sub1074  
                              1989.09.30 上高地から新中尾コース  2010.10.24 新中の湯コース

焼 岳(2458m) 登頂日2010.10.24 
曇り同 同行者なし 地図 焼岳 焼岳 二等三角点
新中の湯コース登山口(6.00)−−−下のベンチ(6.45)−−−上のベンチ(7.00)−−−コル(7.40)−−−焼岳山頂(7.50-7.55)−−−コル−−−南方のピーク(8.15-8.20)−−−コル(8.30)−−−下のベンチ(9.20)−−−新中の湯コース登山口(9.55)
≪新中の湯コース≫

焼岳南峰ピーク、後方に槍、奥穂、前穂が見える
深田久弥の日本百名山を目指して山を登りはじめたころ、焼岳はまだ登山が禁止されていた。火山活動のためだ。当時日本百名山を踏破すれば、ちょっとした話題になる時代だった。

1987年大菩薩嶺を最初の山として日本百名山踏破を開始、そして焼岳へ登ったのはそれから2年後の1989年9月だった。まだ焼岳登山は禁止されていたが、禁を破っての登山だった。

あれから21年、今度は『新中の湯コース』を往復してきた。もちろん登山禁止は解かれて、この日も多くの登山者がこのコースを登っていた。

      *********************

松本市から上高地方面へ向かい、釜トンネル入口から安房トンネル方面へ左折、すぐに右手の旧安房峠方面へ右折する。中の湯温泉の案内板があるのですぐにわかる。以前は新穂高温泉方面へ行くのに、渋滞で難儀した峠道だ。

10号カーブから中の湯温泉を過ぎると右手に“焼岳登山口”がある。駐車場と広い路肩をあわせると20台ほどは駐車できる。正規の駐車場はほぼ満杯状態。
あたりはようやく明るくなってきた。何組かの登山者が出発していく姿も見える。
登山口から山頂まで、高低差800数十メートル、往復4時間もみておけばいいだろう。軽いハイキング気分、朝食をとり、身支度をしておもむろに出発する。
山頂直下の噴気孔

登山道へ入り、しばらくは歩きいい平坦道を進む。夜は明けきっていないため、はっきりとはわからないが、紅葉・黄葉が盛りのようだ。
登り勾配に変わってくる。緩急を織り交ぜながら木の根や岩を踏んで登っていく。先行者を何人か追い越していく。しっかりした踏跡が、登山者の多さを示している。

太い丸太を3本組み合わせたベンチがある。もちろんパスして通過。
やがて樹林がまばらになり、展望が利いてきて焼岳の峨々とした山頂部が見えてきた。噴気も見える。右手間近には霞沢岳の巨体、その存在感の大きさをこれほど感じる場所はほかにはないかもしれない。

樹林を抜けたあとは、火山礫のざれた道となり、踏ん張りがきかず歩きにくい。何ヶ所か木製のハシゴがあるが、役に立たないものもある。
大正4年(1915年)の大噴火直後は草木一本とて無かった山肌だっただろう。一世紀近い時を経た今は、白い実をつけたシラタマノキが一面旺盛な植生を見せていた。黄葉に彩られた梓川への斜面が美しい。予報に反しての曇り空が惜しまれるが、天気が良かったら一段と美しいにちがいない。

山頂火口底
灰色の斜面を登りきったところは小さなコル、ここは火口の縁で、その底は池になっている。晴天なら空の蒼を吸い込んでコバルト色の水面を見せているはずだ。

コルの左右に岩のピークがある。道標は右手のピークを指している。岩と砂礫の斜面を少しトラバースしたあと、硫黄臭と噴気口近くの踏跡をたどって山頂(北峰)へ達する。

曇ってはいるが見通しはいい。足下に火口池を見下ろし、その先には加賀の白山、前穂、奥穂、槍、双六、笠ケ岳などの北アルプスの高峰、乗鞍、中アなどしばし山岳展望を楽しむ。

コルまで戻って、二等三角点があるはずの南峰へ立ち寄ることにする。緑色のロープが張られているのは立ち入り禁止を示しているのかもしれない。
険しい尖塔のような岩峰が威圧感を与える。わずかに踏跡も確認できるのは登っている人もいる証だ。
尖塔の岩に取り付く。手がかり、足がかりを探しながら慎重に登っていく。私にとってはかなり厳しい。何とか無事に岩頭の上に這い登ることができた。その先は馬の
南峰への手前に立ちはだかる岩塔
背状の平坦な尾根になっていて、先端に標識らしいものが見える。行ってみると古びた木製の標識、しかし字は完全に消えている。ここ南峰が焼岳の本来の山頂かもしれない。地図ではこの付近に二等三角点があるはずだ。あたりを探したが見当たらない。三角点を隠すような藪や草木もない。

深田久弥著の日本百名山では焼岳の標高は2458mとなっている。一方国地院地図の三角点標高は2455m。
ある資料によると北峰が2393m、南峰が2455mと書かれている。
2455mの南峰を焼岳山頂と見るべきかもしれない。

21年前には踏まなかった南峰山頂を踏んだことに満足してコルへ戻り、同じ道を下った。続々と登山者が登ってくる。登りでは気付かなかった釜トンネルルートの分岐があったが、あまり使われていないように見えた。
今朝方明るさが不十分で彩度の足りなかった黄葉・紅葉が、周囲の山を満艦飾に染め抜き、もみじ狩り気分の下りだった。 


(前回登頂した時の山頂の様子は記憶があいまいになってしまい、どのピークに登ったのか判然としないが、写真には“焼岳山頂2455m”
と写っている。


焼 岳(2458m) 登頂日1989.09.30 快晴 単独
大正池バス停(6.00)---穂高橋(6.20)−−−登山口(6.35)−−−鉄梯子(7.20)−−−焼岳小屋(7.50)−−−焼岳(8.40-50)−−−焼岳小屋(9.20)−−−登山口(10.15)−−−大正池バス停(10.55)
所要時間 4時間55分 1日目 ***** 2日目 **** 3日目 ****
  登山禁止の山へ=(52歳)
焼岳をバックに・・・旧中尾峠付近より
東京自宅を深夜12:55出発。中央高速を松本で降りて上高地方面へ。  

実は、土・日曜日の二日間で新穂高温泉を基地に、笠ケ岳と焼岳を登る予定で出かけた。ところが中の湯〜平湯間が思いもしない通行止め。新穂高温泉へ行くことができない。
仕方なく予定を大幅に変更。

焼岳は上高地側からの登頂に変更。しかし上高地側のコースは全然調べてこなかった。以前奥穂へ登ったとき、その翌日は焼岳に登る計画を立てていたが、あいにくの雨で中止した経緯がある。まだその計画が頭に残っているので何とかなりそうだ。

沢渡駐車場へ自動車を入れ、1時間半ほど待って5:30発上高地行のバスに乗車した。大正池バス停で下車。焼岳は朝の陽光を一杯に受け、透き通る青空に白煙がたゆとう。穂高橋から梓川右岸に移り、今度は折り返すようにして川畔をしばらく下る。  
車道から樹林の中に登山道が導かれている。鬱蒼としたツガやダケカンバの静かな道を行く。今朝の登山者か、まだ新しい足跡が残っている。  
二つ目の沢を渡ると、それまでのなだらかな道が急登に変わる。左手には噴火と侵食により大きくえぐられた、凄惨とも言える荒々しい崩壊沢がばっくりと口を開けている。きつい登りだが調子よく高度を上げて、岩壁を巻くようにしてつけられた最初の梯子に取り付くあたりで振りかえると、明神岳、霞沢岳がぐんとせり上がってきていた。

岩に『小屋まで40分』と書かれている。  
梯子から先は終始左手に焼岳の荒涼とした山容と噴煙を見ながらの登りである。森林限界を越えて明るい草原状の中の道をじぐざぐに登りきり、わずか下った窪地、新中尾峠に焼岳小屋があった。  
小屋から5分ほどの凸起に登ると、そこには目を見張る山岳展望が待っていた。このシーズン最高の大パノラマだった。

『焼岳山頂2455m』の標識のある山頂
焼岳は昭和37年の大噴火で登山禁止となって以来、現在も禁止状態が続いておりこの凸起から先は立ち入り禁止となっている。5月の浅間山のときも禁を破って頂上に立った。今日も禁を犯すためらいを抱きつつ頂上をめざした。 
新中尾峠から頂上までの高度差は400メートル余、約1時間くらいだうろ。しかしここで見る限り400メートルもあるように見えない。上高地から眺めただけではわからなかったが、山頂は巨岩で築いた城塞のようだ。

旧中尾峠まで下りいよいよ禁止区域の登りである。禁止と言っても登山者が入っている模様で、踏跡がそれを示している。やがてコースは溶岩と火山砂礫の歩き憎い登りとなり踏み跡も不明瞭となる。
一度崩壊沢を対岸に渡り、ここからいよいよ斜面は急になる。  

当然のことながら道の整備もないから足元の岩礫ががらがらと崩れ落ちていく。微かな踏み跡を拾い、新しい靴跡に安心する。
昔のペンキ印が薄く残っていて頼りになる。巨岩を目標に直登していく。快晴の今日は見通しが効くからいいが、悪天のときなどはルートを選ぶのに苦労するだろう、私一人ではとても登れない。

頭上の巨岩をどう越えるのかと心配しながら直登していくと、岩塔の下でルートは大きく右手にトラバースして後ろ側に回りこんでいた。  
巨岩裏側のざれをひと登りすると古い爆裂火口の縁に出た。危なっかしいがらがら斜面で、踏み跡も定かでないこの縁を、むせるような硫黄臭に責められながら行くと、高年の登山者が降りて来るのに出会った。やはり登っている人はいたのだ。

もう一つの新火口の縁に出るとすぐそこが頂上だった。地を揺るがすような噴気音が無気味に響いている。立ちのぼる噴煙に、今にも爆発しそうな恐怖心を覚える。頂上には小さいながらも新しい『焼岳2455M』の標識が立っていた。 
山頂の展望はすばらしかった。
笠ケ岳から抜戸岳の岩稜が迫る。それにつづく裏銀座の山々、双六・鷲羽、槍から西穂・北穂・奥穂・・明神に霞沢岳。乗鞍、遥かに加賀白山。感激の山岳展望であった。

禁を犯しての登山、それに活火山の無気味さに追われるようにして下山にかかった。
一息に上高地に下り、このあと予定外の御嶽山へと向かった。