箱の中の愛 純潔






第九章
「捨て猫」






あの事件から二年の歳月が過ぎていった。
リナは中学に上がり、兄のシュウは中学三年生になった。

あの日と同じ粉雪舞い散るある日のこと。
母親は疲れて深い眠りに落ちていた時の夜。
何を思ったのか少年は起きだし、裏窓から出ていった。
裏は雑草が生い茂る空き地になっていた。
すぐ手前が急勾配の坂になっていて、そこにも雑草が生えていた。
雑草を取り囲むようにリナたちの住むアパート、市道が二本あった。
一本は大型トラックが通れる大きい市道。もう一本は裏道へ続く狭くて暗い市道。

台所で寝ているリナの耳に、少年が裏のサッシを開ける音が入ってきた。
リナは事件以来、不眠症になっていたので、深夜を過ぎても眠れない日がほとんどだった。
ふだんは兄のことなど考えないようにしていた。
軽蔑してる人間のことなど考えるに値しないと思っていたから。
兄があまりに帰ってくるのが遅いので、こんな夜中に
何をしているんだろうという疑問がわいた。
雪が降っているのに。

リナは起きた。赤のガウンをまとって。
裏窓から見ると、兄が草むらの真ん中ぐらいにいた。
履き物は兄が履いて無いので、彼女は裸足のままで外へ出た。
リナが急勾配の坂を下りようとすると兄が叫んだ。
「リナ!来るな!」

彼女は、なんでという気持ちになった。魔法にかかったようにはたと体が止まった。
「リナ、聞こえないのか。この音」

リナは耳を澄ませた。
どこからともなく聞こえてくる微かな声。かぼそい声。
お母さんを呼んでる生き物の声。
それは今にも消え入りそうで、今にも水泡に帰してしまいそうで、
今やっと気づいた声。彼女の耳に感じられた声。

「このどこかに猫の赤ちゃんがいるんだ。踏み殺してしまうかもしれないだろ。
二匹は見つかったが」

そのかぼそい母を呼ぶ声は、澄んだ心をもった者にだけ聞こえる天使の声のようだった。
少年はパジャマの下にはシャツを着てるだけ。
リナを探しに出た夜と同じで、痩せぎすの体が痛々しかった。
少年の左手には二匹の生まれたばかりの猫の赤ちゃんが乗っかっていた。
少年は狂ったように草むらの中から残りの赤ちゃんを見つけ出そうとしていた。
寒さを感じていないようだった。リナの目にはそう見えた。

その刹那、リナは自分の中の大きなものにひびが入ったのを感じた。
身震いした。
絶対に変わらないと思っていた心に、なぜだかわからないけれども、ひびが入った。
ひびはリナの心臓を通過して涙腺まで到達した。
涙顔になった。
自分が何らかの値打ちがある人間に思えて。

少年は、リナの様子に気づいた。リナのような娘でも泣くことはあるのか。

もうやめて、兄さん。そう言いたかった。
もういいのよって。
猫の子なんて死のうがどうなろうがいいのよ。
誰か心ない人が、子を捨てて行ったのよ。
知ったことじゃない。弱い者が死ぬのは当たり前。この世は弱肉強食でしょ。
どうせ捨てられた子なんだから。弱い者は死ねばいい。
自然淘汰というのがあるわ。
少なくともわたしは、そう教えられてきた。状況が教えたわ。
誰もわたしに情けをかけなかったから、わたしも情けをかけるつもりはない。
人間の死体が目の前に転がってても、わたしはまたいで通って行く。この世は弱肉強食だから。
誰も愛してやるものか。それが正しいことでしょ。生き残りの。

誰にも愛されたことがない人間は誰も愛さない、自然の理でしょ。

やめて!兄さん!

少年は、やっと残りの子猫を見つけることができた。
「リナ!見つかった、ぜんぶ」
少年は驚喜した。
「五つ子だったんだ」

リナは、打ちひしがれたように
草むらの勾配に立ちつくしていた。
お母さん、なんでわたしなんか生んだの。
わたしは何を信じればいいって言うの。









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