情報科学のあれこれ(21) 複雑系(その3) 新しいパラダイムとしての複雑現象研究(2) 4.複雑系の諸特性と実世界との結びつき (1)複雑系から見た相転移と臨界現象 前編の“新しいパラダイムとしての複雑現象研究(1)”では学問の世界における 複雑系科学について説明した。そこでは複雑系の現象として、カオス、フラクタル、 ゆらぎについて、その特性がどのようなものであるかを勉強した。本編では複雑系科 学が実世界の中でどのように役立っているかを考えてみよう。 実世界の中には色々な状態があり、時々刻々変化している。これを先ず物理現象で みると、状態が大きく変る現象に相転移がある。物質の相転移とは原子や分子やコロ イド(分子の塊や巨大高分子などが分散したもの)の相互関係の状態が質的に変化す ることである。相転移は物理学的には、結晶状の固体が熱せられて必要な熱エネルギ ーを得た部分から溶融して液体となり、固体と液体が共存するような状態を経て液体 となる現象や、豆腐や生クリームのように液体状のコロイドのゾルが徐々に固体状の ゲルになるような現象である。前者を1次相転移または不連続相転移、後者を2次相 転移または連続相転移と言う。第28図の(a)ように、1次相転移では或る一定の温 度で原子や分子の熱運動の状態が不連続的に変るため、エネルギーの吸収(蒸発の潜 熱)やエネルギーの放出(凝固の潜熱)が行われて相転移が起こるが、これに対して (b)にような2次相転移はコロイドの結びつきの状態が変化して起こるため、ゾル とゲルの間のエネルギーに関する特性(エントロピーやエンタルピーなど)のレベル は連続している。しかし、その変化の度合いは折れ線状に変る。この2次相転移で起 こる現象は特に臨界現象と呼ばれ、2次相転移点を臨界点という。熱力学で臨界状態 という用語があるが、これは蒸気を等温圧縮して行った場合、ある圧力(臨界圧)で 圧力が一定になり、液化が始まり、液化が終わるまで続く。この状態を臨界状態と言 っており、このように臨界という言葉は色々な現象に対して使われている。第28図 エネルギーに関する特性の変化 実世界では何らかのきっかけから臨界となり、これを越えると相転移が起こる。臨 界現象でよく知られているのは核燃料の原子核反応におけるものであろう。平穏状態 と連鎖反応の暴走状態との臨界点で、核分裂の連鎖反応を制御しながら原子力エネル ギーを取り出して発電しているのが原子炉であり、東海村で起こった核燃料の再処理 工程での臨界事故は、この臨界における核反応の暴走によって起こったものである。 また臨界現象は地震や雪崩の発生としても見られる。では複雑系科学からこのような 相転移現象を見るとどうなるであろうか。 以下はミッチェル・ワールドロップが参考文献16)の「複雑系」の中に書いている ことである。前編で述べたラングトンは相転移のような現象がカオスの縁(フチ)に おいて起こると考えた。彼はカオスの縁について第5表のようにアナロジカルに考え たとワールドロップは記している。 第5表 カオスの縁のアナロジー
注:ワードロップは力学系のクラスWを複雑系と記しているが、複雑系にはカオス が含まれていると一般に考えられているので、内容を表す言葉としてカオスの 縁という表現にした。 第5表のうち、セル・オートマトンと力学系の関係は相互に説明関係にあると言え る。次のセル・オートマトンの各クラスと物質の状態とのアナロジーについては、ラ ングトンは物質における相転移をはさむ状態に相当すると考えた。彼はカオスの縁の 物質におけるアナロジーは、固体即ち秩序の状態から液体即ちカオスの状態への相転 移であるとしている。しかし、私は後述するゆらぎとの関連から、カオスの縁のアナ ロジーとしては、2次相転移のゾルとゲル間の臨界状態に当たると考えるのがふさわ しいのではないかと考えている。 これらに較べて、第5表の生命に関するアナロジーは、生命現象について色々考え てみないと理解が困難である。確かに40億年前の生命体の誕生は、原始の海のたんぱ く質などのスープの中で起こった相転移であろうが、この原始生命が今日の生命体に まで種々進化を遂げてきたのは、カオスの縁の状態が無条件で続いてきたからである とはちょっと考えにくい。長期間カオスの縁にある生命体が固定的秩序をもつクラス TやUに、またはカオス状のクラスVの状態に落ち込まないのは何故であろうか。簡 単に言えば、カオスの縁は自分自身で臨界状態を保とうとする自己組織化という機能 を持っているのである。では先ず自己組織化とは何かを説明しよう。 (2)複雑適応系で見られる自己組織化(創発)とジップの法則 自然界や社会にある具体的な複雑現象は複雑適応系である。この複雑適応系に対応 して哲学者のカントは、18世紀の後半に「各部分は全体のために全体の力を借りて存 在し、また全体も部分の力を借りて部分のために存在している」と考えていたと記さ れている。自己組織化はこの複雑適応系の重要な機能の1つである。自己組織化とは 自発的に秩序が形成される現象で、複数の要素が組み合わされることにより、それぞ れが持つ性質からは予想されない新しい状態が生まれることで、人工生命の研究の際 に自己増殖オートマトンから見いだされた“創発”という用語が使われることもある。 単純に確率計算をすると、地球上の全物質を、地球が生まれてから今日まで46億年 間にわたって反応させ、その際起こる偶発的な変化を積み重ねて進化を図ったとして も、高等生物の誕生はおろか生命の誕生も危ぶまれるとのことである。しかし、現実 にヒトのような高等生物がいることは、単なる確率現象を越えた何らかの仕組みの存 在を予測させる。その仕組みに対し名づけたのが自己組織化である。 自然現象はエントロピー増大の法則に従ってランダムな方向に進むが、現実には雪 の結晶のような秩序ある状態に向かうことがある。雪は雨が凍って六角形の美しい結 晶になったもので、元々はランダムな動きをしている水の分子から作られたものであ るが、単なる単結晶の氷のようなものではない。巨視的な自己組織化現象として、物 理現象や化学反応で見られるベナール対流やベルソフ・ジャボチンスキー(BZ)反応 がある。ベナール対流は味噌汁で見られるモクモクとした模様を示す対流であり、こ の模様はうまくいけば自発的に六角形が並んだ模様となる。この場合自発的に起こる 対流は、六角形のセルの中心部が上向きの流れで、周辺部が下向きの流れになってい る。BZ反応では酸化還元反応が自発的に繰り返される。それで色が変る酸化還元指示 薬を入れておくと、反応液の色が変ったり色々な模様を繰り返す。このBZ反応には自 己触媒過程(生成した物質が触媒になる)があるため、変り方に非線形性が強く表れ る。このような自己組織化は物理や化学の現象のみならず生物においても行われ、ヒ トも自己組織化によって創られた大いなる秩序体である。このように自己組織化とい う一つの言葉で表されても、それが具体化される対象によって表われ方はそれぞれ異 なっている。即ち、自己組織化という言葉は色々な場合に自発的に起こる秩序形成を 表現するための一つの用語で、幅の広い概念である。 後の論議のためにやや専門的な説明を加えると、自己組織化には平衡状態で行われ るものと、非平衡状態で行われるものとがある。平衡状態とは静的な状態、熱力学的 には巨視的に見て時間的に変化のない状態をいう。しかし、平衡状態においても個々 の分子の熱運動などを見れば変化している。平衡状態における自己組織化は要素の相 互作用によって起こり、閉じた系で起こるのが特徴である。この平衡状態で行われる 自己組織化には雪の結晶や生物の生体膜などがある。 非平衡状態とは静的でないダイナミックな状態のことで、非平衡の状態は系外とエ ネルギーや物質や情報をやり取りして持続される。従って閉じた系で起こるエントロ ピー増大の法則は適用されない。自己組織化の大部分のものはこの非平衡の状態にお けるものである。 1977年にノーベル化学賞を受賞したプリゴジンは、1945年に熱力学における非平衡 の問題を取り上げ、平衡からの隔たりに関連する自己組織化について初めての論文を 書いている。プリゴジンは平衡状態から遠く離れている条件のもとで、環境と相互作 用をしながら動的状態にある系を散逸系と名づけており、その散逸構造論の中で非平 衡状態にある程自己組織化の可能性が高いことを指摘している。ちなみに散逸構造 (dissipative structure)とは、エントロピーを散逸させて減少させる、即ちエン トロピー増大の法則が適用される構造とは反対の、秩序を作る構造という意味である。 このように物理学や化学における自己組織化という概念は相当に古いものである。こ の非平衡や散逸構造や自己組織化は以下述べるように複雑適応系と深い関係がある。 スチュアート・カウフマンもプリゴジンの散逸構造や自己組織化についてその著書 の参考文献28)で紹介しているが、彼はこのような自己組織化の概念を複雑適応系に まで拡張させた。典型的な複雑適応系である生物が存続するための必要条件である自 己複製機構や進化機構を、生物における自己触媒作用(生物において行われる自己組 織化)として捉えて説明している。但し、彼は生物が新しい細胞を作ることによって、 新しい生物を生み出す仕組みは説明しているが、作り出された細胞の集団が生命を持 つ仕組みについては説明していない。即ち、生物の自己組織化は初めに生命ありきか ら出発している。 自己組織化されたものを調べると、ジップの法則に従っているものが多い。ジップ の法則は、ジョージ・キングス・ジップが英語の単語の出現頻度とその出現順位がベ キ乗則をなしていることを発見したことによるものである。英語でよく使われる単語 はtheであるが、これの出現頻度は0.1に近く、次に2番目によく使われるofの出現頻 度はその1/2の0.05に、3番目のandは0.033に、4番目のofは0.025にそれぞれ近い。 即ち、出現頻度Pと順位Nとは
という関係にある。これはベキ乗則であり、両対数グラフではlogPとlogNが、勾配が −1の直線関係にあることを示す。この例として、日本の都市の人口とその大きさの 順位を両対数グラフに描いてみると、第29図のように同様な直線状になっていること が判る。このようなベキ乗則は1/fのゆらぎでも見られた。
第29図 日本の都市の人口と順位の関係 その他にも、岩石を破壊した時の破片には顕微鏡で見なければわからない無数の微 小な破片や少数の大きな塊までジップの法則に従って分布しており、その他音楽CDの 売れ行きや、更に不思議なことに後述する企業所得までジップの法則に従っており、 このような現象が数多く見られる。このように自然現象から社会現象まで幅広い分野 でジップの法則に従った種々の現象が見られる。 一方、自己組織化されたものも絶えず変化している。幼児は子供となり、大人に成 人していく。自己組織化は秩序の形成については説明しているが、新しい秩序が一度 だけではなく、変化しながら次々生まれてくることについては説明していない。 (3)複雑適応系で新しい秩序が次々生まれてくる仕組み 複雑適応系は秩序を保ちながら次々と変化している。これを先ず物理現象での秩序 の変化である2次相転移で考えてみよう。 2次相転移では、最初一様であったコロイドのゾルが、全自由エネルギーの減少や その他架橋などの化学変化によって相転移を起こし、たくさんの小さいコロイドの塊 となり、さらに小さな塊がくっつき合いながら大きな塊となり、最後には全体が一塊 のゲルとなる。その過程では大きないくつかの塊と小さな多くの塊が存在し、小さな 塊同士が引っ付いてゆっくりとまたは急速に大きな塊になったり、また小さな塊が大 きな塊に引っ付いたりするさまざまな変化が起こる。即ち、ゆらぎの大きい状態を経 由する。これは巨視的な状態のゆらぎであるが、温度、濃度、部分モル体積などすべ ての熱力学量のゆらぎも起こっている。これを図で表わすと第30図のようである。
第30図 2次相転移における転移点付近のゆらぎ このように2次相転移が進行する過程ではゆらぎが大きくなるが、これを臨界ゆら ぎと言う。 一方、自己組織化の関連語として自己組織化臨界現象(自己組織的臨界現象とも言 われる)がある。自己組織化臨界現象という表現は、自己組織化という現象における 臨界なのか、臨界現象が自己組織化されることなのかまぎらわしい。即ち、前者のよ うに自己組織化が主語なのか、後者のように臨界現象が主語なのか分かりづらい。こ れは英語を日本語に訳したときの問題であるが、英語ではself-organized criticalityであり、後者であることが分かる。 この現象の身近な例としてよく引き合いに出されるのが、砂山の雪崩現象である。 砂をすくって上から少しずつ落とすと砂山ができる。これはある高さの砂山にまでな るが、さらに砂を落としても砂粒は山の斜面を転がり落ちるだけで、山の形状は保た れたままである。しかし、更に砂を落とすと或るとき突然砂山は雪崩現象を起こして 形状を変える。この状態でまた砂を落とし続けると元の形状に似た砂山が形成される。 雪崩を起こす状態がこの場合の臨界状態であり、この現象は砂を落とし続ければ何回 でも発生する。この現象では、いつ雪崩を起こすかは予測できないが、雪崩を起こす ときの砂山の大きさと、その大きさで雪崩の起こる頻度を両対数グラフにとると直線 状になり、ベキ乗則の関係にあることが判る。 今は砂を人間が落としたが、物質やエネルギーを取り入れることで、即ち散逸系で、 自発的にこの臨界状態を再生するのが自己組織化臨界現象である。 実世界の臨界現象には原子炉の臨界などのようなものがあるが、この臨界現象は不 安定であり放置すれば暴走を起こす。即ち自己組織化されている臨界現象ではない。 それに対して地球のプレートのひずみが蓄積されている地盤などは、一旦地震を起こ してエネルギーを開放すれば、即ち臨界状態を経由すれば、再度安定な状態になる。 この違いは何によるのだろうか。 ラングトンがカオスの縁のアナロジーとして考えた相転移では、ミクロな状態が変 化しゆらぎながらマクロな変化が起こっている。カウフマンはこれについて永年考え て次のような考えに辿りついた。カウフマンは、あるシステムがベキ乗則に則った状 態の変化していれば、即ち、変化の過程でもジップの法則が成り立っていれば、その システムはいつまでも臨界状態(カオスの縁)に存在することができるのではないか と考えた。カオスの縁にある「生きている」システム、株式市場、互いに依存し合っ ている技術のネットワーク、熱帯多雨林などの変化に共通するベキ乗則が臨界状態を 継続して起こさせるのではないかと考えたのである。即ち、臨界ゆらぎが1/fゆらぎ になっていると、臨界状態が自己組織化されると考えたのである。カウフマンはこれ らの考えを基に、生物の自己複製機能を説明することを試みた。彼が提案したものに “カウフマンの遺伝子ネットワーク”がある。これについては次の第22編で金子邦彦 先生の細胞再生産の実験についての紹介の際説明しよう。 実世界ではこのような自己組織化臨界現象を示すものが多い。例えば、生物の成長 は最も自己組織化臨界現象にぴったり当てはまるものである。比較的自己組織化現象 についての研究例の多い単細胞生物から、高等生物の細胞や組織、さらにヒトそのも のまで自己組織化によって作られ、自己組織化臨界現象によって絶えず成長していく ことが認められる。その中でも最も典型的なものが脳で、例えばヒトの脳は絶えず物 事を記憶し、或いは忘れ、自己組織化臨界現象によって新しい状態を作り出している。 その他度重なる地震の発生や、自由市場での物の売買価格も自己組織化臨界現象であ る。また日本企業で所得が4000万円以上の85000社を対象に所得を調べて、両対数グ ラフの横軸に1社当たりの所得をとり、縦軸にそれ以上の所得を得た企業の所得の累 積値をとってプロットすると、個々の企業の所得は色々変るのに全体としてみると不 思議なことに第31図のように−1乗のベキ乗分布をしていることが判る。このグラフ は自己組織化されたシステムによく見られるジップの法則になっている。
第31図 日本企業の所得額と所得累積額との関係(参考文献22より引用) 以上説明してきたのが、ここ数年までの実世界における複雑適応系について明らか にされたことの一端である。例えば、参考文献24)の“ゆらぎの科学と技術(東北大 学出版会)”では、東海地震の予知の問題での自己組織化臨界現象についての考察な どが記載されている。 5.複雑系科学は実世界においてどのように役立っているであろうか 以上複雑適応系のキーワードとして、自己組織化、ジップの法則、自己組織化臨界現 象、臨界ゆらぎなどについて勉強してきたが、一見複雑そうに見える実世界の現象でも 案外単純な基本的なルールがあることが分かる。しかし、複雑適応系で見出されたルー ルは個々の要素の振る舞いを説明するものではなく、ここに複雑系科学の限界があるこ とを認識しなければならない。このことは複雑系の研究はニュートン力学以来の要素還 元的手法では行うことができず、次編で説明する構成的手法で行わねばならないことか らも明らかである。構成的手法とは、簡単にいえば基本的なモデルを構築し、その全体 的な振る舞いが実際の状況に合致するようモデルを修正しながら、全体の振る舞いの仕 組みを理解する手法である。但し、個々の要素の振る舞いが判らないということではな く、要素はそれぞれのルールに従って振舞っているが、その際に全体の動きの影響を受 ける状況がそれぞれの要素によって異なるということである。 実世界において我々が関心を持つ大きな分野として、人の安全や能力の向上に関する 問題と、経済の問題がある。後者は問題として大きいだけではなく、複雑系科学を実社 会に適用する手法についても学んでから取り組む必要があり、以後の編にゆずることに して、本編では前者の問題についてのみ考えてみよう。 安全に関して言えば、最近色々論議されている東海地震、東南海地震などへの対策は 典型的な臨界ゆらぎに対する対策である。このように予測されている臨界ゆらぎへの対 策のみではなく、昨今大きく報道された平成17年12月25日に起こったJR羽越線の脱線転 覆事故にしても、臨界ゆらぎの立場から見れば、予防できる問題であったとも言える。 あのような地形では冬季に起こる気象状況によっては、確率的には低いにしても突風な どが発生する臨界ゆらぎが起こり得ると考えるべきであろう。従ってあのような地形の 場合あり得る気象条件において、突風の被害を避けるためにどう対策すべきかを臨界ゆ らぎの観点から考えることが必要であろう。 次に能力の向上についてであるが、ここでは人の能力のうち、我々の関心が深い脳が どのようにして自己組織化され、自己組織化臨界現象によって知能を向上させるのかを 見てみよう。脳の中にはニューロン(神経細胞)とグリア細胞があり、ニューロンは第 32図のように細胞体と樹状突起と軸索からなり、各ニューロンは軸索の先端のシナプス 間隙を介して別のニューロンの樹状突起に連絡している。ニューロンでは信号はニュー ロンの内部では電位によって、シナプス間隙では神経伝達物質の授受によって伝えられ る。これらのニューロンは脳の中で自己組織化によって複雑なネットワークを作り、信 号を伝達しながら情報処理を行っていく。これに対してグリア細胞はニューロンに酸素 や栄養物を補給し、老廃物を取り出す働きをする。
第32図 ニューロンの構造と信号伝達の仕組み 脳の大部分を占める大脳や小脳の表面には灰白質と言われる2.5ミリメートル位の厚 さの新皮質とそれに埋もれた形で古皮質がある。ニューロンはこの皮質の中にある。そ して皮質の内側には髄質(白質)と呼ばれる軸索やグリア細胞のつまった部分がある。 ヒトのニューロンは正常の妊娠では受精後6〜7ヶ月までに略作られ、その後はごく一 部の部位のニューロンを除いて新しく造られることはなく、誕生後は逆に1日に約10万 個づつ死滅していく。早産児でも受精後7ヶ月以後ではニューロンが一応生育している ので、母親と同じ胎内の環境で育てれば生存可能である。ヒトの脳は、誕生直後は約 400グラムであるが、約半年後には倍程度にまで成長し、10才前後には成人の脳の重さ である1200乃至1500グラムまで成長する。これはニューロンのネットワーク(ニューラ ルネット)を整備するため軸索が成長することや、グリア細胞が成長することによるも のである。 脳の機能としては、意識に関するものと感覚に関するものとがある。最近は感覚に関 するものの重要性が注目されてきたが、ここでは知能に関する前者について考えること にする。 高等生物のもつ知能は、ニューロンが学習によって結合し密なネットワークを作るこ とで得られると考えられている。このネットワークを活用するためには神経伝達物質が 必要であり、これを補給することも知能の発達に影響する。この神経伝達物質には色々 のものがあるが、その構成比は人種によって相当異なっており、それが民族の気質にも 影響すると言われている。 ヒトの脳は誕生後色々な知識を吸収して第33図のようにニューラルネットを密にして いく。このように赤ちゃんの脳はまだ自己組織化が進んでいない脳であり、成長するに つれて脳は自己組織化されていく。この成長過程は自己組織化臨界現象そのものである。 そしてこの自己組織化は五感を通して外部から受ける何らかの刺激(学習)によって行 われることが確かめられている。では頭を良くするための学習はどうしたらよいのであ ろうか。これを複雑系科学の立場から考えることも複雑現象について勉強することの大 きな意義であろう。
第33図 ヒトのニューラルネットの成長の例(参考文献32より引用) 頭がいいと言うのはどのようなことか定義するのは中々難しい。天才は頭のいい人と 考えられるが、普通の人が天才になることは非常に難しい。そこで頭がいいということ に替えて知能の高低で考えることにしよう。知能とは、ある状態に置かれたとき発揮さ れる精神機能の総合的能力である。従って知能はその人がうまく生きていくために必要 な行動をする源になるものである。 人間に必要な知能を大きく分ければ、1つは生きていくための知識を身につける記憶 力であり、次の1つは物事を正確に判断する論理的な思考能力や、将来に対する洞察力 であり、もう1つは今までに無い新しいものを考えつく創造力であろう。これらの知能 は脳の特定部位のニューロンが分担していると考えられているが、脳の各部位の働きに ついては脳に関する多大の基礎知識を必要とするため、ここでは説明を省略する。これ については多くの参考文献が提供されているので、それらを見て頂きたい。 第1番目の生きていくための知識を身につける記憶力は、繰り返し経験してニューラ ルネットを作ることに当たり、このことは語学の苦手な人でも外国で生活するようにな ると、現地の言葉を覚えることでも分かる。これは数学の学習で言えば、九九を覚えた り、100マス計算をしたり、公式を覚えるようなもので、条件反射的記憶学習である。 2番目の論理的思考能力については、私の僅かな大学での講義経験でも、人によって大 きな違いがあることを感じた。例えば10進数を2進数に変換する問題でも、試験前に何 回も説明し学生もよく聞いているのであるが、試験の時僅かに数値を変えて出題すると もう正解できない人がいる。本人は“私は数学が苦手なのです”というが、単に数学が 苦手であるというのではなく、論理的思考に向いたニューラルネットが自己組織化され ていないのではないかと思っている。これを向上させるには、論理的解決を求められる 問題、例えば数学の応用問題、試行錯誤による証明問題などに繰り返し取り組むことに よって、ニューラルネットを自己組織化することができるのではないかと考えている。 ここで注意しなければならないことは、論理的思考に向いたニューラルネットは単独 で働くわけではなく、記憶のニューラルネットと連携しながら論理的思考をしているこ とである。例えば、数学の応用問題でも基礎となる演算や式を取り扱う知識や、公式な どを知っていなければ解くことはできない。 以後の説明でも同じことであり、個別の機能を担当するニューラルネットは夫々相互 にネットワークを組みながら全体として機能を発揮していることを忘れてはならない。 洞察力や創造力は記憶力以外の知能に大きく関係すると思われる。このうち洞察力は 単なる経験によって強化できる記憶力とは異なり、あり得るかも知れない多くの可能性 を見つけて、その中から可能性の高い幾つかのもの、でき得れば正しいものを見つけ出 す能力であり、広い意味での直観の能力でもある。そのためにはそれに適したニューラ ルネットを自己組織化しておき、問題に直面したとき“適したニューラルネットを見つ け出すためのニューラルネット”を自己組織化しておくことが必要なのではないかと考 えている。 洞察力の例として、以下は純理論的に今後の再発防止のために述べるのであるが、最 近大きな問題となっている耐震強度偽装問題がある。よい立地条件の土地で格安のマン ションが買えるということには、安くするための何らかのカラクリがあると考えるのが 当然ではないだろうか。これが洞察力であり、それによって偽装そのものを見抜けると は思わないが、少なくとも警戒心をもって色々調べて意思決定をすることはできたであ ろう。昔から“うまい話には落とし穴がある”とか“安もの買いのゼニ失い”などと言 われているが、正にこの洞察力を喚起することわざであり、そのような仕組みのニュー ラルネットを自己組織化しておく必要性を強調したものであると思う次第である。 ではそのようなニューラルネットの自己組織化はどのようにして行うのがよいのであ ろうか。それには洞察力を必要とする問題に何回も挑戦して、それが的中する確率を上 げて、そのようなことに適するニューラルネットを強化すると共に、それを発火させる 勘、これも広い意味での直観であるが、を養うしか方法はないように思われる。最も簡 単には真面目な意味での“なぞ解き”に挑戦するようなものであろう。これについては、 最近見た本(参考文献 36)に次のような問題があったので紹介しよう。 「第34図のような四角形(a)を線のように切り、(b)のような三角形に組み替えると、 (a)では面積が64であったものが(b)では65になる」というものである。この問題は アインシュタインのノートにもあったそうで、洞察力を測る問題として面白いので引用 させて頂いた。
第34図 64=65? このようなことはあり得ないので、どこかに思考の落とし穴がある筈である。これを 見つける能力が洞察力ではないだろうか。どうです。見つけられましたか。 次の創造には2つのケースがあると言われている。一つは「従来は全く無関係と考え られていた要素を結びつけて新しい考えを生む」というものである。他の一つは「従来 は密接な関係があると考えられていたある要素間の関係をそうではないと考えて、新し い関係を考え出す」というものである。 この創造性については一般にトレーニングすることは中々難しいと考えられているが、 創造的な仕事をしておられる人にノーベル賞級の科学者や著名な建築家がおられるので、 参考にすることができる。ノーベル賞級の独創的な研究をされた人や、斬新な建物の設 計やすばらしい新都市計画などに名を連ねられた著名な建築家は、どのようにしてその 才能を育ててこられたのであろうか。例えば私がたまたま、ある講演と対談の会で謦咳 に接した先生に利根川進先生と安藤忠雄先生がおられる。この両先生の創造性について 以下若干調べたことを説明したい。 利根川先生が1987年にノーベル生理学・医学賞を単独受賞された研究は、「抗体の多 様性生成の遺伝学的原理の解明」というものである。この研究は、哺乳動物のような多 細胞生物では、生殖細胞の段階では突然変異などによって遺伝子が組み替わるが、受精 卵ができて後分化・成熟する過程では、DNAは個体の中で一定不変に保たれるという従 来の考え方を覆し、“免疫抗体の遺伝子DNAはつなぎ替えられている”ということを発 見したものである。免疫ができるということは一度ある疾病にかかった人は、普通二度 とその疾病にかからないという現象である。一番よく知られている免疫はハシカに対す るものであろう。ハシカには二度とかからないか、かかっても軽くてすむ。利根川先生 の研究によって、どんな病原菌やウィルスなどの抗原が侵入してきても、それをやっつ ける抗体となるたんぱく質を作る免疫作用の原理が解明された。この創造性に富む研究 がどのようになされたのか、少し長くなるが、利根川先生のノーベル賞に至るまでの研 究の過程を説明しよう。 @ 京都大学 理学部 化学科 生物化学教室 ・分子生物学の特別講義(渡辺格先生)を聴講。(遺伝子について興味をもつ) ・卒業研究発表会ではオペロン説を紹介する。(注:オペロン説とは、遺伝子情報 のうち目的とするたんぱく質に関する部分だけが読み込まれて、目的のたんぱく 質を合成するという学説) A 京都大学 大学院課程 京大ウィルス研究所(半年) ・オペロン説における遺伝子制御機構(遺伝子がたんぱく質の合成を制御する機構) の研究を開始した。 B アメリカ カリフォルニア大学サンディゴ校 留学 (5年間) ・バクテリオファージを使い、分子生物学的に遺伝子制御機構の研究を行う。 (注:バクテリオファージとは細菌に感染するウィルス) C アメリカ カリフォルニア ソーク研究所(1年半) ・ダルベッコ教授のもとで、マウスの細胞、サルの細胞を使い、ガンウィルスで遺 伝子制御機構の研究を行う。そこで、高等生物における遺伝子制御機構と細菌に おけるそれとの違いを勉強した。 D スイス バーゼル 免疫学研究所 (10年間) ・基礎免疫学者として第一人者であり、幅広い考えをもったニールス・ヤーネ所長 のもとで、免疫学の研究に初めて分子生物学の手法を持ち込んで研究を開始した。 それまでの免疫学では色々な抗体が作られる抗体産生多様性ということが永年の 謎であったが、抗体の種類は非常に多く、この問題の研究を難しくしていた。利 根川先生はこの問題に分子生物学の手法で取り組んだが、その過程で何度も何度 も問い直して絶対に間違っていないということを確かめて進んでおられる。しか し、そのためには失敗にめげない精神力が必要であることを強調しておられる。 この間、色々な仮説をたてて実験に取り組み、洞察力を発揮して正しい方向を見 定めながら研究を続けられたが、今までの考え方、“ワン・ジーン、ワン・ポリ ペプチド(1つの遺伝子が1つのたんぱく質の生成情報をになっている)の考え 方”では説明できない現象、免疫細胞でDNAが組み替わらなければ説明できない 現象にぶっかった。これは生殖細胞(受精卵)が分裂してできた体細胞(個体) において遺伝子が組み替わると考えなければ説明できないという今までは考えら れない現象であった。新しい現象が見つかったとしてもそれが真実であることを 確かめられなければ、間違いかも知れない。利根川先生はその時この現象を確か める実験方法が“ひらめいた”とのことである。その実験は、まだ抗体となって いないマウスの胎児の免疫細胞の遺伝子と、ミェローマという骨髄腫に感染して 抗体ができたマウスの免疫細胞の遺伝子を較べて、その違いを確認するものであ った。この実験は非常に難しく、利根川先生の分子生物学で培った実験テクニッ クがなければできないものであった。この発見と実証実験がノーベル賞受賞につ ながったのである。 利根川先生の研究は、以上のように遺伝子制御機構の解明を、細菌に感染するバクテ リオファージから始め、高等生物におけるガンウィルスによるものまで終始一貫して行 い、更に免疫学研究所で免疫の研究に分子生物学の手法を持ち込んで、免疫における遺 伝子制御機構の研究へ進んだ。この間に遺伝子を取り扱う技術に熟練されて、最後に “ひらめき”によって免疫学の難問を解明して、創造性に富んだ“多細胞生物の免疫遺 伝子の多様性生成について新しい遺伝学的原理を発見される”というノーベル賞の受賞 研究にまで至ったのである。このように創造性を発揮するには、長い研鑽と新しい現象 にぶっかったときそれを正確にとらえる能力とその仕組みを考える“ひらめき”がなけ ればならない。 利根川先生の創造性のある科学的研究に対して、安藤先生の創造性のある作品は私と はなじみの少ない建築や芸術の分野のものであり、十分理解した上で説明することは難 しい。それで以下の説明は私が理解したレベルのものであることをお断りしておく。 安藤先生は1970年代からユニークな建築を手がけておられるが、手がけられた建築物 を拝見すると、アイディアの創成について独特のやり方があるように感じられる。 建築物は人が使うための合理性と共に、感覚的に好ましいものでなけねばならないと いう性質がある。建築は莫大な項目の社会の因習と戦い続けることでもあると言われて いるが、そこには社会への配慮や施主の要求など解決すべき問題が多く、建築設計を妥 協の産物へと追い込んでいく。それを乗り越えて創造性を発揮する力は、前提となる諸 条件をきちんと解決する能力と共に、真から建築が好きだという根性だそうである。そ こには建築において魔術を発揮するアイディアが育つらしい。 また、建築は思考や創作に当たって息の長さを求められる仕事であり、建築物の寿命 も長い。そこには歴史に学ぶ所も多く、現在の素材を使い環境に合わせて古くからの伝 統を形にする手法も大切である。これらを含めて自分自身の建築への取り組み方を作り 出すことが、創造性を涵養するポイントのようである。 以上説明してきたような創造性を、ニューラルネットをどのように自己組織化したら よいかということと結びつけることは難しいが、私は洞察力を発揮するニューラルネッ トを深化させて、自己組織化臨界現象である“ひらめき”を導き出す能力に対応したニ ューラルネットを育てることであると思っている。即ち、洞察力を発揮するニューラル ネットが優れていないと創造性は生まれてこないと考えている。この“ひらめき”を生 み出すニューラルネットを自己組織化する具体的な方法は分からないが、そのために “何をなすべきか”は、創造性に富んだ先人の教え、例えば利根川先生や安藤先生の行 き方を参考に修練することであると思っている。 最近高等学校以下に対する学習指導要領によって、詰め込み教育を反省し、ゆとり教 育で創造性の涵養や個性の育成をめざす教育がなされてきた。しかし、記憶力を増強し 基礎を学ぶ教育を割愛した結果、”分数のできない大学生”という言葉で表されるよう な大学生を受け入れなければならない結果を招き、創造性を涵養する教育をするどころ ではない状況を来たしている。これはニューラルネットが複雑適応系であることを無視 した、ニューラルネット全体のレベルアップを考えていない教育の結果であると思う次 第である。 参考Webサイト 1)ベナール型対流 2)BZ反応シミュレーション 3)離散構造のパターンの例 4)安藤忠雄先生の作品例(1) 5)安藤忠雄先生の作品例(2) 参考文献 1)白田耕作、CGへの招待、日本電気文化センター、1989 2)木田重雄、流体方程式の解き方入門、共立出版、2004 3)矢川元基、パソコンで見る流れの科学、講談社、2001 4)増田直紀他、複雑ネットワークの科学、産業図書、2005 5)バラバシ、ボナボー、スケールフリーネットワーク 日経サイエンス383号、 日本経済新聞社、2003.09 6)ダンカン・ワッツ著、辻竜平他訳、スモールワールド・ネットワーク、 阪急コミュニケーションズ、2005 7)マーク・ブキャナン著、阪本芳久訳、複雑な世界・単純な法則、草思社、2005 8)アルバート=ラズロ・バラバシ著、青木薫訳、新ネットワーク思考、NHK出版、2005 9)スティーヴン・ストロガッツ著、藤本由紀監修、長尾力訳、SYNC、早川書房、2005 10)鹿児島誠一、振動・波動入門、サイエンス社、2000 11)Stern,K. and McClintok,M.K. (1998) Nature 392,177-179 12)中易秀敏、坪野博宣他、情報科学−ヒューマン編、共立出版、2004 13)小寺平治、なっとくする微分方程式、講談社、2004 14)吉田善章、非線形科学入門、岩波書店、1998 15)ジェィムス・グリック著、大貫昌子訳、カオス、新潮社、1992 16)ミッチェル・ワールドロップ著、田中三彦、遠山峻征訳、複雑系、新潮社、1996 17)井庭崇他、複雑系入門、NTT出版、1998 18)上田皖亮他、複雑系を超えて、筑摩書房、1999 19)山口昌哉、カオス入門、朝倉書店、1998 20)高安秀樹、フラクタル、朝倉書店、1996 21)武者利光、ゆらぎの世界、講談社、1994 22)高安秀樹、経済・情報・生命の臨界ゆらぎ、ダイヤモンド社、2000 23)都甲潔他、自己組織化とは何か、講談社、1999 24)山本光璋、鷹野致和編、ゆらぎの科学と技術、東北大学出版会、2004 25)吉田善章、集団現象の数理、岩波書店、1995 26)プリゴジン、スタンジュール著、伏見康治他訳、混沌からの秩序、みすず書房、1997 27)プリゴジン、コンデプティ著、妹尾学、岩元和敏訳、現代熱力学 熱機関から離散構造へ、朝倉書店、2001 28)スチュアート・カウフマン著、米沢富美子監訳、自己組織化と進化の論理、 日本経済新聞社、1999 29)エベレット著、関集三監訳、橘高茂治他訳、コロイド科学の基礎、化学同人、1992 30)金子邦彦、生命とは何か 複雑系生命論序説、東京大学出版会、2003 31)リタ・カーター著、藤井留美訳、養老猛司監修、脳と心の地形図、原書房、2002 32)石浦章一、脳と心のからくり 東京大学 超人気講義録、羊土社、2005 33)柳沢桂子、脳が考える脳、講談社、1995 34)生田哲、脳の健康、講談社、2002 35)安藤晴彦、知能とは何か、講談社、1987 36)植島啓司、「頭がよい」って何だろう、集英社、2003 37)F.フェスター著、田多井吉之介訳、考える・学ぶ・記憶する、講談社、1985 38)池谷裕二、記憶力を強くする、講談社、2003 39)芳沢光雄、数学的思考法、講談社、2005 40)茂木健一郎他、脳とコンピュータの違い、講談社、2003 41)立花隆、利根川進、精神と物質、文芸春秋、1991 42)松葉一清、ANDO 安藤忠雄・建築家の発想と仕事、講談社、2003 43)中島秀人、日本の科学/技術はどこへいくか、岩波書店、2006 「情報科学のあれこれ」のトップページへ 坪野あてのメールはこちらへ