追想の山々1178  up-date 2001.11.10

東北地方羽後の名山
摩耶山(1020m) 登頂日1992.10.09 単独行
東京(1.00)===関川==林道===登山口(9.00)−−−関川・越沢口コース合流(9.45)−−−6合目小屋(9.50)−−−8合目ざんげ坂(10.10)−−−摩耶山(10.20-35)−−−6合目小屋(11.00)−−−3合目とどの陣場(11.30)−−−登山口(11.35)===温海温泉===胎内ヒュッテ
所要時間 2時間35分 1日目 ***** 2日目 **** 3日目 ****
日本300名山・一等三角点
紅葉の摩耶山頂上


真夜中の1時、東京はしのつく雨の中を出発。
練馬から関越自動車道に入り、夜の高速道をひた走る。雨は降りつづ く。眠気を催し、サービスエリアでしばらく仮眠。新潟インターチェンジを出ても、依然として雨の降り止む気配なはない。新発田市でガソリン給油。ルート7号をひたすら北上していく。明日登頂予定の杁差岳登山口『胎内』への分岐を横目で確認して、自動車はさらに濡れた路面を走りつづける。
村上市通過。新潟県は大きい。谷川岳真下の関越トンネルを抜けて新潟県に入ってから、もう何時間走っただろうか。まだ新潟県を走っている。ようやく新潟県の県境を越えたそこが温海町鼠ヶ関、R7から別れて摩耶山登山口の関川へ向かった。
自宅を出てから8時間近く、関川の集落へ着いた。そぼ降る雨の中、わずかの戸数が肩を寄せあっていた。傘を差した老人に登山口への林道を教えてもらう。路面には雑草がはびこり2本の轍だけがついている林道を3.5キロほど走ると、見落としそうな小さなプレートに『登山口』 の表示があった。ひどい雨だったら登るのを止めるつもりだったが、雨脚は思ったほどではなく、登山を諦めることもなさそうだ。

早速登頂の支度を整える。上下の雨具にゴム長靴履き。長靴で登山をするのははじめてのことだ。
小さなプレート表示のある、崩れた土手のような斜面を上ると明瞭な登山道があった。
植林の中を歩いてすぐ分岐。左は『戌辰の役跡』右は『横路』の表示。 取り敢えず右の横路コースを選んでみた。水平道がしばらくつづくと、もう一方の戌辰役跡からの道と合わせた。ここから山登りらしい尾根の登りとなった。ケヤキ樹林がつづく。通常、神社の境内とか、里でしか見ないケヤキが、こんなところに群生としいるのが珍しかった。

歩きはじめてから50分ほどで水場、『古の天主堂の茶屋跡』という案内板あり。そのすぐ上が避難小屋のある6合目だった。
小屋から10分も歩かずに7合目、『天王峰の大杉』の案内板。紅葉の樹木の間から摩耶山が見え隠れしている。
本コースー番の急坂という『ざんげ叛』(または鼻くくり坂ともいう) を登ると六地蔵が雨に濡れていた。地蔵さんは自然石にわずか手を施した素朴なのもだった。
一投足で一等三角点摩耶山頂上に立った。
展望盤には鳥海・月山・朝日連峰などの山名が記されていたが、 いずれも雲の中に沈んで望むことははできない。目の 前に鉾ケ峰、鎗ケ峰が満艦飾の紅葉に彩られている。日本海が広がっていた。海に浮かぶのは粟島だ。摩耶山は三角点本峰のほかに中の山、南の山の3峰からなっている。 ちょんちょんちょんと三つのこぶが並んでいた。中の峰まで行ってみたが、南の峰へはロープで急降下しなければならないので止めた。

下山は途中まで同じ道を引きかえし、今度は横路ではなく戌辰の役跡を経由。そこは戌辰の役の際、庄内勢が濠を堀って戦った跡だそう だ。たしかに濠の形が残されていた。
登山口ヘ戻ると雨はほとんど上がっていた。

温海町から自動車を南に向けて走らせると、再び雨となって来た。どうやら摩耶山を登っている間だけ雨は休んでくれていたようだ。
杁差岳登山口の胎内への途中‘瀬波温泉’で汗を流す。勿体ないくらいに惜しげもなく湯が溢れていた。
新発田市から奥胎内への標識に従い、胎内川沿いをさかのばって、胎内ヒュッテ到着は、夕刻4時前。今日はいったい何百キロのドライブだったのだろうか。
うまい具合にここも雨が上がっていた。 ヒュッテには1000円で素泊りできるということだったが、予定通り自動車の中で寝ることにする。
眠気に誘われて、5時過ぎには寝に入った。