追想の山々1174  up-date 2001.11.05


経ケ岳
(2296m)=中央アルプス 登頂日1996.07.14 開山祭参加
  木曽山脈(中央アルプス)の山行記録はコチラにもあります
辰野町三級の滝登山口(6.40)−−−三級の滝(6.52)−−−大洞林道(7.50-8.00)−−−尾根上岩場(9.20-35)−−−黒沢山分岐(10.00)−−−羽広コース合流−−−経ケ岳−−−黒澤岳分岐(14.15)−−−黒澤岳−−−黒澤岳分岐−−−大洞林道(15.45)−−−三級の滝登山口(16.40)
所要時間 10時間00分 1日目 ***** 2日目 ****
≪信州百名山完登≫
経ケ岳山頂
日本百名山を達成した直後、『これで目標にこだわることな く、自由気ままな山行ができる』と喜んでいたような気がする。しばらくはそれでよかった。偶然に新宿紀伊国屋書店で“信州百名山”というハードカバーの本を見つけて衝動的に買ってしまった。これが信州百名山との出会いだった。
これを契機に信州百名山への登頂意欲が盛り上がって行った。山好きなら誰でもそうするように、目次の山名を追いながら、登頂済みの山の頭部にしるしをつけて行った。日本百名山で登った山も多いが、それにしても故郷信州の山でありながら知らない山のなんと多いことか。
のんびり気ままな山歩きをという気持ちを、あっさりとくつがえしてしまった。

姿をを変えたガンとの戦いのようにして登りつづけた日本百名山とちがって、故郷の山を楽しみなしがら一つ、また一つと登って行った。
平成6年10月、予想外に早く99座目の鬼面山登項を終っ た。
かねてから出身地辰野町の経ケ岳をゴールの山にしようと考えていた。経ケ岳はまた日本三百名山のひとつでもあった。

経ケ岳登山道は、箕輪町羽広から山項を目指すのが一般的である。99座目を終ったころ、タイミングいい情報が入って来た。それは長く廃道となっていた辰野町横川峡谷から経ケ岳への登山道が、信高山岳会(信州高校教職員山岳会)の奉仕で再整備が進められているという情報だった。整備完了後には辰野町民による記念登山大会も計画されるという。それまで百座目はお預けとして、 町民登山大会の日を待った。
99座目から1年9カ月、待ちどうしかったその日がようやく訪れた。
7月なかば、時期的には梅雨の最中で天候が心配されたが、登山日程に合わせるように梅雨が明けた。
前日に実兄の家に投宿。登山者集合場所へは自動車で15分という地の利である。妻、それに兄と弟も参加同行してくれることになった。
30人の定員をオーバーしてしまったらしい。いつもの単独行とは違い、にぎやかな登山になりそうだ。
受付で500円払って参加の手続きを済ませる。奥まった横川峡谷は、うだる酷暑の東京とは大違いで、冷んやりとした澄明な山の気に包まれ、まるで別世界に入り込んだような気がする。登山口は峡谷をさらに奥まった“三級の滝”近くにある。役員の自動車が登山口まで搬送してくれた。
ざっと見回すと40名前後の人数だった。
6時半過ぎ、経ケ岳へ向けて全員元気に出発。3ループに別れ、それぞれ山岳部の役員がリーダーとしてついた。先頭は若い年齢層10数人、二番目が中年の10人前後、われわれ老年組は最後のグループだ。参加者中最長老は兄、そして私が59歳、役員にしてみれば心配だったかもしれない。というのも今日の行程は約10時間、途中のアップダウン計算なしの単純高低差1400メートル。

何はともあれ100座目の山頂目指して、足取りも軽く一歩を踏み出した。
緑濃い喬木林の中を渓谷に沿って登って行く。10分余でしぶき迸る三級の滝下へ出た。ここまでは滝見物に何回か来たことがある。秋の紅葉がみごとで、地元では名が知れている。滝までは見物客の散策道としていい道がついている。
ハシゴを攀じて岩を越えると、これからが登山道となる。しかし思いのほか道の状態はいい。山岳会奉仕による整備の結果であろう。集団登山はゆっくりしたペースで歩くのかと思いきや、どうしてどうして、勾配が緩いこともあって、かなりのハイぺースでどんどん進んで行く。
スタートして1時間余、林道へ飛び出したところで先発グループが休憩している。この林道は途中の崩落で今では通行不能になっているが、 以前はここまで自動車で入れたという。

一服して出発。今度は2番目のグループに入れてくれるようお願いした。
さらに沢沿いを10数分遡上したところで沢を離れ、尾根へ向けての急斜面に変った。ここまではアプローチのようなもの、これからが登山の本番である。地図上でもこの登りが一番厳しい。打って変った急登に歩きも真剣になる。沢が涼しかっただけに、急に暑さが感じられ、たちまち汗が流れる。
ひと汗絞られて尾根へたどりついたが、さあ本格的に厳しいのはこれからだ。地図の上でも等高線のびっしりと混んだ尾根が稜線へ突き上げている。ペースを落として一歩一歩踏みしめるようにして登って行く。汗が滝のように流れる。われわれの属する2班の列も次第に長くなる。まさに鼻のつかえそうな急登という表現がぴったりする急勾配だった。第1班後尾の姿が木の間越しに見え隠れしている。私1人なら多分1班の先頭を切って悠々と歩いていることだろう。
苦しい登りもいつかは終わる。前方の高みが明るく見えるようになって稜線の近いことを知る。妻や兄弟を励まして最後のひと登りを頑張ると、吹きわたる風も爽やかな稜線だ。休憩中の1班が入れ替わりに出発して行った。目指す経ケ岳が黒々とそびえいる。直線距離にしたらひとっ飛びという感じだが、コースはここから左へ馬蹄型に大きく弧を描き、稜線を上下して行かなければならない。沢を離れてから一直線に登って稼いだ高度は800メートル。厳しい登りだった。かなり汗をかいているがなるべく水筒の水には手をつけないようにしている。 3人の水がなくなったときに備えて、少しでも残しておこうと考えた。

稜線伝いに黒沢山へ向かう。決して楽な登りではないが、それでも先ほどの厳しさに比べればずっと楽だ。右手に経ケ岳を見ながらワンピッチで黒沢山への分岐に到着。黒沢山ピークヘはここから往復10数分ほどのところにあるが、帰りに立ち寄ることにして先へ進む。大きな下りに入る。
地図の上では顕著な三つのコブを越えなければならないことはわかっていたが、下った分、登り返しになることを思うとうんざりさせられる。ときおり左手に伊那谷を俯瞰しながら、まだ先の長い前途と3人の足取りを確認しながら足を進めて行く。手づかずのシラビソの原生林が山の深さを感じさせる。しばらくは雰囲気のいい登山道がつづき、もう一つコブを越すと、箕輪町羽広から登って来るコースが合流した。その先、10坪ばかり笹が刈り払われたところがあって、ここがテント場に使われるところだという。南アルプスを一望する好展望台だが、今日は霞みがかかって薄くシルエットが浮かぶのみだった。

二つ目のコブへ向かう。3人の足取りは重くなっている。ペースが上がらない。ゆっくり ゆっくり登って行く。もう2班の先頭、後尾の位置関係も分からなくなって来た。行程10時間というのは、サバの読みすぎではと、たかをくくっていたが、やはり普通の人の足では、それが妥当なところだった。正真正銘健脚向きコースといえるだろう。
コースが右手直角に屈曲する地点、雑木に囲まれてお地蔵さんが安置された平坦地がある。三つ目のコブまで頑張るつもりだったが、弟は休憩を入れなれば無理なほど疲れていた。小休止を取って最後の登りに備えた。2班の後尾が追いついて来た。
あと1時間はかかるだろうか。腰を上げて急登にかかった。登りついた三つ目のコプには “9合目”の標識があった。前方に姿を見せるのが経ケ岳か。目視であと30分と読んで3人に声をかけ、コプを越えて行った。
目視で経ケ岳項上と読んだのは、その手前の段だった。本当の頂上の手前は、いくつかの段になっていて、まだ先のあることを知っ て、その都度騙されたような失望感におそわれる。

4人そろって待望の山頂へ無事に立つことかできた。
信州百名山最後の山頂である。1班におくれること20分だった。
興奮するような感激はない。『これでひと区切りついた』 というか『一つ仕事を片づけたな』というか、静かな感動だった。かついて来たワインを、一緒に登って来た参加者たちに振る舞う。みんな達成を祝ってくれた。
1年半も前から用意してきた、百名山達成のフリップを掲げて記念写真を撮ったりしていると、あっと言う間に30分ほどが過ぎて、もう下山の時間だった。

帰りは下山だからといって侮ることはでぎない。ふたたびいくつものコプを越えながら下っていくのだ。
弟の足取りがさらに怪しくなって来た。気取られまいと一生懸命歩いているのだが、疲労と痛みのかげは覆うべくもない。もう2班の仲間にはついていけない。引きずるような足で二つ目のコプを越え、三つ目の黒沢山分岐へ。まだ下山コースの半分も来ていない。あの沢に向かって落ち込むような下りがどうなるのかと不安が募る。

黒沢山分岐で疲れた3人を休ませて、一人黒沢山の三角点まで駆け足で往復する。天気がよければ、伊那谷から南アルプスの展望に優れたピー クだった。
この先は登りはない。ひたすら下りに下っていくのみ。

弟にとっては気が遠くなるほど長い下りに感じたに違いない。沢へ降りると急に涼しくなった。渓流がほとばしっている。待ちに待った水を、コップに汲んでたてつづけに何杯も飲む。ようやく生気が戻ってきた。 ここまでくればもう大丈夫。沢に沿った緩い下りを1時間余り頑張ればいい。
狭い谷間は午後の陽差しが傾くと、たちまち薄暗くなって、夕暮れの中にいるよだ。
三級の滝まで下ると、自動車の待つ登山口はもうすぐだ。歩きなれた私にはどうというほどのコースではなかったが、妻や弟にとっては思いもしなかったきつい一日だったことだろう。たしかに地図で読む以上に厳しいコースだ。このコースを、予想以上にしっかりした足取りで歩き切っ た妻の脚力も、まんざらではないことを再認識。登山口で待機していた役員が、私の信州百名山達成を聞いていて、祝福の言葉をかけてくれたり、また別の女性役員は『始めての開山祭に、こんないいことがあって記念になるわ』と喜んでくれたりした。
自動車で今朝ほどの大洞ダムまで送ってもらう。

事前に取材予約の信濃毎日新聞の記者が首を長くして待っていた。(翌日、信州百名山達成が、カラー写真入りの3面トップに大きく掲載された)