追想の山々1119  up-date 2001.10.06

粟ケ岳(1293m) 登頂日1991.10.21 単独
五百川登山口(5.00)−−−祓川沢(5.15)−−−猿飛の滝(5.25)---粟薬師(6.10)−−−粟ケ岳(7.35-45)−−−粟薬師(8.40)−−−五百川登山口(9.30)===東京自宅へ
所要時間 4時間30分 1日目 ***** 2日目 **** 3日目 ****
   新潟県川内山地の盟主=(54歳)


会津朝日岳を下山してすぐに翌日登頂予定の粟ケ岳登山口へ向かった。只見町から田子倉湖、六十里越と自動車をとばし、守門村から峠越えで新潟県栃尾市へ。
峠を下って栃尾市に向かって行くと、威風堂々とした貰録で粟ケ岳の構えているのが見える。1300メートルそこそこの山とは見えない大きさを感じさせる。下田村南五百川集落の最奥で、「この先集落の者以外の自動車進入禁 止」の看板の手前にある駐車場に車を止めた。駐車場の脇が釣掘で、管理の奥さんに断ってここにテントを張った。

未明の5時、五百川を出発した。夜通し降っていた雨は幸いにも上がって、雲間からは星がのぞいていた。  
刈り入れの済んだ田んぼの中、農道を15分ほど行くと道標があり、懐中電灯で照らすとそこが粟ケ岳登山道の入り口だった。  
しばらくは草のかぶさる用水路に沿った平坦な道を進む。周囲はまだ墨を流したような闇で、懐中電灯がないと一歩も歩けない。30分ほど歩くと『猿飛の滝』という滝の落ち口をわたる。その先大杉の下に『元堂』という案内板があった。この上にある『薬師堂』の里宮のようなものがあった跡だろうか。 
この元堂からいよいよ本格的な登りとなってきた。ところによっては、背を越すカヤが道を覆い、雨具を着ていなければ露でびしょ濡れだ。  

いつか夜が明けて懐中電灯も不要となり、露岩を越えるあたりで振り返ると、五百川から下田の村落が俯瞰された。
テントを出発して1時間10分、予定よりだいぶ早く粟薬師に到着。祠の中に三体の石地蔵が安置されていた。がっしりとした避難小屋が小広い平地に建っていた。ここで一息入れて先へ進む。赤土の滑る急斜面がつづく。滑らないように注意しながら、ペースを維持して登っていく。汗を滴らせて展望のきく稜線に登りついた。眼下深い渓谷を馬蹄形に尾根が取り巻いている。落差の大きい細い滝が望めた。5万図にも出ている『三十三丈の滝』だろう。対面するその尾根に小さく小屋が見える。砥沢のヒュッテだ。この位置よりかなり標高の高いところにある。

粟ケ岳山頂
目指す粟ケ岳は雲に隠れて見えないが、馬蹄の尾根が長々とつづき、めざすピークはまだまだ彼方だ。
加茂市方面の平地が遥かに見えてきた。守門岳が図体でかく横たわる姿も、頂上部だけは雲がまといつていた。黄紅葉の潅木の尾根道はよく踏まれてしっかりしているものの、剥き出しの赤土が滑るのには閉口する。高度計をみると山頂まであと150メートルくらい、階段状の丸太が朽ちて残っていた。
すこし傾斜が緩んで、再びきつくなった登りを詰めたところが山頂だった。先ほどの丸太の階段跡あたりでは加茂市方面、弥彦山かと思われるものも眺望できたが、山頂は次々と去来する霧にただ乳白色の世界だった。じっとしていると寒さが身に染みて来る。
たかだか1300メートル程度の山ながら、海抜100メートルからの登りで、標高差は1200メートル、これはもう立派な登山で体力も消耗する。ここは一等三角点峰だけあって展望も抜群、山頂の展望盤でその眺望を想像する。
展望盤に記された山々・・・・弥彦、妙高、火打、米山、黒姫、苗場、 守門、越後三山、平ケ岳、燧、白根、富士山、那須、浅草岳、御神楽岳、 吾妻連峰、飯豊連峰、二王子、鳥海。その片鱗もうかがえないのが何としても心残りであった。  

下山は同じ道を戻った。粟薬師からの下りで、登ってくる登山者に出会った。ウイークデイにこんな山へ登る人があるとは思わなかった。300名山を目指している人かもしれない。そのとき雨がばらばらと落ちて来たと思うと、あっと言う間にざあざあ降りとなってしまった。思わぬ驟雨に草薮を分けるようにして歩を早め、予定より1時間も早い9時30分帰着した。
天候には恵まれなかったが、予定の三山(御神楽岳、会津朝日岳、粟ケ岳)を登り終えた満足感で東京への帰途についた。