箱の中の愛 純潔






第四章
「僕は悪くない」






かわいいリナ。愛しいリナ。僕のリナ。
冬の陽炎のようにけがれない近寄りがたい、うっとりさせる横顔。
美少女の模範。


少年は百回二百回、同じ夢想にふけった。
学校で上の空の授業を聴いている時、校庭で一人ぼんやりしてる時、登下校時。
学習塾に行ってる時。
青い草原にリナを抱きしめ転げ回るシーン。
それが頭から離れなかった。

リナの十字架になりたい。そう思った。
リナはクリスチャンではないが、実のお母さんに買ってもらった子ども用の十字を
いつも首にぶらさげていた。
皮膚の薄い彼女は、首に当たる部分がうっすらと赤ばんでいた。

いつの間にか、実の妹にたいする背徳感はどこかへいっていた。
兄妹同士が結婚できないという慣習が間違っている、そう思うまでになっていた。
誰でも自分の考えが一番正しいと思っているが、たいていは世間との折り合い、
保護者との折り合い、自分の能力との折り合いをつけて
引いて思考をめぐらすときがあるものだ。
この少年は違っていた。

この少年にとっては、家庭や学校で学ぶことは何一つない。
初めての子どもとして大切に育てられ、母親はなぜか息子のご機嫌取りをしてきた。
母親というより息子の下僕という感じだった。
夫に対する復讐心があって、将来、息子に頼って生きていきたいという思い入れから
母親として浅ましい行動をとらせていた。
そんな少年は、自分を省みるという法を知らない。
勉強ができないことも“人間を勉強という一面で評価するのはおかしい”と本気で思っていた。
“いくら勉強ができたって人間として失格者なら意味ない”
この世の中には、勉強ができないし人間としても失格の人間もいるということに
考えが及ばなかった。

妹が優秀で劣等感を呼び起こす種になっていることも
“妹のほうが成績をさげるべきだ。自分は兄貴なんだから、
 自分より低い成績に甘んじるのが当然”

こんな調子だから、自分がえがく自分と実際の自分がおそろしく乖離していることに
気づくはずもない。
それは本当に恐ろしいことだ。
歯止めとなるものが何一つなく、自己正当化だけが肥大していくという現象は。
少年の論法では、妹に対するレイプはおろか、殺人まで正当化されかねないのだから。

リナとて同じだった。
三つ四つの時から大人の顔色をうかがう生活を強いられてきた彼女は、
人間としての何かが抜け落ちていた。
日だまりであるはずの家庭は、憎悪と暴力と醜い情念にすさみきっていて、
外の世界よりも恐ろしく、だらしなく悪臭を放つ空間でしかなかった。
ただ、リナと少年の違いは、自分を省みることはないにしても
リナはこうしたら得する、こうしたら損するという認識があった。
損することはけしてしようとしなかった。
それがリナを狂気から救ってくれた唯一のものだったのかもしれない。

リナが結婚して子どもを生んだら自分のことを忘れるというのは、
少年の思いすごしに他ならなかった。
リナは今年四十になる。
既婚者で子どももいる。
しかし、少年のことを忘れた日はなかった。

リナは想い出す。あの日のことを───
想い出すのもつらいこと。
母親がいない日を狙ったかのように、母親が会社の慰安旅行で留守にした日。
リナはいつものようにお兄さんの横に布団を引いて寝た。
夜中と思う。口に手がのせられ呼吸がさまたげられた。それで目が覚めた。
小さいアパートのこと、声を立てられるとまずいと思ったのだろう。
パジャマを引きちぎらんとする力を感じた。
リナは何をされるか直感した。
本能的にわかった。
唯一信じていたお兄さんに裏切られたショックを感じる暇もなく、
逃げること、ただ逃げることが頭をいっぱいにした。
少年の力はすごかった。抗しがたかった。
リナは口をふさいでる手の小指を噛んだ。思いっきり。
少年はつんざくような悲鳴をあげてのけぞった。

そのすきにリナは裸足のまま外へ。
真冬の夜の町へ。
パピヨンみたいに一目散に夜のとばりを通り抜けて行った。

残された少年は、血をしたたらせている右手小指の痛みに
自分のした罪の深さをようやく悟った。
リナを案じるように小指をいたわっていた。
永遠に妹を失ったんだと理解した。
なんということをしてしまったんだろう・・
とうとう、ぐすんぐすん泣き出した。









シャガール ホーム シャガール目次