるブログの記述です。

 
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