追想の山々1277  up-date 2002.02.01


米 山(993m) 登頂日1994.05.14 妻同行
東京(4.30)===小出IC===下牧廃校跡(9.20)−−−駒の小屋(10.00-05)−−−避難小屋(10.40)−−−米山(11.10-40)−−−駒の小屋(12.40)−−−廃校跡(13.30)===妙高高原へ
所要時間 4時間10分 1日目 ***** 2日目 **** 3日目 ****
新潟県日本海にのぞんだ300名山=57
下手なスケッチは米山(吉川町より)


まったく頭になかったが、結婚30周年になるらしい。記念の旅行をしたいと妻に催促されて、安上がりに妙高高原の保養寮へ一泊のドライブ旅行を計画。ついでに山をひとつ登ることにした。新潟県柿崎市にある、日本三百名山の米山が手頃だった。高さはわずか993メートル、しかし一番下から歩けば1000メー トル近い高低差で、そこそこのコースになる。
国道から高度感をもった見栄えのする山が見える。残雪もかなり見えるし、米山にしては高さがあり過ぎるような気がした。しかしほかに心当たりの山はなく、やはりそれが米山だった。
柿崎市で米山表登山口のでかい看板を確認して国道を左折した。迷うことなく『米山登山口』 バス停へ到着。バス停を少し入ったところに、今は廃校となった学校があって、そこが登山口になってた。
登山日和の上天気、かなり暑くなりそうだ。神社石段の左脇から登山道は始まる。ここからだと高低差650メートルの登りで、ハイキングが久しぶりの妻にはちょうどいい。
よく手入れされた登山道をゆっくりと歩いて40分、 駒の小屋に着く。この付近からブナ樹林に変わった。駒の小屋を覆いかぶすようなブナの大木の根元にあった。
新緑の萌えだしたブナは、身も心も洗われるような清浄感がある。駒の小屋でひと休みして出発。小屋のすぐ先に33体の石仏が並んでいる。石仏は1体1体が全部異なっていた。

イワウチワの花が登山道沿いに咲き乱れている。ほどよい傾斜の道を40分程歩くと避難小屋がある。小屋からは少し下りとなる。鞍部から登り返すとザレの痩せ尾根通過となるが、ロープが張ってあるので心配はない。心地いい風が通り過ぎて行く。
やや急になった登山道のところどころに、消え残った最後の雪が黒く汚れていた。日本海側から見えた残雪は北斜面で、この南斜面にはほとんど雪は残っていない。
避難小屋から山頂までは25分だった。山頂のあっちこっち、いくつ ものグループが思い思いの休憩を楽しんでいる姿は、ピクニック会場のような雰囲気だった。ざっと4〜50人はいるだろう。それにしても何と賑やかな山頂であることか。場違いのような大きな休憩舎が山頂を占拠して建ち、その奥の戸蹄まりをしたままの神社が米山薬師堂である。何でも日本三薬師のひとつだそうだ。神社前には一等三角点標石のほか、解説板やら石祠やら道標やらと、とにかく雑然として落ち着かない。
少し離れた先に展望盤があった。天気はいいものの、春の霞がたなびき遠望はまったくきかない。ちなみに展望盤には飯豊連峰、朝日連 峰、谷川岳、平ケ岳、守門岳、浅草岳、頚城三山、越後駒ヶ岳などがあっ た。

飲食と談笑に精出す人々を脇に見て下山することにした。
同じ道を、ブナ樹林を鑑賞したりしながら下った。登山口近くまで降りてから、ワラビを二つかみばかり採った。妻は山よりワラビの方が気に入ったらしく、夢中になって採っていた。

妙高高原の保養寮へ着いて部屋へ入ると、立派な盛花がテーブルの上に飾ってあった。『結婚30周年おめでとう』のメッセージつきで息子からのものだった。こういうことによく気がつくのは父親似ではないようだ。
折りよくスキーゲレンデの茅を焼く『かんばやき』の日だった。町を上げての催しで、花火の合図で火が点けられると、風に煽られて燎原の炎さながらに夜空を焦がしていった。