箱の中の愛 純潔






第五章
「夜のとばり」






一キロくらい走ってバイパス沿いの道に出た。
若い男性が道の向こうから声を掛けてきた。
「こんな時間になにしてるの?お嬢ちゃん」

リナは我に返った。
この真冬の寒空の中、こんな夜中に、たぶん十時頃にはなっていたろう。
裸足の少女がパジャマ姿で、変に決まってる。
男性は親切で声を掛けたのだが、可哀想なことに、
このときのリナは男性不信の固まりみたいな状態にあって、
男性を見ればみんな自分に下心を持ってると感じた。

幼いときから沢山の男達が、彼女を意味深な目で見てきた。
汚らしい欲望を宿した目であることを本能で感じ取ってきたリナは、
男性に対して悪い先入観というのができあがっていた。
そして、この期に及んでお兄さんに裏切られた。
もう男なんて信じるものか。そう思った。

男性が迫ってきそうに思えてリナはまた走った。
彼女は青ざめ、焦燥感そのままの顔、出で立ち。
男性はリナを狂った少女と思ったに違いない。

しかし、どこへ行けばいいのだろう。行くところなんてない。
あまりの寒さに手足の感覚がなかった。
北風が唸っていた。
容赦なく、一人ぼっちのリナにたたきつけるように、追い打ちをかけるように。
北風が、リナの全身のぬくもりを吸い取ろうとしていた。

リナは北風にいじめられてるように感じた。
“死に神様、北風は。死に神様、北風は。”
ほんとうは泣きたかった。何もかも忘れて、意識がなくなるまで泣きたかった。
でも、できなかった。
それは一人ぼっちだったからじゃなく、あまりの寒さで涙腺が凍り付いていたからじゃなく、
これは経験した者にしかわからない。この苦しみは表現できない。
ああ、ほんとうにこんな苦しみは経験した者にしかわからないのだ。

このままじゃ凍えてしまう。
風をよけれる場所を探さなくては。リナは走った。何十分走ったかわからない。
力の限り走ったところで、石屋があって、大石をたくさん積んだ場所が見えた。
リナは辺りを見回し、誰も見ていないことを確認すると石の上へ登っていった。
大石と大石の間に穴があった。ちょうど少女が一人入れるくらいの。
リナは中へ入った。お母さんの胎内へ入っていくように。

リナは小さくなって凍える体をさすった。
これが生きている人間の体だろうかと思えるほど、温かみというものがなかった。
この体を温めてくれる家庭というものが自分にはない。そう感じた。
そして、まだ自力では自分を温めることができないの。何の力もないから。

ぼんやりと遠くの方で赤い灯りが見えた。ちらちら見えた。
そうだ、クリスマスが近づいてるんだ、忘れてた。
ちらちらとした灯りに混じって、ちらちら雪も舞ってきた。
あまりの寒さに頭がきりきり痛み出していた。思考が麻痺していくのが感じられた。
どこともなしにマッチ売りの少女の情景が想い出されてきた。
少女のマッチがあればいいのに。あればいいのに。
少女のようにわたしも凍えて死んでしまうんだろうか。
死んでも仕方ない。だって、誰にも愛されたことないもの。
生まれてきて、お母さんにも愛されなかったもの。
わたしを造った人にも愛されなかったんだから、初めからなかったも同じ。
11年も生きてしまった・・



リナは疲れて眠りについた。
どれくらい時間が経っただろう、リナを揺り起こすものがあった。
この世の中に生まれてきたのはわたしの責任じゃない。
それなのにさも責任であるかのようにいつも苦しめる人がいた。
それが両親であったり、継母であったり、変質者であったり、お兄さんであったり。
彼らはわたしより力を持ってるから苦しめることができたのだ。
わたしに力があればどうだろう。人を苦しめたいなんて思わない。
でも、彼らと無関係の生活ができるはず。
わたしに力があれば、もう誰の顔色をうかがうこともないのだ。自由なんだ。

急に頭がはっきりしてきた。

力ってなんだろう?
お金と腕力。
腕力の方は女であるから得られない。
お母さんが「この世の中はお金」と言っていた。
お金さえあればほとんどのものは手に入ると言っていた。
わたしは大金を手にすることができるだろうか。
お母さんが、今は女性も大学を出て立派な職業につけると言っていた。
立派な職業についたら相応のお金も入ってくると言っていた。

「京都大学法学部へ行きなさい」
これはお母さんがお兄さんにいつも言ってる言葉。
京都大学の法学部へ入ったら立派な職業につけるんでしょう。
わたしは頑張ったら行けるだろうか。
いくら志しがあっても実効性がなければなんにもならない。
実効性はあるだろうか。
ああ!寒くて頭が回らない。冷静になって考えなきゃ。実効性はあるだろうか。
ああ、なんて悪い頭なの。実効性があるかないかが重要なのよ!
悪い頭をフル回転させて考えるのよ!

実効性のことを考えていると、彼女の中で怒りがふつふつと沸きあがってきた。
自分を踏みつけて来た者たち。虫けら以下の者たち。
彼らの毒牙にかかって泣くだけの人間で終わりはしない。
いづれ力をつけて家を出ていこう。
いづれ立派な邸宅に住んでみせよう。
使用人が何人もいる白亜の豪邸に住んでみせよう。
わたしに言い寄ってくる男たちを利用すれば叶うかもしれない。
くだらない、汚らしい、お金があるだけが取り柄のような男たちを利用すれば・・
どんな汚い手を使っても、のし上がってみせます!



リナは自分で自分を揺り起こしたのだった。
岩の間から出る決心をした。
かじかんだ手足では、外に出るのは容易ではなかった。
なんど挑戦してもうまくいかず、本当に涙が溢れてきた。
もう一度挑戦。
やっと石上に登れた。
さしあたっては、泊めてくれる家を探す必要があった。
凍死するわけにいかないから。
クラスの一番仲のいい子の家に泊めてもらうしかなかった。
その子は、お世辞にもかわいいと言えず勉強もさえない子で、リナは軽蔑していた。
そんな子の家に泊めてもらうのは屈辱的だが、今はそんなことを言ってる場合でない。

その子の家は団地の三階で両親と三人で住んでいた。
リナがドアをたたくとお父さんが出てきた。
「リナちゃん」と言って黙った。
身なりから訳ありげだと感じ、眉をひそめた。
「どうしたの、こんな時間に」
リナは、おずおずと「お母さんが会社の旅行に行ってるの」
体の震えはすごかった。友達のお父さんは、とりあえず今日は泊まりなさいと中へ入れてくれた。
友達も喜んでいた。
温かい食事も出してくれた。お風呂にも入った。

その子は実は、夫婦のほんとうの子どもではなかった。
そのことをリナは自分のお母さんから聴いて知っていた。
その子の実の両親は、その子が赤ちゃんの時に交通事故で亡くなっていて、
叔父夫婦である今の両親に引き取られたのだった。
でも、ほんとうの親子以上に仲睦まじかった。
子どもが友達に話しかけるように気楽に会話していた。

こんな家庭もあるのか。そう思った。
そんな家庭の雰囲気を知らなかっただけに、筆舌に尽くしがたい苦しみと言うか、
さびしさというか、胸をしめつけてくるものがあった。

リナは、やっぱり普通の少女だった。家庭のぬくもりがほしかった。
友達と一緒の布団に寝てる時、冷たい涙を流した。










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