追想の山々1033  up-date 2001.06.22

東山(1849m) 堂津岳(1927m) 登頂日1994.05.07 快晴 単独
奥裾花駐車場(4.40)−−−ミズバョウ園登山口(5.05)−−−稜線コル付近(6.10)−−−中西山(6.40)−−−1840m肩(7.20)−−−東山(8.23-50)−−−稜線コル(10.20)−−−休憩15分−−−堂津岳(12.40-13.05)−−−休憩5分−−−稜線コル(14.40)−−−登山口(15.05)===温泉鬼無里荘===長野市===東京自宅(22.30)
所要時間 8時間25分 1日目 ***** 2日目 **** 3日目 ****
                  ≪残雪登山≫信州百名山の秀峰2座=(57歳)
背後が東山

期待どおりの快晴の朝、無風、願ってもない登山日和となった。4時40分、ザックを背に駐車場を出発。堂津岳は透き通るような曙光の中にあった。
昨夕、残照の中に悠然と構え、今また朝陽を浴びて毅然とそそりたつ姿は、さすが信州百名山にふさわしいものがあった。

東山はスキー登高のつもりで来たが、昨日の登山口下見で、取りつきに地肌が見えていたためスキーはやめて登山靴で歩くことに変更。わが国最大級と言われる水芭蕉園「今池」入口の反対側、残雪の奥に『中西山登山口』の標識がある。登山道が拓かれたのは最近のことらしい。信州百名山の著者清水氏が登頂した7〜8年前には、辛うじて測量用の切り開きがあっただけだという。 
夏道が見えていて、これなら心配いらないと甘くみたのは最初だけ、 すぐに林床全体が残雪で覆われたブナ林となった。これならスキーも十分可能だった。
新しい足跡が残っている。地図を頼るより、このトレールをあてにする方が手っ取り早い。帰りの目印として要所には赤布を残して行く。雪深いブナ林は吸い込まれそうに静かだ。野鳥の囀りがさら静寂を際立たせる。  
放射冷却による冷え込みで雪は締まり、いたって歩きいい。徐々に斜度がきつくなって来た。東山往復だけのつもりだから急ぐ必要はない。ゆっくりと山の気を味わうように足を運ぶ。ふと前方に気配を感じて視線を回すと人影があった。夜明けと同時に出発したのに、それより先を歩いている人がいるのは意外だった。私のたどっている足跡はその人のものだった。  

登山口から1時間、稜線に登りついたところで、その人に追いついた。いかにも山慣れた感じの中年男性だった。昨日は堂津岳を往復して、登山口にある休憩舎に泊まったとのこと。山は雪降りだったという。今日は東山を登頂の予定だという。いささか心強さを感じた。
(帰宅後、歩いたコースを検討してみると、稜線に登りついた場所は、 2万5千図にある中西山登山コースよりかなり北に寄った、1550メートル付近のコルだった。)  
彼とは成り行きで言わず語らずの相棒となった。  

稜線は深々とした雪で、いかにも山スキー向きの尾根だった。早朝のため雪はよく締まり、快適な雪上歩行で中西山へ登って行く。広々とした雪原状の中西山は、南北に長い山頂だった。まだ午前6時40分、遮るもののない雪の頂、朝の陽光が眩しく降り注ぐ。まさしく 360度の大パノラマが広がった。残雪期にしか味わうことのできないこの展望は、どんなにお金を積んでも一般の観光客の手には入らないものだ。障壁のような連なりを見せる北アルプスは、犬ケ岳から峰頭を持ち上げ、雪倉岳、白馬岳〜槍ヶ岳、穂高岳までその険を競い合っている。

目指す東山を、相棒となった男と確認しあう。まだはるか先、雪もつかないような殺ぎ落とされた岩壁の上に見える双耳峰、その右奥が東山三角点のピークのようだ。双耳峰に向け急傾斜の雪稜が競りあがって行く様子を目にして気後れがしてくる。よもやアイゼンは不要と思ったが大丈夫だろうか

堂津岳
写真を撮ったりして一息いれてから次のピークヘ向かった。  
いったん小さなコルへ下ると、そのあと斜度のある雪稜を一歩一歩高度を稼いで行く。稜線上のところどころに夏道が見える。はっきりとした道だ。登山道は中西山までかと思っていたが、これなら残雪期でなくても東山までは歩けそうな気がする。夏道を踏んだり、谷側に張り出した雪堤上を歩いたり、気ままな楽しい歩行だった。熊の足跡や、狐かテンの足跡などが鮮明に残っている。登山者の歩行跡は全くない。ゴールデンウイーク前半の入山者はなかったのか、あるいは消えてしまったのか。

1840メートルピークの肩まで登ったところで、目の前の尖峰は、天へ突き出すように険しい。尖峰の根元まで行ってみると、岩の露出した潅木の急斜面にル ートがあった。この急傾斜だから勿論雪は着かない。トラロープが固定されている。古びたロープで不安だったが、無事に登りきる。そのピー クが1840メートル、東山ピーク1849メートルとほぼ等しい。ここもまた素晴らしい展望だった。東山は目の前に近づいていた。30分もあれば行けるだろうと思った。
一緒だった男は少し遅れはじめた。このピークからの下りが厳しかった。スリップしたら一気に滑落しそうな急斜面は、まだ雪面は固く、靴の蹴りこみも十分にはきかず、有効なステップが切れない。一瞬「ここで退却か!」との迷いが頭をよぎった。甘く見てアイゼンを持たなかったことを後悔する。かの男はずっとアイゼ ン歩行で来ていた。  
ここで退却したら、いつまた来ることができるか、もう少し頑張って見よう。慎重に斜面を下り始めた。予想以上の厳しさに、このまま下るのは無理と判断、笹や潅木の頭がわずかに雪面に顔を出した所まで移動して、その笹にしがみつきながらそろそろと下って行った。帰路の不安もあったが無事コルまで下ることができた。  

後は夏道や残雪の上を不安なく登り返すと、間もなく東峰とも言うべ き山頂の一角だった。東峰からは、今まで南へ向かっていた進路を東に変え、わずかに下って雪稜を登りきれば、ようやくにしてそこが東山三角点峰だった。1840メートルピークから30分もあれば十分と踏んだのに、結果は1時間を要していた。深い雪におおわれ、三角点をはじめ山頂表示もすべて雪の下だった。  
独立峰ように突き出した小さな頂は、四方八方めくるめくような雄大な展望に取り囲まれていた。一つづつの山名を上げればきりのない眺めにしばし放心。ひとときを過ぎてようやく最初の興奮がおさまり、落ち着きを取り戻して一つ一つの山を確認して行った。  
北アルプスは全山、とりわけ白一色の白馬三山や雪倉、小蓮華がま近で美しい。頚城山塊の妙高、火打、焼、天狗原と雨飾山も目の前、これも残雪に覆われている。昨日登った大渚山も、ここからだと目の下に沈んでいた。高妻、戸隠の岩山も逞しく迫力に満ちている。そして堂津岳、 駐車場からは悠然と天に向かっていた姿も、背後の競りあがる頚城の山々に負けじとがんばっていた。  

これから稜線の最低コルまで戻り、その時刻によっては堂津岳に足を延ばしてもいいと思いながら、相棒となった姫路の男に「お先に」の挨拶を残して山頂を後にした。  

先ほど苦労した1840メートルピークへは、今度は登りとなる。しかし下りよりは気が楽だった。それに気温が上がって来て、雪はいくらか緩みはじめていた。2度3度爪先を蹴りこむとしっかりした足場ができた。 確実にステップを切って、一段一段登って行くと、笹薮の中に下りでは目につかなかった微かな踏跡を見つけた。その笹を強引に漕いで1840mピークまで戻った。  

そこから先適当にグリセードをなどを使って、最初に稜線へ登り着いた付近のコルまで帰った。時刻は10時20分、朝歩き始めてから5時間40分経過、結構な歩行量だった。  
コル付近には数人の登山者の姿があった。東山へ行くのか、堂津岳へ行くのか、それともこの付近で遊んで帰るのか。  

さてこれからどうする。相棒だった男が、堂津岳往復の時間は4〜5時間と話していた。今の疲労感からはやや厳しい気がする。しかしこの好天を逃してしまうのは惜しい。それに堂津岳の登山道は廃道となってしまい、夏場の登頂は不可能だという。ゆっくり歩いて倍の時間を要しても、夕方6時には下山できる。信州百名山達成のためにはまたとない条件に恵まれた貴重な機会である。 歩きながらあれこれ思い回らしているうちに、コルを通過して堂津岳へのコースを進んでいた。

相棒の男が、昨日堂津岳へ歩いたという足跡は、まだはっきり残っていた。
東山に比べると距離は長いが大きな起伏は少ない分楽かもしれない。しかし足は重くペースは鈍い。最初の小さなコブを越えたところで休憩にした。東山だけのつもりだったので水が心配だ。水筒の減った分、雪を入れて補う。  
目立った起伏はないが、小さな上り下りが案外こたえる。東山への痩せた稜線と比べて、堂津岳へのこの尾根は広々としたブナ林で、スキーで歩いたら気持ち良いだろう。
ブナの梢をとおして見上げる空はコバルトブル ー、前後に人影はなく、この大自然を独り占めして、自分だけの世界に没入している贅沢、登山をやっていてよかったと感じるのはこんなときだ。  

奥西岳と思われる鈍頂はトラバース、その後もう1回小さなピークを越えてからやや下ると、堂津岳への本格的な登 りとなった。この鞍部からは300メートルの登りとなるが、重い足には負担感は大きかった。  
雪稜を攀じり始めると、すぐに大きなナギの縁となる。普通の登山コースならば、安全のために鎖かロープが取り 付けられて当然のところだが、ここは訪れる人も稀な山、そんな安全策はある筈もなく、自力で慎重に通過しなくてはならない。ナギの急斜面は脆い土質で、ざらざらと崩れやすく、足場の確保も不安定だ。雪はほとんど雪崩れ落ち、崩壊生々しい地肌が剥き出しになっている。  

先方に頂上目指して登って行く登山者の姿を確認して元気が出て来た。  
ナギを通過すると、今度は潅木の薮漕ぎに変わる。注意すればわずかに人の歩いた形跡が認められるものの、道形は完全に消えている。 邪魔になるストックを残して、両手で薮を分け進路を拓いて、高み目指して急勾配を攀じ登って行く。全身運動で体力消耗がさらにすすむ。薮漕ぎは15分くらいだっただろうか。藪を抜けると再び残雪豊富な稜線となる。勾配はきついがほっと一息つける。一歩また一歩と高度を稼いで行った。  

かなり疲労を感じて、頂上が待ち遠しい気持ちが募って来たころ、よ うやく勾配がなくなって、堂津岳山頂の南端に到着した。南北に長く、幅を持った大きな雪原状の山頂だった。
途中『引き返してもいい』と、やや気力不足で目指した堂津岳だったがこうして山頂に立ってみると、やはり頑張ってよかったと思う。残雪期しか登頂できない山頂だけに、その値打ちも感激も大きい。前を登っていた登山者は青年だった。 「まさかほかに登っている人がいるとは思いませんでした」 と言っていた。
東山を登ってから、この堂津岳へ足を延ばしたというと、初老の姿も重なってか「がんばりますね」と驚いていた。雪に覆われた山頂だったが、北西の一角だけ雪が消えて、潅木の中に三角点が現れていた。二等三角点のようだった。
空はますます晴れ渡り、深海を思わせる藍色の果ては黒いのか青いのかわからない。ここでの展望もまた素晴らしいものだった。特に雨飾山から妙高山にかけての頚城の名山が、さらに近々と目を引きつけて離さない。昨日登頂の大渚山は、ゆったりとした女性的なラインが優雅だ。午前中に山頂を踏んだ東山も長々とした稜線の先に美しい姿を見せている。高妻山、 戸隠連峰は骨格たくましく、男性的山岳美を余すところなく晒していた。  

登頂困難とまではいえないが、ここを目指す登山者はごく限られ、よほどの山好きだけだろう。その山を登り得た喜びの余韻はさらに尾を引いていた。登山道もなく、なお当分は静かなたたずまいを保ってくれることと思う。  
写真を撮り、スケッチをし、再び訪れることはないであろう山頂をしっかりと脳裏に焼き付けてから下山にかかった。  

急勾配の下りは早かったが、緩い起伏に移ってからがしんどかった。下っては登り、また下っては登って最低コルへの行程はいやになるほど長かった。
気温上昇で往路の足跡はすっかり消えていたが、コルまでほとんど迷うことはなかった。  
最低コルヘ戻ったのは午後3時少し前だった。早朝歩き始めてから1 0時間近い時間が経過していた。  
稜線からの下り口の目印に赤布を残しておいたが、どうしたわけか見つからない。地形で思い出そうとしたが、どうもはっきりしない。一筋の足跡があったのでそれを追うことにしたが、今朝登ったコースとは明らかにちがう。グリセード気味に急斜面を下降して行くと、やがてところどころにつけて行った赤布を見い出した。朝の足跡は完全に消えていたため、この赤布がけっこう役に立った。
ときどき方向を確かめたりしながらも、きっちりと道標のあった登山口ヘ下山できた。すでに午後3時を過ぎていた。そこには水芭蕪を見物する老若男女、観光客がが行き交っていた。

国民宿舎鬼無里荘の温泉で二日間の汗を流し、新しい衣服に着替えてさっぱりすると、満足感がじわっと湧いてきた。疲れを忘れたように、長野市を経由して、上信自動車道佐久ICから東京への帰途についた。
2003.05.02 堂津岳再訪の記録 2003.11.18 無雪期の東山  2005.04.30 堂津岳登頂の記録