箱の中の愛 純潔






第二章
「やさしいお兄さん」






お母さんは、リナに冷たかった。
お母さんとお兄さんが住んでいるアパートに着いて間もなくはやさしかったが、
二、三日もするとリナが腹立たしくなってきた。

リナがなにをするでもなかったが、
腹立たしかった。

リナは、兄とは対照的に利発で気がきく。
大人の顔色をうかがう子どもらしくない態度。
それは充分に母親を苛立たせたが、何よりも
本人が意識しているとは思えない、あの媚態、
大人の男性の注意をひく何とも言えない色気が我慢ならなかった。
この子は恐ろしい。三つ、四つの時からしなを作るところがあった。
今でこれだったら大人になったらどんな娘になるだろう。
今のうちに矯正させて服従させなければならない。親として。

ことあるごとにリナを殴った。
部屋の掃除の仕方が悪いとか、食べ方が悪いとか、歩き方が乱暴だとか、
お風呂の湯加減が悪いとか、テレビのボリュームを上げすぎているとか。
リナは、ただ怖かった。お母さんは継母より怖い。

無理もなかった。
女手一つで子どもを育てるのはたいへんなことだから。
リナの母親のように離婚を拒否して、国の保護を受けずに
女手一つで子供を育てていくのはそれはそれはたいへんなことだった。
母親は朝は新聞配達、昼間は保険の外交、夜は内職をして生計を支えていた。
別居する時の条件であった養育費を一円も渡されたことはなかった。

養育費を渡すどころか自分の都合で娘まで押しつけて来た。
リナの母親は意地でも離婚するものかと決心していた。
離婚するくらいなら、子どもたちを道連れに死のう。

今でも女性が離婚するのはたいへんなことだが、その当時、女性が離婚するとは
世間の嘲笑の対象になる覚悟がなければできなかった。
離婚女性にたいして世間がとった態度は親切とはほど遠いものだった。
「あの女は悪魔に魂を売り渡した」と言わんばかりの風潮。
男性のほうに離婚原因があっても世間の人たちは女性のほうをなじった。
男に捨てられるような落ち度のある女、男に浮気されるような女。
国の保護を受けようものなら何を言われるかわからない。
母子手当を受けている恥知らずな親子。

母親は疲れていた。
夫を憎悪し、世間を憎悪していた。
憎悪が娘に対する暴力となってはけ口を見いだしていた。
母親自身は娘を虐待しているつもりはないのだが、疲れているせいで理性を統制できなかった。

リナのほうは、お母さんに嫌われていると心で泣いた。
《顔がお父さんにそっくりだから、だからわたしが憎いんだわ》

リナ以上に心を痛めている者がいた。
少年は、自分の母親が妹に暴力を振るうのを見ていられなかった。
その理由が道理に合わないものだったから。
一層リナが不憫に感じられて、やがてリナをかばうようになった。

ある日の夕方、母親が帰宅するといつものように立腹した。
「リナ!食事の支度さえすれば、わたしの用事は済んだと思ってるの!」
そう言って平手打ちした。人一倍体の大きな母親のこと、リナは飛ばされた。
兄が駆けつけて来てリナに覆いかぶさった。
「リナは部屋の掃除もしたし洗い物もしたよ」

最愛の息子に言われて反論できない母親は黙るしかなかった。

リナは思った。
やさしいお兄さんだ。
前に押入からお兄さんが小学生の時に書いた作文を発見したけど、
そこに「世界一やさしいお母さん」と書いてあった。
「お母さんをしあわせにしてあげたい」とも書かれていた。
どこが世界一やさしいお母さんなんだろう。
鬼母そのものなのに。

リナは家で何かをするのが嫌いな子でマンガにまったく興味はなかったが、
兄がマンガ少年だったのでリナも次第にマンガをかくようになった。
兄が毎日かいているギャグマンガをノートにかくようになっていった。
何でも少年の真似をして四コママンガをかいたりした。
のみ込みの早いリナは兄より上手で面白かった。
二人で発表し合っては楽しんだ。

兄の名前はシュウと言った。

母親は、最愛の息子を取られたみたいでさみしかった。









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