恋愛告白手記 (紫の上物語)







第九章
「太平洋の上で」





ウエディングドレスは、それはそれは見事なものだった。
M氏が、日光ホテルでレンタルした最高のものだと言った。
最高らしくこの上ない純白、透き通るようで、気品があった。

ここに一枚の写真がある。
わたしとM氏の挙式の写真。
わたしは少しやつれてるかな。それでもそれなりに幸福そうだが
M氏は緊張している。

見事なドレスとは対照的に、旅行は悪夢と言うにふさわしかった。

行きは初めての海外旅行でうきうきしていたが、
着いた瞬間が悪夢だった。
チェックインが三時からと決まっているので、わたしは疲れた身をベッドに
横たえることができなかった。わたしはホテルのロビーで休んだ。
チェックイン後も、バスルームが日本と使い勝手がちがうので
ヒステリーを起こした。
「なんでこんなホテル予約したのよ!」
「一番いいホテルは暮れで予約が取れなかったんだ。二番目にいいホテルだよ」

わたしは泣きながら、お母さんに電話した。
「もう死にたい!お母さんの言うとおりすればよかった!
わたしが馬鹿だった・・
もう死ぬしかない。バルコニーから飛び降りて死ぬわ」

するとM氏は、あきれたというか不機嫌な表情で
「お前、文学部だろ。もっとまともな表現できないのかよ」

わたしはバルコニーに出た。見下ろすと、地上二十数階はめまいがした。
身を乗り出すふりをした。M氏が笑いながら、わたしの胴をつかんで
引き留めた。部屋へひきずって行った。

ベッドの上で泣きじゃくった。わめいた。
「こんな旅行くるんじゃなかった!」
「眠れないの!!睡眠薬を買って来て!とにかく!」

翌日も最悪だった。M氏は右車線の道路は怖くて運転
したくないと言い出した。
ドライブできない旅行なんて、わたしは何の興味もなかった。
わたしは部屋にとじ込められているような気がした。
M氏は散歩に出かけようと言ったが、わたしは首を横に振った。
何でも買ってあげるからと言った。でも、もう欲しいものはなかった。
わたしは、ひで君の心が欲しかった。

わたしは部屋の片隅にしゃがみこんでウイスキーを飲んだ。
何もしたいことがなかったから。

わたしはハイエナみたいに部屋中をうろつき廻った。
酔っぱらっていた。
「こんな旅行って。日本に帰りたい。なんでわたしが年寄りとこんな
旅行しなきゃなんないの。自分で蒔いた種?」
朝から飲み続けて夜中には倒れた。
絨毯をたたいてのたうち回った。泣いた。
「日本へ帰して!ひで君の元へ連れてって!ひで君の元へ
行きたいの!それだけでいいの!」

絶句。
M氏のことなど考えもしませんでした。

旅行は二週間の予定を繰り上げて、
数日で帰国の手配を取ってくれた。
不思議なことに太平洋の空の上で想ったことは、
ひで君のことでもM氏のことでもなかった。
わたしは愛犬のことを想っていた。
J君のことを想っていた。

数週間前から体調が悪く、病院に連れていっていた。
食欲がなかったから。でも、投薬でだいぶ元気を取り戻していたし、
もしものことは当分先の話だと安心してはいたが。

わたしは身震いした。冷や汗が出てきた。
M氏が言うには真っ青な顔をしていたという。
涙が止まらなかった。
もうあの子が、J君が、この世にいなくなったような気がした。
確信みたいなものがあった。

スチュワーデスが怪訝そうに見ていた。










シャガール ホーム シャガール目次