箱の中の愛 純潔






第十一章
「四年三ケ月」






あの強姦未遂事件があってからの四年三ケ月という年月は、
リナにとって地獄そのものだった。
いつレイプされるかと怯え続けた四年三ケ月。
地獄の四年三ケ月。
やはりこれも経験した者にしかわからない苦しみだろう。


リナは今、中学三年生。
リナのセーラー服姿は、この世のものとも思えない可憐な姿を
呈していた。
美少女の典型に生まれて、この世界のうるわしさの粋がそこにはあった。
揚羽蝶がさなぎからふ化する寸前さながらの、そんな息をのむ美しさ。
美しさがすごみを増そうとしていた。

セーラー服を着るのも今日が最後。
今日は中学の卒業式。
来月から隣接する公立高校へ進むことになっていて、高校はブレザー着用だった。
同級生の女の子たちは、蛍の光にむせていた。
リナには何の感情もなかった。
いつもそうだが、何が悲しいのか、何がうれしいのか全くわからなかった。
何の感情もないのに、感情がある振りをしなければならないという事実があるだけだった。

リナは、家では、部屋の片隅に膝をかかえてうずくまる女の子。
その華奢な白い腕で。
その可憐さ、愛らしさを見せてあげたい、たくさんの人たちに、と
少年は思った。
リナの美しさは、夜空にまたたく北斗七星を数倍集めたって敵わない。
その気品、きらめき、清浄さ、おとぎの国の王女様のようなフェミニンさ、
どれをとってもリナに勝る者はない。
少年は、美しい賢明な妹が自慢だった。

少年は、学業不振から進学校をあきらめて、入りやすい私学の高校へ通っていた。
母親は、日々、高い学費を払っているとぼやいていた。


リナが卒業証書とアルバムを持って家へ帰ると、
兄と母親がうれしそうにぺちゃくちゃ話していた。
息子と母は、いつも仲が良く、おしゃべりに興じている。
四年三ケ月前から、リナはこの家の家政婦でしかなかった。
リナと話してくれる者はいない。よけ者の存在。浮いた存在。
リナは学校から帰ると裏のサッシのある小さな縁側で着替えをした。
今日もいつもどおり着替えをしていると、
ふだんはBGMのように流れていく二人の会話がなぜか耳についた。

「シュウちゃんは、やっと来年大学ね。大学に入ってもお母さんまだ三十七歳よ。
若くして子どもを生んでるからね。
京都大学でなくてもいいから法学部へ行きなさいね。
法律関係の職についてほしいから。
弁護士とか検事とか警察関係に。
大学に入ったらシュウちゃんの勉強手伝ってあげるよ。レポートとかね」

母は、あいかわらず一方的に話を進めていた。
兄シュウは、言葉に詰まった。
大学に入れる自信は全くなかった。
それ以前に受験勉強する気力がなかった。全面的に学校の勉強に敗北していたから。
だが、母がこんなに一生懸命で、自分の進学だけを楽しみにしているのに・・。

兄は、大学に入ったのちのことも心配してもらえるんだ。男の子だから。
母親が息子の大学進学のためにせっせと貯金に励んでいることを
リナは知っていた。
娘のためには何一つしたくないが、息子には全身全霊かけているようだ。
四年三ケ月、娘は地獄の責め苦の中にいたにもかかわらず。
思春期の女の子たちが恋心などで時めいているときに、
わたしに与えられていたのは地獄だけだった。
まるで自分だけ苦しむのが当たり前みたいに周囲の笑顔は通り過ぎていき、
自分だけ取り残されるのが当たり前のごとく華やかな中学生活も終わった。
母親は、一度として娘に情けをかけたことはなかった。
娘に投げつけた言葉、それはこんなものでしかなかった。
「あんたはいいわね。子どもはいいわ。何も考えなくていいから。
お母さんは生活費のことを常に考えている」

世の中なんて不公平だと知っているけれども、不公平って悲しい。
同じ母親、父親から生まれたきょうだいだというのに、
なんという扱われ方の違いだろう。

むしょうにさみしくなり、むしょうにむなしくなり、
心とは裏腹の春の暖かな陽射しが恨めしかった。
どうしようもなく悲しくなった。
悲しくて悲しくてやり場のないくしゃくしゃした気持ちに押しひしがれた。


リナは、一人で悩んできた。
問題は強姦未遂じゃない。強姦未遂なんて変態の行為。わたしの知ったことじゃない。
あの事件がなかったら・・あの捨て猫の・・。
現実はいつも残酷だったが、リナは現実から目をそらしたことは一度もなかった。
現実から目をそらすことは負け犬を意味していたから。
この世には勝者と敗者しかいない。
それなら、わたしが勝者になってやろう。このリナという女は、勝者であるべきなのだ。勝者にふさわしい。
負け犬の体(てい)を世間にさらして生きていくくらいなら自殺するわ、と思った。
兄のように白昼夢にひたって自己満足であきらめるくらいなら。

二年前の捨て猫事件があってから、リナの中で大きな葛藤が頭をもたげ、
リナはそれを振り払うことができない。苦しみ責めさいなまれ続けた。
もう何が正しいのかわからない。
ずっと弱肉強食が正しいと信じてきたのに。
信じていた時期がなつかしい。どんなに楽だったことか。



何かが、誰かがと言ったほうがふさわしいかもしれないが、
リナの耳に吹きかけるものがあった。春の暖かな陽射しの中から、何者かがリナに吹きかけた。
リナの耳を通じて内部へ入っていった。

瞬時にしてリナの本来の性質が、むくむくと頭角しはじめた。
この上もなく性悪の品性が。
可憐な外観からは想像もつかない極めて醜悪な品性が。
全身に力がみなぎってきた。リナは感じた、底から湧き出てくるパワーを。
サタン、ルシファーが憑依したかのように。

世の中なんて理不尽なもの。
そうよ。きれい事はいくらでも言えるわ。
けれどね、結局この世なんてものは、お金を持った者が勝つのよ。
母が常日頃から言っていること。
勝者か敗者しかいないのよ。
この世は弱肉強食だから。

自分を愛してくれなかった者になど、義理立てする必要ってないのよ。

生まれてから十五年九ケ月というもの、わたしの人生なんて魔窟だったわ。
氷の魔窟だった。
両親にも愛されなければ継母にも愛されない。厄介者の存在。
厄介者は厄介者らしく振る舞うのもいいでしょう。
もうたくさん。こんな生活。
高校になど行きたくない。
行けば三年間の牢獄生活があるだけだ。
生きるためだけに母親の暴力と監視に怯え、兄の不審な行動に怯え、家政婦のように何の自由もない。
もうこんな生活は、たくさんなのよ!
たくさんなのよ!

このままこんなところにいたら、わたしは本当に気が変になってしまうわ。

ルシファーの啓示を聞いたように一人つぶやいた。
「兄の大学資金。そのお金をリナがいただこう」










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