追想の山々 1030 up-date 2001.06.21
東京(22.00)===関越道・北陸道===魚津IC(3.05===阿部木川上流の広場(3.35-4.50)−−−最後の砂防ダム(5.20)---1600m三つ又−−−ボーサマ谷上のコル(8.35)−−−毛勝山(8.45-9.05)−−−阿部木川上流の広場(11.20)===天神山温泉===東京帰宅(21.10) | |||||||||||||
≪私には、日本300名山最大の難関でした≫=(58歳)
似たような体験はこれだけではない。深夜に新穂高温泉まで自動車を飛ばして、笠ケ岳を日帰りしたのもそうだ。 魚津ICを出たのは午前3時。 念入りに調べておいた地図通りに、片貝川上流へ向かう。目標は片貝第五発電所。『熊に注意』の看板、鈴を持ってくるべきだった。最初の目印は東又谷と南又谷との分岐の第四発電所。そこを左の東又谷へ入って行くのだが、暗闇の中でその第四発電所を見落とさないよう細心の注意を払いながらハンドルを握る。 発電所らしい建物がライトに照らし出された。数を数えてきたがこれが第三発電所。ところが第三発電所は車道からは見えず、これが第四発電所だった。 未舗装の細々とした道に変わってきたが、目印の第四発電所はまだ先と思い込んで自動車を進めた。 道路脇にはうず高い残雪。ひさしのように突き出した岩壁の下の道。漆黒の闇の中、右手の川向こうに発電所らしい建造物が見える。これが第四発電所と思い込む。『間も なく登山口の片貝山荘・第五発電所だな』、そう思ってさらに300メートルばかり進むと、道が二又に別れる。ここが東又と南又の分岐だろうか。片貝山荘・第五発電所への直進東又谷林道には“除雪中通行止”の表示が出ている。駐車スペースを探して右手の橋を渡って、南又と思われる林道へ乗り入れてみた。橋の向こうに手頃なスペースが見つかった。暗くてよくわからないが、道には雪もあまり見えず、まだ先まで自動車が入れそうだ。時間つぶしに様子を見に奥へ車を進めてみた。数分先、小橋をわたったところで道は残雪の下に消えていた。小橋の付近は広場になっていて、除雪作業用のブルが止まっている。
念のためさきほど川向こうに見送った建物が、第四発電所であることを確かめておこうと思い、がっしりした橋を渡ってみた。何と発電所に隣接する建物に片貝山荘の表札があるではないか。つまりここは第四発電所ではなく、登山出発点となる第五発電所だったのだ。ならば南又と東又の分岐は一体どこにあったのだ。あれだけ注意していたのに、信じられないことだが見落として通過したことを認めざるを得ない。そしてブルの止っていた小橋の広場への林道こそ、『年によって違うが、運がよければそこまで自動車で入れることもある』という、その林道に違いない。何という幸運。これで200メートルの標高差節約となった。 高速道のインターチェンジを出てから、不安にかられたアプロ ーチであったが、それもこれも暗闇の中での錯誤であった。 ◆もし私が日本三百名山単独完登を達成できるとしたら、その最難関は カムイエクウチカウシ山、笈ケ岳そしてこの毛勝山と考えていた。経験者に依存したパーティー登山であれば、案ずることもないかもしれないが、100名山のときと同様、他人の力を借りずに単独でこれを成し遂げようとすれば、当然不安やプレッシャーは計り知れないほど大きいものがある。 中でも最も情報資料の少ないのが毛勝山であった。『富山の山』という本を店頭に見つけ、その中に毛勝山登山の簡単なコースアドバイスを探し当てたのが、唯一の情報と言えるものであった。本書によれば ◎ 登山道がないので、一般的な登頂には残雪を利用する。 時期は5月下旬〜6月上旬に限られる。 ◎ 最大級の傾斜を持った雪渓登高となるため、 アイゼン、ピッケルを完全に使えることが条件 ◎ 標高差1600〜1800メートルを日帰りできる体力 そんな厳しさを強調されれば、武者ぶるいの前に気後れが先に立ってしまう。 この毛勝山が単独登頂できれば、残る60数座についても大 きな問題はなく、日本三百名山単独完登に向けて大きく前進することにもなる。おおげさに言えばこの毛勝山が、私の人生最大級のイベン ト「日本300名山単独踏破」実現にあたっての試金石として、極めて重要な意味を持っていたのである。今回の緊張も当たり前のことだった。 ![]() 先鋭的なクライマーやヒマラヤ男たちとは次元がちがう。一市民ハイカーの私にとっては、やはり冒険的要素の強い登山であった。 小橋の手前、沢の右岸広場に自動車を止めて仮眠かたがた夜明けを待った。 4時半を過ぎると空が白みはじめてきた。自動車が1台到着。登山者があるようだ。心強い。明るくなって周囲の状況がはっきりしてきた。この道は阿部木谷の林道で、自動車を止めた広場は、阿部木谷が宗次郎谷を分けて少し上流へ行ったところだった。標高約830メートル。阿部木谷の流れは雪解けの水を集め、しぶきを上げ、清冽にほとばしっている。 到着した登山者が出発したのを見て、4時50分私も後を追って出発。 左岸の残雪上をへつるようにして上流へ向かう。ときおり雪が切れて林道が顔を見せているところもある。砂防ダムを左手に数えながら遡って行く。最後のダム(標高約1000メートル)が見えて来た。水流が滝となって落下している。 そのダム堰堤上に立つと、はじめて谷幅一杯を埋め尽くした雪渓が目の前に展開した。ここが雪渓の末端だった。 谷の上流は両岸に岩壁が聳立し、明け方の光りも吸い込まれてしまったように、陰気な薄暗さがあたりの雰囲気を重くしていた(コース案内ではここが“板菱”)。 ダムの堰堤上から雪渓の上に飛び移る。雪の少ないときはダムから飛び移ることは無理で、水中を徒渉して雪渓に乗るか、左岸をもう少しへつってから適当な所を選んで雪渓に乗るということになる。 先行した登山者がすぐ先を行く。まだ若い青年だった。軽アイゼンを装着している。 この雪渓の厚みは足の下何メートルにも及ぶのだろうか。厚みの下には雪解け水がほとばしっているのだろう。曲がりくねった谷は先を見通すことができない。標高差1400メートルの長大な雪渓を根気よく詰めていくしかない。 早朝の雪面は堅く締まっているが、まだ傾斜は緩くアイゼンの必要はない。両側に岩壁の迫っている地帯を抜け出ると、谷は明るく広々としてきた。阿部木谷はこの先で二又に分かれる。正面右に見えるのが大明神沢、 左に折れた沢が毛勝沢と名前を変える。
ここで青年と地図を見ながら、左の沢が毛勝沢であることを確認しあう。この毛勝谷は地図の感じと異なって、今まで登って来た阿部木谷から直角に左に折れるように感じる。 無数の雪塊デブリを越えて毛勝沢へ入ると傾斜が急にきつくなって来た。ここでアイゼンを装着。 日本三大雪渓の一つ、白馬雪渓はその標高差が600メートル、毛勝山の雪渓は堰堤からの標高差が1400メートル近い。何と白馬大雪渓を2倍以上も凌ぐ壮大な大雪渓なのである。 毛勝谷はさらに谷幅を広げて、右へ大きく弧を描くようにして高度を加えて行く。残雪の頂稜に朝陽が輝きはじめた。その上空には吸い込まれるような碧空が広がっている。 ◆1600メートル地点、左手に稜線へ突き上げている急峻な沢を見る。そのすぐ先では、割り込んで来た尾根に区切られて、沢は再び二つに分かれていた。この付近が案内書の“三つ又”である。 ここでも青年と二人でコースの確認をし合う。尾根に区切られた2本の沢の左が本流で、コ ースはこの沢を詰めて行く。毛勝山からの雪崩の跡が、川の流れのように明瞭に残っている。毛勝山は手前に割り込んだ尾根に邪魔されてまだ目にすることはできない。雪崩の跡が右にカーブしているその先が、目指すピークと思われる。 ピークまでの残り標高差は800メートル。 「ここから800メートルですか。普通のハイキングなら、ここがスタ ートのようなものですね」 と青年と語り合う。青年は以前、ここまで来たことがあると言っていた。 雪でのっペりとした雪渓は、歩いて見ないと傾斜のきつさを実感できない。ここから見ただけではその斜度を推測することはできないし、ましてやこの登りが800メートルもあるなど、とても想像することは無理だ。せいぜい2〜300メートルくらいにしか感じない。 ◆いよいよこれからが厳しい雪渓登攀の始まり、この登山のハイライトである。 意を決し、緊張して急斜面へと足を踏み出した。雪崩によって雪面の荒れたところは、その凸凹が足掛かりになってくれる。しかしそんな条件のところは稀で、ほとんどは平板な急斜面である。 早朝の低温に雪面は堅い。一歩でも足を滑らせれば、滑り台にでも乗ったように、ひとたまりもなく流れ落ちてしまうに違いない。一歩々々に全神経を集中。時間はかかってもこの際は安全に登頂を終わることが第一と唱え、繰り返し自分に言い聞かす。 突然笛の音に似た『ピュー』という切り裂くような音が耳元をかすめる。振り向くとピンポン玉大の石が雪面を落下して行く。あの大きさでもまともに顔面を直撃されたら大変なことになる。雪崩れに巻き込まれた大小の石が、雪解けとともに表面に現れて雪面に散在している。雪が緩んでそれが転落をはじめる。最初転がり出した石は、急斜面に加速されて空中に飛び出してくるのだ。見るといたるところに危険な石が点在している。ヘルメットを持って来るべきだった。足元を見たり、落石に気を配ったり、まったく気の休まる暇もない登りに、逃げ出したい思いだ。 夢中で登っている間に、あの青年は下の方に離れていた。この厳しい急斜面では休憩もままならず、超スローペースながら休むことなく、ひたすら上を目指した。 三つ又と稜線の中間あたりに小尾根が張り出して、雪渓が左右に分かれる。その小尾根末端には巨岩が露出している。右手の雪渓にコースをとった。 この小尾根末端の分岐から追い打ちをかけるように、傾斜はさらに厳しくなった。 あと400メートルほどだろうか。 あまりに傾斜がきつくてアイゼンを雪面にフラットに置くことができない。逆ハの字も限界を超え、また前爪だけの登攀では、脚筋力がとても頂上までもたない。左右に斜登行じぐざぐにコースをとって登って行く。山側の爪だけを雪面へ立てて支えるが、不安感がつのる。特に右手ピッケルの私には左足山側に体重を乗せるときが一層不安であった。
あの青年は、軽アイゼンでこの斜面を登るのは無理ではないか・・・と、危惧しながら下を見ると遅れながらも依然として登りつづけている。 さしもの急斜面も緩みはじめ、やがて危険から解放された。しかし下山のことを考えると果たして無事下山できるのか、依然として不安は終わらない。 急斜面が一段落したところで、ようやく待望の稜線が目に入って来た。ここまで来ればもう山頂に立ったも同じだ。目の前の稜線目がけて、今度はしっかりとアイゼンを利かせて直登して行った。 最後の詰めでハイマツと笹の現れた薮に踏み跡を見てそこを分け登ると、待望の稜線に飛び出した。ここがボーサマ谷のコルだと思う。 早朝には広がっていた青空が、いつの間にかすっかり雲におおわれていた。灰色の空の下に剣岳をはじめとする、馴染みの高峰群が展開していた。 分厚い残雪を踏んで、重くなった足をなだめながら稜線上を東へたどると、おおよそ10分ほどの登りで毛勝山々頂に達した。 ◆山頂からは視界をさえぎる潅木1本とてなく、360度開けた山項は、めくるめくほどの大展望台であった。風通しのいい山頂は、雪も飛ばされて地肌が露出、三角点も確認できる。文字が消えかかるほど古びていたが、以前は立派だったと思われる山名標識が、今は地面に落ちて放置されたままだ。登山道もないこのような山に、山名板が設置されていたのが予想外だった。
すっぽりと雪に覆われた毛勝三山の釜谷山と猫又山、その稜線の先には名峰剣岳、大日岳。黒部の谷を隔てて後立山連峰=針の木岳、爺ケ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、 白馬岳、雪倉岳、朝日岳‥・近くには駒ヶ岳と僧ケ岳、そして富山湾 。眺望する山々はまだ全体に斑模様の雪に覆われ、夏の姿には遠い。 上空に怪しい黒雲が垂れ込めてきた。いつ降りだすか心配だ。荒れてきたら大変、青年を待たず20分の帯項で山頂を後にした。 ◆ちょうど稜線まで登りついた青年の労をねぎらって、雪渓の下りにかかっ た。登りに比べると雪面がいくらか緩んで、その分歩きやすくなってはいたが、急斜面の終わる三つ又までは気を抜けない。慎重の上にも慎重に下った。 驚くことにこの急斜面をスキーを担いで登って行くパーティーがあった。さらに次々と登山者が三々五々と登って来る。私ももう少し時間を 遅らせれば、大勢の登山者の中に交じって、心強く登れたかもしれない。 しかし雪が緩んでキックステップが利けば、歩きやすくなる反面、落石の危険が増すわけだから一長一短だろう。 ようやく緊張感から完全に解放されたのは、三つ又まで下り終ったときである。雪崩で押し出された大きな岩に腰を下ろして、喉を潤し軽い食事をとるゆとりができた。 往復した毛勝谷雪渓を感慨をこめて振り仰いだ。 最も難関視していた山を踏破した達成感もあって、この山行は忘れ得ぬものになることだろう。 グリセードを楽しみながら振り返り振り返り雪渓を下って行った。 魚津市高台の天神山温泉を教わり、 貸し切りの大きな浴槽でゆったりと湯に浸かって汗を流した。高台にある温泉からは、残雪模様の憎ケ岳から毛勝山にかけての山並みが、 手にとるようにのぞめた。 難関を突破した満足感に浸って、長駆東京の自宅へと向かった。 |
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2002.10.16 コース新情報 毛勝山に登山コースが出来たとの情報をいただきました。 山岳同人「沢雪山歩」さんのホームページをご覧ください。 |