恋愛告白手記 (紫の上物語)







第十一章
「セラピー」





後期試験がせまっていた。
幸いにも大学だけは通うことのできる毎日を送れていた。

家にいても電車に乗っていても涙がとまらなかった。
想い出すのはJ君の元気だった姿。それしかなかった。
寝ても起きてもJ君のことだけだった。
毎夜J君の夢を見た。
わたしは獣道を走っている。と、いつの間にか
J君になって駆けている自分を発見した。
また、見たこともない駐車場でJ君がつながれている。
悲しそうに吠えている。わたしを呼ぶように。
そんな夢ばかり見た。


恋愛など初めからなかったも同然だった。
恋愛でさえそうなのに、文学など塵より軽い存在だった。

この時ほど真面目な生活というものはない。
文字通り家と学校を往復するだけの生活。
アルコールもなければ陰口もない。忌中生活。
自分を修道女のように思えたわたしは、清らかな喜びさえ感じた。

怖かった。人の視線が。
わたしは電車に乗るのも恐ろしく、思い詰めてる自分の目つきが
おかしいんじゃないかといぶかしんで居ても立ってもいられなかった。

眠れないのと栄養失調で心臓がつらかった。
ある日、わたしは大学で、医務室で、試験を前にして泣き出した。
大学では絶対泣くまいと誓っていたが、いたたまれない気持ちが
増大し許容範囲を超えた。
けして同級生に心を見せるものかという片意地が
くじけそうになって。

トランキライザーが欲しいとわたしは言った。
医務室の先生は心理学教室に行くように勧めた。
わたしは何の解決にもならないと断ったが押し切られる形で
教室へと足を運んだ。
教護の先生としては、それが適切な処置の一貫だったから。
少し助教授と話をしたあと、ある総合病院の神経科を紹介すると
言われた。そこには一流のセラピストがいるからセラピーを
受けるようにと言われた。
わたしは薬が欲しい一念で承諾した。

セラピーは思ったとうりくだらなかった。
お定まりの心理テストと心理療法。
生い立ちを聞き出すのだ。
人それぞれには個体差というものがあるのに、そんなもので推し量ることができる
と言うのだろうか?
黙って薬を出してくれればどれだけ気楽だろうと思った。
わたしはセラピストのプライドを傷つけないように従ってる振りをするしかなかった。

そんなセラピストだったが一つだけいいことを言った。
「あなたのような人生に絶望した娘さんは世間に五万といる。
彼女たちの中には間違いでも子供を生んで、子供を生き甲斐に何とか生き延びてる人もいます。
あなたがそうしたらいいとは言いませんが、それも生きる一つの道です。
あなたが死んだら家族に悲しみを与えることになるでしょう。
それはあなたもわかってる。家族に対して義務を負っていると」

その日だったか、翌日だったかいつだったか忘れたが、
帰宅途中に梅田の紀伊国屋書店に立ち寄って一冊の本に目をとめた。
手にとってみた。
それは以前から読みたいと思っていて読むのがためらわれた本だった。
わたしは「かもめのジョナサン」や「赤と黒」などの陽の当たる作品ばかり
優先してきたから。
小説「嘔吐」ジャンポール・サルトル作。
レジスターへ。

数日後、わたしは一生忘れることのできない言葉を見つけた。
わたしの人生を変えた言葉。

「もう一人のカサンドラはどこにもいないのだろうか。
とは言えそれが私になんの関係があろう」

わたしは納得した。
ほんとうに欲しいものは
得られないと。










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