「日本のヨセミテ」と呼ばれる小川山は、 日本人クライマーにとっては聖地のような存在だ。 花崗岩のスラブ、綺麗に伸びたクラック。 変化に富んだフェイス。 それらが合わさった岩登りのルートは、 クライミングの楽しさが凝縮されている。
僕の住む三浦半島から、小川山のある長野県の川上村までは、 車で下道を飛ばして、4時間半はゆうにかかる。 けっして近いとは言えない距離だ。 それでも、何度も小川山に足を運んでしまうのは、 小川山の魅力的な岩たちの存在のせいだろうか。 白樺の森。唐松の林。かの地に足を踏み入れた とたんに高原特有の気配、匂いが僕を包み、 大切ななにかに再会したような気持ちを呼び子起こして くれる。
今年は、初秋に友人のトモが、ブラックシープと 呼ばれる三ツ星の5.9+で敗退してしまった。 そのリベンジに、お供させてもらうことにした。 晩秋の今なら、いつもは順番待ちの人気ルートも 空いているハズだ。かねてから、目標としていた レギュラー10b/cに取り付いてみよう。 そんな想いを胸に秘め、仕事で疲れ果てた体に 鞭打って、夜明け前の西湘バイパスを疾走した。
予定どおり9時前に、前日からキャンプしていた トモと再会。ほっとしてしまい、ゆっくりコーヒー 芳香を吸い込んでから、ゆっくりと出立した。
目指すは、小川山でも有名なマラ岩。
その名の由来は、形をみたら誰でも納得するに違いない。 女性クライマーも多く、若くて可憐な乙女たちが、 必死になってこのマラ岩に張りついているのを 見て、ふと複雑な思いに駆られるオイラは、 もうオジさんなのだろう。
初心者ルートなのに、マラ岩の頂上まで抜けること ができる川上小唄5.7で、ウオーミングアップ。 トモがリードした後、フォローで、頂上に出た。 切り立ったエッジに座って談笑。食べ物をもってきたが、 落ち着いて食べれる雰囲気ではないので、 懸垂下降で降りた。 トモとはマルチピッチいつかやりたいと思っていたので、 そのいい練習になった。
その後、いよいよレギュラーにチャレンジ。 それほど難しくはないのだが、持久力がいる。 きちんと立てこめないオイラは、核心の前に墜落してしまう。 あっけないオンサイト・トライの終焉に愕然とするが、 なんとかムーブをつなげて終了点に抜けた。
いやはや、トレーニング不足以外のなにものでもない。 ルートファインデイング力のない僕にとって、 レギュラーをリードして完登するには今の3倍は持久力 が必要だろう。 こうして、最初のラブコールは、実力不足であっけなく 袖にされてしまった。
この仇を、是非トモにとってもらおうと、いよいよ ブラックシープに向うことにする。 そのとき、待ち合わせていたきのこ博士のタカノさん に丁度出会う。マラ岩の頂上でゆっくりしてた時に、 すれ違ってしまったようで、一時間も待たせたようだ。
ブラックシープのあるリバーサイドの岩に、タカノさんの きのこトモダチのリツコさんが待っていた。 簡単に自己紹介してから、いよいよトモのブラックシープ・トライ。 ブラックシープはスラブ、フェイス、クラック、カンテ、 ありとあらゆるエッセンスが凝縮した小川山でも人気ルートだ。 これで、5.9という初級者グレードなのだからたまらない。
前回は2つ目の支点までしか到達しなかったトモは、 驚くほど粘って、いよいよ核心の羊の角に到達した。 ここは、思い切って勝負する場所だが、キレイに抜けようとした のか、ついに力尽きて、テンションが入っしまう。
もう降りようと何度か思ったようだったけど、 気合いで抜けた。 最初に考えたムーブが正解だったとのこと。 ムーブが繋がったので、次回はレッド・ポイントできるだろう。 それでも、限界までがんばって、切り抜けたトモは良い顔をしていた。
その後に、タカノさんがトップロープでチャレンジ。 何度か振り子のように、振られてぶら下がってしまったけど、 絶妙なバランスと大胆なムーブで、終了点に到達。
「いや、私には、ここはリードは無理」
ときっぱり。いやいや。もうすぐでしょう。
リツコさんに、クライミングを体験してもらおうと、 マラ岩に戻って、再び川上小唄に取り付いた。 タカノさんの、小川山での初リード。 慎重にこなしてトップロープを張ってもらう。 登り出しのスラブのトラバースは初心者には、ちょっと微妙。 僕が上で待機して、上と下から、助言を飛ばすことにした。
えー、こんなのやるの?
と嫌々だったリツコさんも高度とともに集中力が増していく。 後で聞くと、本人を含めみんな頂上までは無理だろうと思っ ていたのに、とうとう完登してしまった。
「登っている時は、楽しいとか言ってられなかったけど、 ここまでこれてよかった!」
本当に嬉しそうだ。少し下がった位置に降りて、一人の時間を 堪能していただく。
マラ岩頂上からキレ落ちた足下を見下ろすとの息を呑むような高度感 が味わえる。黄葉した唐松林の森。小川山の岩峰群が落陽に映えていた。 この景色は、自分の力で登ってきたご褒美です。 一般の人ではなかなか体験できない贅沢な時間でしょう。 それまで乗り気でなかったリツコさんの笑顔が印象的でした。
キャンプ場に戻って焚き火と発泡酒で乾杯。
こうして晩秋の小川山では、ひとつのお話が幕を閉じたのでございます。
クライミング用語集
スラブ:ザラザラした花崗岩の岩肌のこと。取っ掛かりがない場所を、摩擦力を駆使して登る場所を指す。
クラック:岩にできた割れ目のこと。ここに指や手を突っ込んでぐいぐい登る。
フェイス:平らな岩の面を登る。小さな取っ掛かりがあるのが普通。
5.9, 5.10b/c:クライミングの難易度。アメリカで採用されているデシマルグレード。 「ナイン」とか「テンb」とか呼ぶ。11で中級。12以上で上級者。
リード:支点を取りながら登る方法。墜落するとかなりの距離を自由落下することになる。
フォロー:リードした人の後を、確保していた人が着いていくこと。
トップロープ:終了点からロープを垂らして登る方法。安全で、落ちても距離が短い。
オン・サイト:初見のリードで完登すること。最高の登りかた。他の人が登るのを見るのもダメ。
レッド・ポイント:2回目以降の、リードで完登すること。