箱の中の愛 純潔






第八章
「妹」






リナは、もうしゃべってくれない。
少年にとっては、やたらにつらく、やたらに悲しく、
ただわびしい日々が続いていった。

リナは、事件の翌日から台所に布団を引いて寝た。
「変わった子ね」と母親は言った。
兄妹が話さなくなったことを母親は、
息子が戻ってきたと喜んでる様子だった。

少年には、このつらさの何倍もリナは苦しんでるように思えた。
掃除、洗濯、食事の支度はリナの仕事だったので、
それをするためにリナは帰宅しなければならない。
リナのことを想い、リナを愛した少年は、学習塾のない日も
家にいないでいいように水泳部に入部した。
才能もないのに泳法を磨くのは楽しめなかったが、リナのためならなんでもできた。

好きなマンガももうむなしいように思えた。
かいても発表する機会もないし、かく気がしなかった。
それで家にいる時はトランプ占いに興じた。
興じたというより手すさびで仕方なく。

リナの汚いものを見るような怪訝(けげん)そうな視線。
そういった目を他の少女にもされてきた少年は、
自分の妹からもそういう視線を浴びせられて、
言葉には表現できない屈辱感というか、悲しみというか、
邪魔な視線だと感じ続けた。
しかし、つらかったけれど、少年にはどうすることもできなかった。

自分の蒔いた種だから。自分は軽蔑されるようなことをしたから。
自分は、なんてことをしてしまったんだろう。

最も愛する者に軽蔑されながら一つ屋根の下で生活していく。
十三歳の少年が背負う責め苦としては、あまりに重く苛酷で、
煉獄の苦しみだった。
本人にしか理解できない苦しみ。
誰にも理解できない、誰かに理解してもらいたいとも思えない苦しみ。
そんな苦しみに身をやつしながら、少年の心はじょじょにではあるが、浸食されていった。

なぜ母親は、あんな鈍感な態度をとり続けたのか。
「シュウちゃん、食べたいものはないの?あったら帰りに買ってきてあげるから。
たい焼きが好きでしょ。エクレアは?」
そして、あいかわらず「京都大学法学部へ行きなさい」と言っていた。それだけだった。

母親は立派な女性だった。
女手一つで子どもを育てている女性。子どものためだけに生きている女性。
俗世の修道女。誰の世話にもなっていない女性。
誰も彼女を非難できないし、非難される落ち度もない。
いつも母親らしい犠牲的精神を表明していた。
「子どもたちのために人生を棒に振った」と。
だから、息子も何も言えなかった。助けてと言えなかった。


リナは今年四十になる。一人息子がいる。
結婚をしてから、有閑な主婦の生活を送っている。
四十になって過去を、辞書をめくるように眺めることができた。
あのつらい日々のことも────

そして今、客観的に思うことは。
母親が子どものために生きるのは当たり前のことではないか。
それは何も立派なことではない。
それを、あらゆる非難をかわす盾にしてはいけない。
母親としてのあらゆる責任逃れの盾にしてはいけない。
わたしたちは、お母さんに食べさせてもらった。
お母さんに感謝している。

とは言え、いろいろ考えあぐねてみても、いろいろ詭弁を弄しても、
リナは、自分と母親が同じ人間のように思えてならなかった。

兄の人生を狂わせたもの。
兄を破滅へと追い込んだもの。
それは自分と一切関係がないとは、とうてい思えなかった。
それと同様に、お母さんにも一切関係がないとも思えない。
自分の美しさのせいだろう。母親の偏愛のせいだろう。
妹と母親、二人がかりで、一人の男の子の人生を押しつぶしたのだ。

時間に余裕のある生活をしている主婦のリナは、
『源氏物語』をたしなむことができた。
『源氏物語』若菜の巻を読むにつれ、兄のことが思い出された。
自責の念に押しつぶされ自滅していった柏木。
柏木の泣きの横笛が聞こえるような気がした。










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