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≪奥多摩山岳耐久レース≫
関東百名山・・・・・・御岳山          
関東百山・・・
大岳山・御前山・三頭山・生藤山   
1993.10.09〜10 天候 快晴 山岳大会参加
五日市青少年旅行村スタート(10.00)−−−御岳神社(12.45)−−−大岳山(13.50)−−−御前山(15.55)−−−三頭山(17.05)−−−笛吹峠(21.05)−−−熊倉山(23.40)−−−生藤山−−−醍醐峠(1.20)−−−入山峠(4.30)−−−旅行村ゴールイン(6.09)

御岳山=みたけさん(929m)大岳山=おおたけさん(1267m)御前山=こぜんやま(1405m)
三頭山=みとうさん(1528m)生藤山=しょうとうさん(991m)
厳しさの理解も希薄のままに、『第1回長谷川恒夫CUP山岳耐久レース』の申し込みをしてしまった。
マラソン大会と見まがうようなTシャツ、ランニングパンツ、ランニングシューズ姿が目につく。水筒さえ入っていないような小さなザツクで70キロの山道を駈けとおすつもりだ。
登山案内書を見ると、行程の合計は24時間、 高低差の累計が2000mを優に超える。初老と言ってもいい56歳、加えて人工肛門というハンディは、長時間レースの途中でどんなアクシデントが起きるかわからない。制限時間24時間で歩ききる自信は半分もなかった。
                            午前10時スタート。
先頭の一団は一斉に走り出したようだが、最後尾の私には前のほうは見えない。走りこそしないが、日ノ出山への長いだらだら登りをかなり早いペースで登って行〈。先を考えるとオーバーペースのしっペ返しが懸念されるが、周囲に引きづられるようにして足を運ぶ。
1時間ほど歩いたところで、30分遅れでスター トした“ハーフ部”のトップが脇を走り抜けて行った。”耐久レースの部”の先頭も、こんな調子で走っているのだろう。
日ノ出山までコースタイム3時間40分を2時間10分で到着した。計画タイムより50分も早い。おにぎりを食べたりして5分ほどの休憩をとった。

大岳山荘の水場で水筒を満タンにする。ここまでは水は不要と考えて、水筒は空のまま。蜂蜜レモン1リットルを携帯。他にザックには雨具、防寒具、カメ ラ、懐中電灯、携帯食、それに人工肛門ケア用具などで重量約8キロ。大岳山の山頂から遥かに富士山が望めた。
心地よい秋風に吹かれて、のんびりしたい誘 惑を振り切り、ひと息入れると第一関門の大タワへの下りを急ぐ。大タワの関門時刻17時に対して14時5分で通過、ゼッケンに通過ス タンプを押してもらう。
御前山へは小さなコブを2つほど挟んで高低差400mの登り、かなり足にこたえる。既にハイキング1日分以上を歩いている。スタート時の元気は消えて、足の重さが気になってきた。

それまで前にも後ろにも参加者の姿があったのに、徐々にばらけてきて一人だけになることが多くなってきた。御前山直下で0.5リットルの水補給を受けた後、御前山到着は15時55分、自分の計画より1時間5分早い。二つ目の大きなピークを登り終わって、少しほっとした気持ちになるが、長丁場のまだ3分の一に過ぎない。参加者450人中、通過順位はおおよそ240番くらいらしい。

ここから400m下ってから500mの登り返しとなり、3つ目のピーク三頭山へのきついアルバイトがはじまる。奥多摩周遊道路を横断して月夜見山にかかる頃から、夜のとばりがあたりの景色をモ ノトーンの世界に変えはじめた。振り返ると踏破してきた大岳山や御前山が、 遠く小さく残照に映えていた。樹間からは、今日につづいて明日の晴天を予告するような夕焼けが、刻々と色を変え、炎の燃え立つような輝きの後、本格的な夜の闇が忍び寄ってきた。風張峠を過ぎると闇はさらに深まり、節約しようと辛抱してきた懐電を点灯した。

三頭山への登りはさすがにきつい。疲れた足には大きな負担だがまだ大丈夫、歩ける。鞘口峠で小休止を取ってから最後の登りを踏ん張って三頭山山頂に登り着いた。
大会運営スタッフが励ましの声をかけてくれるのが嬉しい。満天の星空に影絵のような富士山があった。
すぐ下の避難小屋で0.5リットルの給水をうけて10分間の休憩。パンをかじるが食欲がない。疲労の進行に反比例して食欲の方は減退して行く。
もうひと頑張りすれば第2関門の西原峠だ。規制時刻の23時にはまだ十分余裕がある。ハイキングで歩いた時には感じなかった小さな登りが、疲れのたまった足には滅法きつく感じる。暗闇の中を一人になったり、前の人に追い付いたりしながら、ここでは予想外に時間がかかって西原峠着は20時15分、規制時間に2時間45分の余裕をもっての到着だった。通過順位は212番と教えられる。順位をあげたようだ。
コ ースの随所にテレビカメラが待機している。ここでもライトを当てられて質問を受ける。大変でしょうという質問に「本当の苦しみを味わうのはまだまだこの先です」と答えた。今も辛いが本物の苦しさとの戦いはまだ先であることが、100キロ強歩やフルマラソンの経験からわかっていた。根性だけで歩かなくてはならない時がやがてやってくる。

この先「平坦な道がつづく笹尾根」 という記憶が残っていたが、笛吹峠、 土俵岳、日原峠、浅間峠と辛い起伏の連続、小ピークを一つ越えるたびに疲労の度が増していく。笹尾根からならどこでも一時間以内に北秋川ぞいの集落に降りられる。この先まだ延々とつづく途方もない長い距離を思うと、棄権して楽になりたい衝動が繰り返し襲ってくる。ここでやめよう、 いや自分に挑戦するために参加したのではなかったのか。そんな相反するする二人の自分が闘いつづける。
小笹の中に体を投げ出し、ザックを枕にして横になると、すうっと眠りの底に吸い込まれそうになり、はっとして目を開く。このまま眠ったら2時間も3時間も目覚めないかもしれない。自らを奮い立たせてまた歩き出す。

途中、疲れてそこここに横たわって休む人の姿が多〈なってきた。煌々とライトの照らす浅間峠に到着。疲れ切った人たちが、放心したように座り込み、横たわっている様は、あたかも敗残兵のようだ。私も休憩を取る。大事に飲みつないできた蜂蜜レモンも残り少ない。パンはおろか、カロリー補給のチョコレートも食べる気がしない。妻が持たせてくれた梅干しだけがなんともいえずうまい。
ここから第3関門醍醐峠までは歩いた経験のないところだ。 「棄権して下山するならこの浅間峠が一番いい」そんな誘惑が囁きつづけるが、腰を下ろして5分、自分の意思とは無関係のように足は峠からの登りの道へ向かっていた。
前後に人影はなく、あるのは黒い闇と、梢を透かして見える星座のみ。自作のコースタイム表と時計とを首っ引きで確認しながら、熊倉山まであと何分、三国峠まであと何分、第3関門までは何分と、疲労で回転しない頭で計算しながら歩を運んで行〈。かなり歩いたと思って時計を見ても、まだ15分しか歩いていない。い〈たびそれを繰り返しただろうか。
まだかまだかと思いつづけて、再びうんざりするような登りを終わると、ようやく三国山山頂。ここで最後の給水0.5リットルを受ける。蜂蜜レモンも残りわずか。これであと20キロもつのか不安だがしかたがない。

醍醐峠の関門までは2時間ほど、とにかくそこまではたどり着こう。登りは重い足をだまして持ち上げ、下りでは膝へのショックをかばい、反復する起伏を呪い、恨みながら越えて行った。蜂蜜レモンの最後の一口を、惜しむようにして飲み干した。
疲労のためか、このあたりの記憶がほとんど残っていない。意思のないまま歩いていたのだろうか。何とか第3関門の醍醐峠へ到着したのは、日付の変わった午前1時20分、 既に15時間以上、たいした休憩も取らずに歩きとおして来たのだ。メモにはここで10分間の休憩を取ったことになっているが覚えていない。「この先は崩れている個所が多いので、足元に注意して歩くように」という注意を聞いた以外、何も思い出せない。

残りは15キロ。山道の15キロは半端な距離ではない。いつしか棄権したい誘惑すらも湧かなくなり、ただ惰性で足を動かしている。見あげると三日月が中空に浮かんでいた。

市道山へ向かう登山道は、にわかに足元が悪〈なった。淡い懐電の明かりと、疲労による注意力の減退で、崩壊個所に気付かず足を踏み外す場面もたびたび。しかしいずれも大事に至らなかったのは幸いだった。どこまでもつづく暗闇は、黒ペンキで塗り固めた狭い回廊を歩いているような錯覚に陥る。まさか疲労、脱水による幻覚では?と不安になる。
途中、座り込んでいる人が、「どこかで水筒を落としてしまいました。すみませんが水の余裕はありませんか」という。分けるほどの余裕があるはずはない。しかし遠慮がちに訴える窮状を知って見ぬふりはできない。その人は一口だけとことわって、ほんとうに一口だけで水筒を返してきた。思わずもっとどうぞ言うと、さらに二口、三口うまそうに飲んでから「ありがとうございました、助かりました」と礼を言ってくれた。私も飲みたかったが、先のことを考えて我慢し、お互いの完走を祈って別れた。

市道山分岐までの悪路と起伏、そしてさらに大きなこぶが繰り返す入山峠までの道、歩いても歩いても果てないような、遠い遠い道程であった。

この一歩がゴールへ一歩近づくのだ、そう自分に言い聞かせ励ましなが ら、闇の中を懐電のほのかな明かりを頼りにただ黙々と足を運んで行く。第2関門で212番と言われて、12人抜けば200番に入れるかなあ、そんなかすかな希望で、抜いたり抜かれたりする人数を数えていたが、いつか数える元気も消えて、とにかくゴールしたい、早〈終わってこの辛さから解放されたい、そんなことしか頭の中にはなかった。

4時半、林道と交差する入山峠。ここまで〈れば残りは3時間余。テレビ取材陣の目の眩 むようなライトで、峠は昼間のようだった。  大会スタッフやテレビ関係の人たちの声援を受け、いくらか元気を回復して、再び暗闇の世界へ入っていった。
あとは里に向かってひたすら下って行けばいいのだ。足も動いてくれる。歩きやすくなった道、空白の頭からは指示も出ないのに、足だけは間違わずに前に向かって一歩一歩進んで行く。

気がつ〈と東の空が白んできた。長かった一夜が明けようとしていた。入山峠から今熊山まで、コースタイム2時間を1時間35分で歩いた。この疲労の中ではよく頑張った。
今熊山で最後の通過証明スタンプをゼッケンに押してもらうと、あとゴールまでは1時間15分ほどだと教えられた。下の神社には水があると聞かされて、大事にして来た水筒の残りを飲み干した。東の空が真っ赤な朝焼けに染まりはじめた。暗闇での苦闘の後、迎えた夜明けはことさらに震えるような感動を伴っていた。思わず足を止めて見入る、まだそんな余裕も残されていたのだ。

長い石段を下り、神社境内でコップ2杯の水を飲み干すと力がよみがえった。集落に入り急ぎ足で最後の4キロほどを軽快に歩く。要所要所に立つ係員の「ご苦労様でした」のさわやかな声がうれしい。犬の散歩の町民も同じように声をかけてくれる。
ほぼ一昼夜、70キロの山中を歩きとおしてきたとは思えぬほど、元気な足取りでゴールに入った。
20時間09分、迎えて〈れた役員たちの拍手に「ありがとうございました」と言いたかったが、感激に胸が詰まって言葉にならない。ただ頭を下げて感謝を表すのが精一杯だった。
早速テレビのインタビューを受けたが、立っているのがやっとの疲労しきった体、大事のあとの虚脱感、空白となった頭では、聞かれたことに適切な言葉が浮かんで来ない。そしてあの苦しかった行程を口にすれば涙が止まりそうもない不安に、言葉が出なかった。

また一つ、私の人生で記念すべき挑戦が成し遂げられたという満足感が、実感として湧いて来たのは、マメのできた足を引きずって家に帰ってからであった。 一着、9時間でゴールインした人が勝者ならば、己と戦いながら24時間ぎりぎりで帰ってきた人も、紛れもなくまたこのレースの勝者であった。

参加者 450人 
24時間以内ゴールイン 301人
私は168番だった。
以上は『山岳』(1994年1月号)投稿原稿の抜粋です。

ハイキングとして登ったときの記録は下記のとおりです。

≪御岳山≫1989/02/05
 

ケーブル御岳駅(940)−−−御岳神社(9.50)−−−日の出山(10.40-11.00)−−−金毘羅神社(12.50)−−−五日市駅(13.30)

≪大岳山
1987/12/19

奥多摩駅(9.00)−−−愛宕山(9.20)−−−鋸山(10.40-10.50)−−−大岳山(11.45-12.30)−−−つづら岩(13.30)−−−鶴脚山(14.00)−−−馬頭刈山(14.10)−−−十里木(15.10)

≪御前山〜大岳山≫1989/03/11

境橋(8.13)−−−大滝−−−避難小屋(10.17)−−−御前山(10.30-10.40)−−−大タワ小屋(11.30)−−−鋸尾根−−−大岳山(12.55)−−−御岳神社〓〓〓ケーブルで下山

≪生藤山≫
1995/02/04

五日市駅〓〓バス〓〓柏木野(8.25)−−−連行峰(10.30-10.45)−−−茅の丸−−−生藤山(11.20-11.50)−−−三国山(11.55)−−−佐野川峠(12.17)−−−上野原駅(13.40)


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