■ 母の闘病記
病魔との闘い

■ 母の病気との闘いについて ■

母は15年ほど前に糖尿病で近くの総合病院に入院しました。このときは管理栄養士さんや医師からの指導を受ける目的の入院でした。 その後、その総合病院にかかりながら、自己管理するようになり、食事&運動でコントロールしていきました。

自己管理できるようになったため本当は個人病院に紹介状をもって、個人病院で定期的な管理をうけるようにといわれていたのですが、 母は体調が良くなったので定期的に病院にはかからずに風邪をひいたときなどに個人病院を受診するような感じで過ごしていました。

2年ほど前から、体調が悪くなったようで、近くの個人病院にかかるようになりました。 糖尿病の治療ということでA病院(個人病院)にかかるようになりました。 A病院にかかり始めてすぐくらいからめまい、立ちくらみがすると話していました。 母は「糖尿病の血糖値を下げる薬と、高血圧のための降圧剤の副作用みたいなの」とよく話していました。 私は、「薬は色んな種類があるのだから、ちゃんと症状を先生に話して自分にあった薬を処方してもらわないとダメだよ。」と 話をしていました。

母と直接会ったのは一昨年の義父の告別式のときでした。その時に、母の白髪が目立つ気がしたのと、ちょっと痩せたかなと感じる程度でした。 あとは加齢による老け・・かなとだけ思っていました。

実家まで片道8時間の場所に住んでいたため、あまり会うことがなかったのですが、月2−3回は母から電話がありました。 たいていが「元気にしてる?」という私の体を心配する電話でした。

昨年(2004年)の5月に東京の叔父さんの一周忌に来るというので、ついでに私のところに泊まりに来るようにとかなりしつこく誘いましたが、 母の姉妹達と一緒に行動するのでいいよ、そのかわり北陸に引越ししたら遊びに行くから・・・ということでした。 その後、その5月の写真を実家で見て思ったのですが、すでにその時点でかなり痩せてきていました。 もし、この5月に私が母と会っていたら総合病院に受診するように強く勧めたに違いないと思いました。

昨年(20004年)の7月ごろに電話がありました。 私は昨年は春からずっと仕事が忙しくしていたのもあり、仕事に出る前の電話だったので短時間できりあげましたが、 「ちょっと体がしんどくて」と話す母に、 「病院にはちゃんと行ってるの?」と聞くと、 「月2回通っているよ。血液検査もしているし。」との返事でした。 なので、夏バテかな・・・とか思いながら電話を切りました。

そんな感じで忙しく過ごし、たまに電話があってもちょっと話をするくらいで過ごしていたのですが、9月の初旬に電話があったときに 声だけでもしんどそうなのを感じ、 「体調悪いの?」と聞くと、 「なんかとてもしんどい。おなかが張るし、膀胱圧迫しているような感じでトイレが近いし、つわりのような吐き気がある。食べ物が食べられなくて体重が減った。9月になってだされた薬が あわないのかも。でも腰や背中が痛くて眠れなくて・・・。下痢もするし。」という返事。 「どうしてなんだろう。でもおかしい。おかあさん、総合病院にかかったほうがいいよ。ちゃんと検査したほうがいいよ。ちゃんと先生に話した方がいいよ。」と話、 父にも「個人病院と並行して必ず総合病院に受診したほうがいい。」と強くいったのですが、 「9月中旬にエコーや胃カメラや腸の検査などをA病院で予約いれたから」という返答。

私は、なんだかとても嫌な予感・・・。 個人病院のままでいいのだろうか・・・。

9月20日過ぎに母から電話があり「薬もかえてもらったら50%ほど気分が良くなった。腸の検査は痛くてつらかったけど、検査結果も何もなかったよ。大腸に小さなポリープがあるということで その場で切除してもらったからしばらく自宅で安静にしないといけないんだって。おなかが痛くて下痢するのも精神的なものらしい。過敏性大腸とかっていわれたけど。心配かけてごめんね。でも、まだしんどいけど。」という 内容だった。 「まだ、しんどいんだったら、ちゃんと総合病院にかかったほうがいいよ。お母さん、体重減るのってすごく気になるんだけど。」 体重減る=癌?なのではというのが私の心の中の気持ちであったから。

「しばらく様子みるわ・・・」ということで電話を切った。 なんだか心の中でモヤモヤしていた。

9月下旬に2泊3日でTDRとTDSに遊びに行った。 3日目の夜にTDSでシーティングしているところに、父から携帯に着信があった。滅多に父から携帯に電話がかかることがないので、 非常に嫌な胸騒ぎがした。すぐに電話をかけたら、 「お母さんが、その後もだんだん状態が悪くなって、痛みもひどくなって、放っておけなくて、B大学病院に木曜日に連れて行ってエコーを とったら肝臓と子宮の周りに腹水が少したまっていてさらにもっと検査したいのでということで今日から検査入院になった。あと、お母さんが非常にびっくりしていたけど 血糖値がかなり高くなっていたようだ」という話だった。

「痛みがひどくなった。腹水??? 血糖値が上昇???」それを聞いただけで涙がとまらなくなった。 つい1週間前に同じエコーをとってまったく問題なしといわれていたのに、 なぜ、色んな箇所に腹水がたまっているの?そんなバカな話あるわけない。あるとしたらA病院がヤブってこと・・・。 もしかするとA病院はとんでもなくヤブだったのでは???ということは、母の状態はかなり悪いのかも・・・。

それから泣きながら自宅に戻り、眠れなくなりネットで「腹部膨満、腹水、下痢、血糖値、腰や背中の痛み」などの言葉で検索して母の状態がいったい なんであるのか調べた。 調べれば調べるほどに 膵臓癌では・・・と思うようになった。 そう確信すればするほど涙が止まらなかった。毎日泣いた。眠れずに泣いた。 ダンナは「医師から検査結果を聞くまでに、ネットの情報にまどわされて一喜一憂するな。ネットばかり気にするな。」と慰めてくれたが、 最悪の結果も考えて検査結果を聞きにいかないと実際に話を聞いたときに冷静でいられるかどうかわからない。 とにかく、調べられるだけ色んなことを調べた。

それからというもの、 膵臓癌についてネットで調べつづけた。
癌関係の本も数冊購入した。とにかく色んな情報を集めた。
主治医から結果を聞いたときに、冷静に対処するために。

セカンドオピニオンのこと。
治療方針のこと。
告知のこと。
その他・・・。

家族としてどうするのがベストだろうかと考えた。 セカンドオピニオンはまず国立癌センター、あとは10月末に私が引越しする北陸のE総合病院。 母が入院してから、もし長期療養になったら、私の住まいの近くに来てもらおうと思ったこともあったため。

10月8日(金)に検査結果がでると父から聞き、自分の耳でちゃんと聞かねば一生後悔するように思い、金曜日の早朝に息子を同じマンションんのAさんに預けて、 午後3時過ぎに母の入院するB大学病院へと行った。 8日に検査結果を聞きに行くからと話したときも母は「もっと来てもらわなければいけない重要な時があるから、こなくていいよ。仕事も忙しいだろうし・・・」と 電話で言っていた。夜に父に母の本心を確認すると「遠慮しているのだろう。」と言う事だった。 行って、聞いてあげなければ・・・と私は強く思った。

B大学病院に着き、母の病室へ行くと、すでに横浜の姉も来ていた。父の姿がなかった。 父は私がそろそろ到着するだろうからと下のエレベーター付近に迎えに行ったというのだ。 母のお見舞いにお花のアレンジメントを1階の花屋で購入したが母の病棟は感染予防のため生花は厳禁だということだったので、 下におりて父の車に積んでもらうことにしようと思い、父を探しに母の病室をでたところ、エレベーター前で父と会った。 父が、「主治医の先生から本人に話をする前に、家族に先に説明をしたいそうだ。少し話を聞いたけれど、お母さんは膵臓癌のようだ。」と。 そうか・・・、私の予想した結果なのか・・・。

それから花を父の車に積んでから、外来の消化器内科へ行くまでの間、早足で歩きながら父と早口で話した。 母への告知はどうしよう。父は告知はしたくないと言った。私は告知すべきだと思ってきたが、母の病状による・・・と思った。 外来の消化器内科の受付に到着し、主治医のC先生と外来で担当してくださったD先生と会い、父と私と4名で部屋にはいった。

母のCTとMRI画像、血液検査の結果などをオンラインでPC画面で見ながら検査結果を説明していただいた。 「膵臓癌 ステージ4b」であった。

私の予想とちがったのは、その進行度合いであった。
ひどくても・・・最悪の結果としても 「ステージ4a」までと思っていたのだけれど・・・。腫瘍5センチ、すでに肺にも転移があるということだった。 月2回定期的に病院にかかり、8月に入ってから毎週のように病院に通った人がどうして・・・末期なの? どうしてこんなに進行するまで分からなかったの?頭の中に色んな思いがグルグル巡った。 巡ったけれど、冷静でいなければと・・・。 「かなり進行していたのですね。私が予想していたよりかなり悪いです。」と主治医に話した。

母への告知についてはどうするか?と聞かれた。
余命3−6ヶ月ということだった。 余命告知はもちろん必要はないと思うのだけど・・・。 父は「癌とは言わないで欲しい。」ということだった。母は父に癌と言われても告知してほしいと頼んでいたようだ、 しかし、いざ現実となって父は母の性格を考えて「病名告知できない。」と思ったようだ。

私は悩んだ。しかし、癌末期。余命も短い。母に事実を伝えていいのだろうか。 父が「お父さんはお母さんに話せない。話すならNAMからにしてくれ。あまりにもかわいそうで話せない。」と言った。 結局、病名告知を避けてもらった。また、癌の末期であることも言わないように頼んだ。 腫瘍の大きさも5センチと話すと、かなり末期であると分かるので、腫瘍3センチと話してもらうことになった。

母に告げるのは、「膵臓に3センチの腫瘍あり。」ということ。抗がん剤治療も「化学療法」と話してもらう事にした。

病室に戻ると、私と父がなかなか戻ってこないので疑心暗鬼にかられ、オロオロする母の姿があった。 横浜の姉に怒られた。「お母さんが心配して1階まで探しにいったよ。隠れて先生から説明きいているんじゃないかって。」 「下で二人でちょっと色々と話していただけだ。」と父とごまかした。

しばらくして、主治医のA先生がやってきた。 母の病室近くの部屋でホワイトボードに絵を描いて説明してもらった。

一通り説明が終わって母は「それって癌っていうことですか?」と聞いた。 A先生は「いえ、腫瘍です。」とかわしてくれた。しかし母は癌だと感じたようだ。ただ、癌末期であるとは思ってはいない。

化学療法についても、副作用について一通り説明があり、治療を受けますか?という話になった。 母に副作用はつらいかもしれないけれど、がんばって受けようと話をし、母も前向きな気持ちで化学療法を受ける事に同意した。

GEM(ジェムザール)の単独療法。
ネットでしらべると、GEMとTS1や5FUなどのほかの抗がん剤との併用をされている医師もいることを知ったので、 主治医に聞いてみたが、B大学病院ではGEM単剤による標準治療をしているとの返答であった。

主治医のC医師は若いが対応が誠実だった。知らない事は知らないと言ってくれて、私の付け焼刃なネットからの知識に対しても誠実に調べてみます。と返答してくれた。

腹水についてもPVシャントや濃縮再還流などについても話した。結局はB大学病院の治療方針ではないのでしてもらえなかったが、 それでどれだけ母の延命効果があったかは定かではないが・・・。 10月中旬から母のGEMによる抗がん剤治療が開始された。
3投1休。 1週間に1回抗がん剤を投与して3週続けて1週休む。これを1クール。それを続けるのだという。 GEMの主な副作用としては、骨髄抑制(白血球や血小板の減少)、嘔吐、皮膚の発疹、などであるという。

1クールの1投目の2日後に嘔吐と発熱、あとは白血球の減少なども見られたが、白血球も回復するので1クールを3投することができた。 2クールの1投目を打ったら、その次の回からは外来での化学療法にしましょうということになった。

10月の入院中は、朝モーニングコーヒーをデイルームでとるのが日課となった。
朝8時ごろに父や私、姉がいくと母はベッドの上で正座して待っていて、目をキラキラと嬉しそうにしている。 コーヒーを下の自動販売機から買ってきているあいだに、デイルームまで歩いていき、外を眺めながら砂糖抜きのコーヒーを皆で飲んだ。 今考えるとあの頃はまだ比較的動けた。食事もおにぎりを食べたり、海苔巻きを食べたり、たこ焼きを食べたり。近くの百貨店のデパ地下お惣菜を 昼に買ってきては母が食べたいものをとって分けて食べた。

実家からB大学病院まで片道60キロあり車で約1時間半程度。父は休まずに毎日通った。 お百度参りのつもりで通っていたのだという。70歳過ぎの父にとってはそれも精一杯の頑張りだった。

11月になり一時退院である。11月2週目から母は一旦自宅に戻った。 自宅に戻るにあたり、電動付きベッド、オイルヒーター、空気清浄機、カーテンなどを一新した。 母に気持ちよく自宅で過ごして欲しいから。

母が自宅に戻った翌週に私は子供を連れて4日ほど帰省した。
母は自宅に戻った翌日に自分で赤飯を蒸して冷凍保存していた。
私が帰省中は食事を作ってあげたが、少し目を離すと台所にたって夕食の下準備などをしていた。
「無理したらあかんよ。」と言うのだけれど、
「少しは動かないと・・・」と言っていたが私への心使いだったのだと思う。

母に自宅に戻ってからも日中ずっとマッサージチェアの上で横になっていた。
そこから庭を眺めたり。たまに庭に鳥がやってきてそれを見ているのが気晴らしになるらしい。
私が作った食事を量は少しだけれど「美味しい。」といって頑張って口にしてくれた。 ある晩などはステーキを食べたいというのでサーロインを買ってきて3キレ食べた。 その後、おなかが張ってすぐにベッドに横になりに行った。
また、一旦帰るときに、母はマッサージチェアに座ったまま涙ぐんでいた。私も涙が流れた。

私が帰ってからの金曜日、2クール目の3投目の投薬の後、父と自宅までの途中でスーパーに立ち寄った際に 魚屋のところで調理をお願いしたらかなりの時間待たされて、その間に母は気分が悪くなり車に一人戻ったらしい。 それから、吐き気が強くなり、土曜、日曜と激しい吐き気、嘔吐のため死を覚悟するほどだったという。 母が水分も口にできないので、脱水症を懸念し、父がB大学病院に電話し指示をあおぎ、自宅近くの総合病院に点滴の処方をファックスしてもらい、 土曜日も8時間、日曜日も8時間ほど点滴を打ちに行き、週明け月曜日からB大学病院に再入院となった。

母はこの3投1休を2クールして、2クールの3投目の翌日から激しい嘔吐のため、抗がん剤治療を休止(中止)することになった。

主治医には化学療法を中止といわずに、休薬と言って欲しいとお願いした。
母にとって、化学療法を受けること=腫瘍をそれ以上大きくしないこと。だったからだ。
私に母は「化学療法しなかったら、腫瘍はどうなるの?大きくなるの?それからどうなるの?死ぬだけなの?」と聞くようになった。
私は答えにつまった。
「薬はしばらくお休みして、お母さんの体力が回復して免疫力があがったらまた投薬してもらおう。お母さん自身の免疫を高めれば腫瘍と共存できるよ。」と 答えるのが精一杯だった。

12月7日から実家に子供を連れてしばらく滞在することを決めた。
母のことが気になってしかたがない。日中も何も手につかないし、涙ばかり流れる毎日だった。
ネットで実家近くの保育園で一時保育してくれる園を探し、事情を話して一時保育受け入れの了解をもらった。1月末くらいまでいることにきめた。 ダンナには申し訳なかったが、自分自身が一生後悔しないためにも。母のことを最期までみてあげたかったから。
12月7日からは私が父の代わりに運転してB大学病院まで毎日通った。土日だけは子供も休ませないと可愛そうなので、土曜日は子供を連れて病院へお見舞いに行き、 帰りは子供とローカル線に乗って帰った。

化学療法中止=死を待つのみ
と、母は感じたのか・・・、、
化学療法を中止した12月に入ってからは、ベッドの上で泣く事が多くなった。
私の手を強く握って、
「色々ありがとう。」ということも多くなった。
私も一緒にベッドのそばで涙ぐむことが多くなった。
それまでは、母の前では決して泣かなかったけど、日々衰弱していく母のと苦しみを共有し一緒に涙を流すことも大切なことのように思った。

日に日に痩せていく体。左手は24時間点滴をつなげたまま。 食べ物もほとんど口にできない。

体もずっしり重たく感じ、しんどいらしい。言葉では表現しにくいらしいが、「しんどい」
「何のために生きているのだろう。」
「生きているのが辛い・・・」と
泣き言をもらすようになった。
そんなとき、私は言葉につまった。

12月にはいってから腹水がたまるペースも速くなった。
1回に1500cc程度抜くがそれでもまだたまっているようだった。 腹水がたまって横隔膜を上げることで息をしずらかったりするらしい。 本当は腹水を抜くだけでは体にとって負担なのだけれど・・・。

腹水を抜いた直後はおなかの圧迫がなくなって少し食欲もでて、「チーズケーキが食べたい。」というので 近くのデパートの地下のアンデルセンでチーズケーキとチーズタルトを買って帰ったら美味しそうに半分ずつ食べた。
「美味しかった。」と満足そうに横になった。
「カロリーかなり取れたね。」と嬉しそうだった。
それが、母が食べ物を口にして満足そうだった最後の姿かもしれない。

再入院した当初は、おかゆも「お父さんのため、お姉ちゃんのため、NAMのため」といって、スプーンで一さじずつすくって頑張って食べているらしい。

12月中旬になってからは、食べ物をほとんど食べられなくなった。
アイスクリームを口にするので精一杯。アイスクリームさえ食べられない日もあった。
病院の売店で毎朝ハーゲンダッツの抹茶を1個買うのが日課になった。残されたアイスクリームは私か父が食べた。
母が元気な頃、良く一緒に飲んだウィンなーコーヒーを思い出して、病院の1階の喫茶店からウィンなーコーヒーを病室まで運んだ。
母は2口ほど飲んで、「美味しい」と言ってくれていた。
コーヒーが大好きだった母。あれだけ好きだったのにカップ1杯の量も飲めなくなっていた。

12月中旬、看護婦さんが気分転換に髪の毛切ってきたらいかがですか?と話された。
病院の美容室に2番目の姉と私とで母を連れていった。
かわいらしく髪の毛を切ってくださった。久しぶりの丁寧なシャンプーも気持ちよかったらしい。 点滴をつけたまま。抗がん剤の副作用で髪の毛も抜け落ちはじめていたころだった。 美容師さんに何度も何度も頭を下げ、お礼を言って病室に戻った。
「良い年末年始がおくれそうです・・・ありがとうございました。」

年末年始に外泊許可が下りたら・・・。それを短期目標にしていた。
でも、状態は良くならず。>BR? 母はお風呂の湯船につかりたい。というのが外泊できたときの楽しみだった。
しかし、クリスマス明けごろにトイレに立てなくなり、ポータブルトイレをベッドそばにおいてもらうことになり、個室に移りたいと希望したので、個室に 移った。個室に入ったので、ようやく、ゆっくり話ができるようになった。
でも、母は日中も横になり眠っている事も多くなった。
12月25日頃から、息をしずらくなった(と感じる)ため、話も長くできない。
鎮痛剤は朝夜座薬で麻薬系鎮痛剤で痛みはなんとかコントロールされていた。

年末にC医師が冬休みに入る前に父と私が呼ばれた。 容態が急変した場合の処置について説明と同意だった。
酸素について。酸素チューブとマスクをお願いしたが、自発呼吸が出来なくなった場合の人工呼吸器装着については、 そこまでの延命は母も望まないと思いますと、話をした。
2番目の姉も同意だった。
通常、癌告知した患者さんには本人にも確認するらしいが、母の場合は癌告知していないので家族のみに対しての確認となった。 いつか、酸素マスクが必要な時がやってくるのか・・・。現実は厳しいのだとあらためて実感した。

年末大晦日の前の日に母が私と2番目の姉に「一旦、各自の自宅に戻りなさい。」と強く懇願した。
私は帰らないと言い張ったのだけれど、母がとにかく一旦家のことをしに帰りなさい。と望むので、後ろ髪をひかれながら 元旦に片道7時間かけて戻った。
母のことが心配でならない。
1月5日に母と父の携帯から電話で話をした。
母がなぜ年末に一旦家に戻るように話したかという理由の説明を一通りした。 母が帰るように言った理由は聞かなくても分かっていた。でも、母は話したかったのだろう。
「1月11日、来週の火曜日にはまたそっちに戻るから。待っててね。」と話すと、ろれつが回らない言葉で
「まってるからー。」と答えてくれた。
それが母と話した最後となった。

11日の朝9時台出発の特急と乗り継ぎの特急のチケットはすでに購入済みだった。
荷物もまとめていた。

10日の夜11時過ぎに父から電話があった。
お母さんの容態が少し急変した。血圧が下がってきているようだ・・・できるだけ早く帰ってきたほうがよさそうだ。ということだった。 酸素はチューブを鼻からいれている。
翌朝7時台の特急に変更することを決めた。胸騒ぎがした。
その夜は冬の雷がひどい夜だった。眠れなかった。
6時過ぎに子供を起こして、ダンナに駅まで送ってもらい、チケット変更し特急に乗った。その日も雪がかなり降っていた。
特急電車を京都で乗り継いで、大阪駅をでたころ・・・11日の午前11時前に父から電話が。 嫌な胸騒ぎと緊張で電話に出た。
父が「お母さんがさっき亡くなった」という言葉だった。
涙が止まらなかった。
父が、「もう病院まで来る必要はないから、家で待っていてくれるか。」というので、子供を連れて実家についたのが午後3時前だった。
すでに霊柩車が庭に止まっていた。
急いで実家に入ると奥の座敷に母が寝かされていた。 母の額は冷たくなっていた。米かみのあたりが少し温かく感じた。 少し笑顔のようにさえ見えた。

母は最期苦しまずに息を引き取ったと父が話してくれた。
10日の夜に急変してから血圧が下がり、血圧を上げる薬を点滴したがあがらなかったようだ。
うわごとのように「おなかがいたい、なんとかして」と繰り返しつぶやいていたようだ。
あとは、酸素を鼻から吸って口からぱっと息を吐いていたということ。

母がいつ頃からしんどくなったのだろう?
不思議なくらいです。

母が病床で話してくれたことをまとめると:
2003年にはおへその周りが硬くしこりがあるよう感じられるようになった。
2004年入ってすぐくらいからおへそが出べそのようになった。
2004年7月くらいには夏に飲むための発泡酒を購入したけれど、その後ビールを美味しいと感じられず飲まないまま。
同じく中元でいただいた美味しいコーヒー豆でさえもコーヒーを美味しいと感じられなくなり封をあけないまま。
2004年お盆頃には体の不定愁訴を感じるようになり近医の個人病院にて症状を訴える。
その後は、腹部膨満、つわりのような吐き気、食欲不振など。腰、背中の痛みなどもひどくなりはじめる。 食欲不振などは、9月に入ってだされた血糖値を下げる薬の副作用のせいだと本人は思っていたようだけれど・・・。
9月中旬に胃カメラ、大腸の内視鏡検査などをするが近医においては「異常なし」と診断される。 「過敏性大腸」という診断・・・・。大腸の中の小さなポリープをその場で切除されしばらく安静を言い渡される・・・。

その頃母はこの1ヶ月で体重が4−5キロ落ちた。

そして、9月27日ごろには痛みと不定愁訴がひどくなり耐えられずに病院をかわり、県内でも評判の良い大学病院へと紹介状なしで受診・・・。

わずか3ヶ月ちょっとの闘病
2005年1月11日に64歳で永眠してしまいました。

癌・・・特に、膵臓癌の進行の早さ、早期発見の難しさを痛感し、また、近医の個人病院を信じ続けた母のこと・・・超音波の映像を読み取られないのであれば、その検査をせずに 速やかに高次医療、専門病院へ紹介状を書くべきであったのではないかと疑問をいだいてしまう。

どなたかの著書に書かれてあったのだけれど、
膵臓癌の原因はよくは分からないが、
糖尿病を長く患っている女性も膵臓癌になる可能性が高いそうだ・・・。

このことをもし知っていれば・・・母が不定愁訴を感じたときもしくはそれまでに、「膵臓の検査をしてみたら」と アドバイスしてあげられたのかもしれない。
色んなことを考えると悔やまれる。

信じるべき、町の個人病院の医師の質向上をも願う。

末期癌患者に対しての色んな意味のケアや援助をも願う。