追想の山々1212  up-date 2001.12.06

第1回奥多摩山岳耐久レース、感動のゴールイン

日の出山-御岳山-大岳山-御前山-三頭山-笹尾根-熊倉山
 大会日 1993.10.09-10
五日市青少年旅行村(10.00)---日の出山812.10)---大岳山(13.50)---御前山(15.55)---三頭山(19.05)---西原峠(20.15)---熊倉山(23.40)---醍醐峠(1.20)---入山峠(4.30)---旅行村ゴール(6.06)
所要時間 20時間09分
≪通過したピーク≫
金毘羅山(468m)−麻生山(794m)−日の出山(902m)−御岳山(929m)−大岳山(1266m)−鞘口山(1142m)−御前山(1405m)−月夜見山(1147m)−三頭山(1527m)−槙寄山(1188m)−丸山(1098m)−土俵岳(1005m)−熊倉山(966m)−生藤山(990m)−連行峰(980m)−醍醐丸(867m)
56才、参加450人・168位
≪100キロの山道・制限時間24時間≫

71キロの山道を24時間以内で歩く「第1回日本山岳耐久レース」に参加した。奥多摩のほとんどのピークを越えながら周回するコースで、地図上は71キロだが、上り下りや小さな曲折を考えると100キロになるという。途中3ヶ所の関門があって、制限時間が設定されている。
給水は0.5リットルづつ3回、それ以外は禁止。
大変過酷なレースを承知で参加した。

冬季は脚力の劣化防止にジョギングをやったりしているが、高低差の累計が2000メートルを優に超える山道を、この歳をして24時間以内で完歩できる自信は半分もなかった。も し無事にゴールできたとしても、きっとボロぞうきんのような姿でよろよろとたどりつくに違いない。それでも参加する理由が私にはあった。ガンのために人工肛門を造設、障害者となった自分に何ができるのか、どこまでできるのか、それを試してみること、それが私流のガンとの闘い方だった。人工肛門ケア装具などもザックに十分な量を携行して参加した。

450人の最後尾からスタートした。先頭の方は走っているらしい。日の出山への長いだらだら登りをかなり早いペースで登って行く。ふだんの山歩きにもない早歩きだ。オーバーペースのしっペ返しが予見されるにもかかわらず、回りに引きづられるようにして足を運んだ。日の出山までコースタイム3時間40分を2時間10分で到着、計画より50分も早い。早すぎるこ とがかえって先への不安を呼ぶ。御岳山、大岳山あたりは、いつもながらハイカーで賑わっている。
大岳山の水場で水筒を満タンにする。ほかに蜂蜜レモン1リットルを携帯。ザックの中身は厚手のゴ アテックス雨具、防寒具、手袋、カメ ラ、懐中電灯2、単三乾電池の予備、携帯食はパンとおにぎり、チョコレートや梅干しなど。地図、バンソウコウ、タ オル、眼鏡、人工肛門用具、その他で重量約7〜8キロほど。
大岳山の先、大タワのコルが午後17時の関門に対し、14時45分に通過、ゼッケンに通過ス タンプを押してもらう。自分で作った計画より1時間早い。

御前山へは小さなこぶを二つほど挟んで標高差400メートルの登り、けっこう足にこたえる。すでに通常のハイキングの一日分は歩いているがまだまだ序の口だ。御前山直下で0.5Lの水補給を受ける。御前山到着は15時55分、計画よりまだ1時間5分早い。二つ目の大きなピークを登り終わって、いくらかほっとする。ここから400m下って500m登り返す三頭山へのきついアルバイトに挑む。
月夜見山にかかる頃から、夜のとばりがあたりの景色をモ ノトーンの世界に変えはじめた。素晴らしい夕焼けが刻々とその色を変え、本格的な夜の闇が忍び寄る。風張峠を過ぎると闇は深まり懐中電灯を点けた。

三頭山への登りはさすがにきつい。疲れた足に負担を感じるがまだ大丈夫だ。しかし安心はできない。三頭山々頂ではテントを張って待機する大会運営スタッフの人びとが激励してくれる。満天の星空の下、影絵のような富士山を、足を止めしばし眺める。すぐ下の避難小屋で給水をうけて10分間の休憩。パンをかじるが食が進まない。疲労の進行に反比例して食欲の方は減退して行く。もうひと頑張りすれば第二関門の西原峠だ。規制の23時にはまだ十分余裕がある。ハイキングで歩いた時には感じなかった小さな登りが、疲れのたまった足にはきつい。暗闇の中を一人になったり、ときおり前の人に追い付いたりしながら、西原峠へ到着した。20時15分、関門制限より2時間45分の余裕をもっての到着だった。通過順位は212番と教えられる。意外に良い。テレビカメラのライトに照らされてインタビューを受ける。「本当の苦しみを味わうのはまだまだこの先だと思います」と答える。かつての100キロ強歩やフルマラソンの経験から、やがて根性だけで歩かなくてはならない時がくるのがわかっていた。

この先「平坦な道がつづく笹尾根」という印象が残っていたが、笛吹峠、土俵岳、日原峠、浅間峠と辛い起伏が繰り返す。小ピークを越えるたびに、疲労の度が増していく。この先まだ延々とつづく途方もない長い距離を思うと、棄権して楽になりたい衝動が繰 り返し襲ってくる。
小笹の中に体を投げ出し、ザツクを枕にして横になると、眠りの底に吸い込まれそうになって、はっと して目を開く。気持ちを奮い立たせてまた歩き出す。横たわって休む人の姿が多くなってきた。
浅間峠には疲れ切った人たちが、放心したように座り込み、あたかも敗残兵のごとくだった。大事に飲みつないできた蜂蜜レモンも残り少ない。パンはおろか、カロリー補給のチョコレートも食べたくない。妻が持たせてくれた梅干だけがなんともいえずうまい。
浅間峠から第三関門の醍醐峠までは歩いた経験のない道だ。 「棄権して下山するならこの浅間峠が一番いい」そんな誘惑が囁きつづけるが、腰を下ろして5分、自分の意思とは無関係に足は峠から登りの道へ向かっていた。

かなり歩いたと思って時計を見ても、15分しか経っていない。いくたぴそれを繰り返したか。再びうんざりするような登りを終わると、やっと三国山山項。ここで最後の給水 0.5L受ける。蜂蜜レモンももう底が見える。これであと20キロ持つのか不安になる。
第三関門醍醐峠へ到着したのは、日付の変わった午前1時20分、関門の5時には十分な余裕があった。既に15時間以上ほとんど休憩もなしに歩きとおして来たのだ。疲れて当たり前だった。メモにはここで10分間の休憩を取ったことになっているがよく覚えていない。

棄権したい誘惑すらも湧かなくなり、ただ惰性で足を動かしている。知らぬ間に三日月が中空に浮かんでいた。 市道山へ向かう道は急に足元が悪くなった。淡い懐電の照明と、疲労による注意力の減退で、崩壊個所に気付かず足を踏み外す場面もたびたび。しかしいずれも大事に至らなかったのは幸いだった。
途中、「すみませんが水の余裕はありませんか」と聞かれる。私も分けるほどの余裕はない。しかし共に同じ苦しみを頑張っている人に「ない」とは言えない。その人は一口だけと断って、本当に一口だけで水筒を返してきた。 思わずもっといいですよと言うと、さらに二口、三口うまそうに飲んでから「ありがとうございました、助 かりました」と礼を言ってくれた。私も飲みたかったが、先のことを考えて我慢、お互いの完走を祈って別れた。
道の悪い市道山分岐までの起伏の多い道、そしてさらに大きなこぶが繰り返す入山峠までの道、歩いても歩いても果てない。この一歩がゴールへ一歩近づくのだと言い聞かせながら、闇の中、懐電の明かりを頼りにただ黙々と進んだ。

4時半、林道と交差する入山峠。ここまでくれば残りは3時間余、ゴールしたも同しだ。テレビ取材班の目の眩むようなライトで峠は昼間のようだった。あとは里に向かってひたすら下って行けばいい。空白になった頭からは、意思とは関係なく足だけは間違わずに前に向かって進んで行く。

気がつくと東の空が白んできた。夜が明けようとしている。歩いた時間の長さが改めて実感される。入山峠から今熊山まで、コースタイム2時間を1時間35分で歩けたのは、極限に近づいた疲労の中ではよく頑張った。今熊山で最後の通過証明スタンプを受ける。この下の神社には水があると聞いて、大事にしてきた水筒の残りを飲み干した。
東の空が真っ赤に焼けはじめた。暗闇での苦闘の末に迎えた夜明けは、ことさらに感動的だった。
長い石段を降り、神社境内でコップ2杯の水を飲み干すと、力がよみがえった。
集落に入り急ぎ足で最後の4キロを軽快に歩く。要所要所に立つ係員の「ご苦労様でした」の声がうれしい。犬の散歩の人も同じように声をかけてくれる。

100キロの山中を歩きとおしてきたとは思えぬほど、元気な足どりで、ことさらにかっこうをつけ、笑顔でゴールに入った。
20時間6分。迎えてくれた役員の拍手に「ありがとうございました」と言いたかったが、感激に胸が詰まって言葉にならない。ただ頭を下げて感謝を表すのが精一杯だった。早速テレビのインタビューを受けたが、立っているのがやっとの疲労しきった体、大事をなし終えた後の虚脱感で、質問にも適切な言葉が浮かんでこない。そしてあの苦しみの過程を口にすれば涙が止まりそうもない不安に、言葉が出なかった。

また一つ、私の人生で記念すべき挑戦が成し遂げられたという満足感が実感として湧いて来たのは、マメのできた重い足を引きずって駅に向かい、我家に帰ってからだった。
当日の参加450人、24時間内ゴール301人、順位168番。一番でゴールインした人が勝者ならば、己と戦いながら24時間ぎりぎりで帰ってきた人も、紛れもなくまたこのレースの勝者であった。