箱の中の愛 純潔






第十章
「報われない魂たち」






この世にこんな悲しいことがあるのだろうか。
なんということだろう。
なんという悲しみだろう。
亡くなってしまった。
五つ子たちは。

兄があんなに懸命に看病したのに。
綿に人肌の牛乳をしみこませて飲ませてあげたのに。一匹一匹。
動物病院に連れていったら何とかなったかもしれない。
だが、母子家庭のわたしたちの家にそんな余裕はなかった。
人間も病院に行くのがためらわれたくらいだったから。

四十歳のリナは、広い庭を散歩しながら想い出にふけっていた。
最近では、それがリナの日課になっていた。
半袖のセーターを着て、みぞれが降り出しそうな怪しい雲行きのもと。いつものように一人で。
今年四十のリナは、その美しさに落ち着きが出てきて、
ちょうどいいくらいの美しさになっていた。
リナ特有のダイヤモンドのようなぎらつき感がそげ落ちて。

長い間リナは、自分の美しさを恥ずかしいものと思ってきた。
今リナには、神がかりな美しさがあった。
いやしい育ちとは想像もつかない一種独特の気品がそなわっていた。

半袖の薄紫のカシミヤセーターは、華奢なリナに似合っていた。
リナは、薄紫の似合う数少ない女性だった。
こんな寒空に外に出たのは、猫の子を探していた兄の苦しみを感じたかったから。
兄を演じることで、兄を身近に感じたかったから。
北風がリナのスカートをまくし上げた。

今、リナは未亡人のような気楽さがあった。
歳の離れた夫は病院で伏せったままになっている。
気楽ではあるが、夫が亡くなれば、また一人になるだろう。
いつものように楡の老木のところまで来ていた。
楡の老木を抱きしめた。想い出を抱きしめるように。亡くなった子猫たちを抱きしめるように。
報われない魂たちを。

大好きだったよ。兄さん。
いつも好きだった・・

口に出してつぶやいた。
父親の顔など忘れた。継母の顔も。母親の顔も忘れた。
誰のことも忘れたが、兄のことだけは忘れなかった。
あんな悲惨な想い出があってさえ。


雪を踏むような草を踏むような乾いた音がしたかと思うと、
「母さん、またこんなところに」

息子が立っていた。
リナは老木から右手を離して、息子の顔をさわった。
息子の顔の中から兄の面影を見つけだそうとして。
しかし、そこには自分の子どものころの繊細な表情があるだけだった。
ああ、という小さな失望を感じて終わる。いつも。

「母さん、帰ろうよ。期末テスト良かったんだ。オール満点に近い」

リナはやっと忘我の境から抜け出たように「そう、よかったわね」と言った。
息子の腕を取って家路に向かう。
中学一年の息子は、もうリナくらいの背丈があった。
美しい親子だった。一幅の絵のようだった。
リナの耳に母親の決まり切った文句が聞こえてきた。
“京都大学法学部へ行きなさい”

そんなこと言えるはずない。わたしは言えない。かわいい子に。
わたしは、客観的なものの見方しかできない。
わ・た・し・は・あ・な・た・と・は・違・う。


わたしの心も浸食されているのかもしれない。
わたしにも兄と同じ狂的な血が流れている。
何代も続いた先祖の血が。
息子が成人するまで持ちこたえたいものだ。

仲の良すぎるリナと息子の姿を見かけた近所の者たちは、
あやしげな親子とみだらな憶測を流した。









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