箱の中の愛 純潔






第七章
「糸つむぎ」






「王女は十五歳になると、糸つむに手を刺され、そのまま倒れて死ぬだろう」

老いた仙女役のかわいい明るい声が響いた。
放課後、教室の一室で学芸会の稽古がおこなわれていた。
クリスマスに発表するためのもので、何度となく繰り返された稽古に
生徒たちはだらけ気味だった。
主役はリナ。毎年、一番美しい少女が主役をすることになっていたから。
老いた仙女役がリナの一番仲のいい友だち。

リナの一番仲のいい友だちは、自分の役に満足していた。
彼女は、お人好しでいつもはつらつとしていた。
この中で元気なのは彼女だけだった。

リナは、いつもぱっと華やかなものに心奪われる娘だったから、
人にちやほやされるのが好きだった。
けれども、もうそのことにも興味がもてない。
自分の中で大きな何かが変わったことを感じた。

リナにとっては学校は収容所だった。
子どもたちは、リナにはぜんぜん面白くないことでいつも笑ってる。
笑い袋みたいに。
リナは、ただ面白いふりをするだけ。作り笑いしか知らない。
担任の先生くらいの頭の働きがある彼女には、
学校は退屈な収容所という空間だった。

なぜだかわからないけれども、リナは血の気が引いていくのを感じた。
老いた仙女の糸つむに刺され死ぬだろうという言葉を聴いた時。
どういうわけか、どんぐりの実を連想した。

どんぐり・・どんぐり。

お嬢ちゃん、おじさんとこの庭でどんぐりを拾ったらいいよ。
たくさんあるからね。どんぐり好きだろう?
うん。四歳のリナがうなづく。
洋風の古い庭に通され、どんぐりを拾う。視線を感じる。
おじさんの視線。自分の下半身にそそがれる視線。
ぎらぎらした、なにがしかの欲望をたたえたまなこ。

お嬢ちゃん、体重いくらあるの?おじさんが計ってあげるよ。
子ども心に他意が察せられてリナは逃げる。
息せき切って逃げた時には、あたりは日が沈もうとしていた。

また別の日、家路につく途中、会社員ふうの三十歳くらいの男性が
話しかけてきた。
リナの知らない人。夕闇で顔が輪郭しか見えない。
彼は、うしろからリナを抱きすくめ、下着に手を入れようとする。
リナは身をよじって抵抗。逃げる。

「なんと恐ろしいことを・・。王女が死ぬだと?そんな馬鹿なことがあるものか!」

王様役の男の子がしらじらしく言った。

美しさってなんだろう、リナは思った。
男性が女性を美しいと思うとき、それはリナが考えている美しさを感じているんではないと、
ごく幼い時から感じてきた。
自分の美しさを嫌っていた。
何も悪いことをしていないのに、美しいというだけで罪を背負っている気分だった。

糸つむは、いつだってリナを刺そうとしていた。
刺そうと待ち構えていた。
そして今、兄のせいで自分が糸つむに刺されてしまったような気がした。
自分が望み続けていたことは、ずっとつむぎたいと思っていたことは、
お母さんの愛だったのではないか。
でも、お母さんは四歳の時、わたしを捨てた。

最近のさみしい日常の風景に思いを馳せた。
あんなに仲のよかった兄妹は、もう話さない。
めいめいが別々にマンガをかいていくだけ。
リナはもともとマンガに興味がなかったので、時間つぶしのためにかくようになる。

お母さんは、いつもの鈍感な母親らしい態度で気づかない。
母親は自分の見たくないことは見ないですませられる得な性質を持っていた。
仮に見えたとしても、息子が娘をレイプしている現場を目撃したとしても、
こう理解しただろう。
娘が誘惑したにちがいない。

リナは誰にも言わない。あの日のことは。
お母さんにも一番仲のいい友だちにも。
胸の奥の秘密の小箱にしまって、心の沼に沈めた。
自分も思い出さないように。

誰にも愛されたことのないわたし。
永遠に愛されないわたし。
この世の何一つにも共感できるものがない。本当の意味で一人ぼっちの存在。
氷より冷たい心。氷河のように厚い岩盤で覆われた心。
だから、他人が自分の人生に介入するのを許さない。
猫の子一匹立ち入るのを禁ずる。
家族なんて他人なんて関係ない。わたしにかまわないで。

「気分が悪いの?」

顔色の悪い彼女に同級生の男の子が聞いた。
リナは我に返って言い訳した。
「ううん。今日、西村君休んでるでしょ。ちょっと心配で」

西村君とは、クラスのいじめられっ子のことで、いじめが原因で休んでいた。
彼は不潔で愚鈍で、いじめられるに値する人間だと思われていたので、
誰も心配する者はなかった。
リナの言葉を聞いた思慮の浅い男の子たちは
「外見の美しさと他人にたいする思いやりは、正比例するものなんだ」
とリナのことを感心した。









シャガール ホーム シャガール目次