箱の中の愛 純潔






第十二章
「翼」






卒業式から一週間後の金曜日のこと。
リナが出掛けようとすると、母親が仕事を早引きして帰ってきた。
苦しげな表情。
母親がリナに言った。
「リナ、水ちょうだい。風邪を引いたみたい。頭が割れるように痛い」

リナは、知らんぷりして赤のスポーツバッグをつかんだ。
覚悟を決めたリナに動揺はなかった。
リナは、一張羅の白いワンピースを着ている。
「あんた、どこかへ行くの?」

母の言葉に気づかないふりをしていると
「水ちょうだい。リナ」

リナは、最後の憐れみとばかりに流しの蛇口をひねって
水をくんであげた。
「あんた、どこかへ行くの?」

リナは、やっと重い口を開けた。冷ややかに言い放った。
「見ればわかるでしょ」
「どこへ行く気?」
「白亜の豪邸」
「あんた、気でも違ったの?」
「かもね」

娘の尋常でない様子を察した母親は、
あわてて押し入れの下にしまってある通帳を取り出した。
残額がゼロになっていた。母親は顔面蒼白になった。
どもりながら「な、なんなのこれ?あんたなの?」

リナは、すましこんで
「そうよ」

「何をしようって言うの?」
「星を買うの。自分にふさわしい星を」
「お金返して。あのお金はシュウちゃんの大切な大学資金って知ってるでしょ?」
「慰謝料としてもらっとくわ。今まで虐待され続けた」

母親は殺気だって、大金が入っていると思われるスポーツバッグを引ったくろうとした。
リナは、機敏にかわして母親をテレビの方へ蹴つまずくようにした。
母親は起きあがってヒステリーを起こした。
殴りかかろうとした。
「よこしなさいよ!なめた真似するんじゃないよ!」
リナの胸ぐらをつかんだ。
リナは、利き腕で思いっきり平手打ちした。
十五歳になった娘に殴られて、母親はよろっとした。

「親に手を挙げるなんて・・なんて娘なの・・」
母親は驚愕していた。
リナは、これ以上の憎しみはないと言わんばかりに
「あんたは親なんかじゃない。あんたは、わたしを捨てたのよ。わたしが四歳の時に」
母親の娘を見る目も憎しみでいっぱいだった。
憎しみと愛情の入り交じった殺気だったまなこで見ていた。
この世の中に実の娘に対して、これほどまでの憎しみと軽蔑があるだろうかと思われるものがあった。

「親に何てこと言うの・・。あんたは人間じゃない。悪魔よ。こんな子、生んだ覚えないわ」
「覚えがなくてもいいよ、出て行くから」
「下品な父親そっくりの性質が、その顔に宿っているよ。
おきれいな顔立ちして、美人だとすましこんでても品性まで隠せやしない。
あんたは、あの父親の子だよ。シュウちゃんは、お母さんの子。
あんたは父親の悪魔の血を受け継いでいるのよ」

リナは返す刀で詰め寄ると
「あんたは何なの?ええ?何なの?
親の勧めでつまんない男と結婚して、つまんない結婚生活しか送れなかった女じゃない。
落伍者じゃない。わたしは違うわ。わたしは素晴らしい結婚生活を送ってみせるわ。
幸いにも天から美しい容姿を与えられている。それを存分に利用してね」

「お金を返せ!人でなし!」
母親が娘に突進してきた。娘は親を突き飛ばした。
母は再度テレビの方へ倒され、頭を打って脳震盪を起こして起きあがれなくなった。
そのすきに玄関へと向かうリナ。
一度振り返って少し母を思いやった。
しかし、決心は変わらなかった。



玄関のドアを開けると、帰宅した兄と目があった。

兄シュウは、リナのすわった目を見て背筋が寒くなった。
時間が止まった。短い時間ではあったが永遠がそこにはあった。

二人は見つめ合ったまま立ちつくしていた。
リナの目を見た兄は、胸が苦しくなった。
それは驚きであり同時に悲しく、すべてを見通すことができた。
兄貴である自分にだけは。
世間のきょうだいたちより、比類なく絆の深い二人だったから。
リナの赤のスポーツバッグを見て、来る時が来たんだと悟った。
リナがこの家から出たがっていることは感じていた。
自分のせいなんだ。
すべて僕のせいだ。

リナも大きくなった。もうかわいい少女でないのかもしれない。
いつまでも僕の美少女でいられないだろう。
少女を否応なしに女性へと駆り立てる潮流があり、今リナはそれに呑み込まれようとしてるんだ。
いや、違う。
リナは自ら、一艘の小舟で漕ぎだしたのだ。人生の大海へ。
自立と自由の境地を目指して。大人の女性になるために。
しかし、そこは、先祖達の血が流れつく海だった。
血色をした海だった。
リナの茶色の瞳。なんという美しく悲しい色をしているのだろう。
リナの瞳に狂気が見える。狂気。先祖達の狂気が。
血の海は、先祖達のペシミスティック(厭世)な精神が宿っている。
大轟音を立てながら自己破壊へ突進していく輪が見える。
輪は、崖っぷちへ突進していき、真っ逆さまに海へ堕ちる。

リナの茶色の瞳。なんという美しく悲しい色をしているのだろう。
兄は、今までになく、今まで以上に瞳が美しいと思った。
ああ、そうだったのか。今やっと気づいた。
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。不覚だ。
リナのことは何でも知っていると自負していたのに。
リナのその茶色の瞳の奥には、母親がいた。
外観こそ父親そっくりの彼女だが、心は母親のそれを受け継いだのだ。
貞操の堅い、簡単にはひるがえらない性質があった。
昔気質で、癇性持ちで完全主義で努力家で、高尚で誇り高い女性。
いつも現実的で、智力に優れ、意志強固な人。
つつましい古風な女性の姿があった。
つらい状況の中で十五年九ケ月を生きてきた一人の女性が目の前にいた。

リナと母親。二人のつつましい女性を不幸にしたのは、父親であり僕だろう。

リナ、行けよ。
永遠に愛してるよ。
兄貴として餞別の一つも出してあげれないけれど。
言葉もかけてあげれない。ふがいない兄貴だ。
だが、愛してるよ。この世でたった一人しかいないきょうだい。
さようなら、僕のリナ。
かわいい妹。

リナの額に口づけしたかった。
それは四年前の欲望から湧き起こったエゴではなく、美しい感情だった。
人間同士の愛情から生まれた尊厳に満ちた衝動だった。
だが、口づけなんてできるはずもない。実の妹だから。




リナも同じだった。
兄の目を見たとき心が泣いた。
一時期の間違いはあったが、いつもやさしかったお兄さん。
いつも守ってくれたお兄さん。
わたしにマンガを教えてくれたお兄さん。
大好きだったお兄さん。
さようなら。



リナは、一瞬顔を伏せて兄の前を素通りしていった。
振り返らなかった。
しかし、一筋の涙がながれた。
心につぶやいた。
恨んでないよ、兄さん。




母親がようやく起きあがることができて、息子の姿を見つけると
「その子をとめて!出ていく気なの!」

息子は、リナの後ろ姿を見つめていた。瞳孔に焼き付けるべく。見守るように。
母親は、狂ったように裸足で追いかけようとした。
シュウは母の太い体をかかえて引き止めようとした。
「行かせてあげようよ。リナは、もう決めたんだよ。目を見ただろ。
リナは、いつまでもこんなところにいれる子じゃないんだよ。
特別に頭のいい子なんだよ。勝ち馬なんだよ。
僕らとは違うんだよ」

シュウは、近所の目があるから
みっともないといったふうに母をかかえて家の中へ入ろうとした。無理矢理に。
母は、子どものように手足をばたばたさせ、泣きじゃくりながら
「あの子は、まだほんの十五歳よ。十五歳の娘なのよ。わたしの娘なのよ」

シュウは慰めるように
「リナは勝ち馬だ。僕らとは違う」










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