■ それでもわたしはわたし 2000年9月記


トキオが生まれたことで、色々と考えさせられる。

ただ確実に言えることは、トキオはトキオ自身がひとつの個として存在し、わたしはわたしとしてのひとつの個として存在しているわけである。 ごく当然のことなのだが、ついつい子供に手をかけすぎてしまいがちになってしまう。 「手をかけず、心をかけよ」。と言われるように。あくまでオブザーバーとしての立場で、 息子の成長をそっと見守り、温かい心で見つめていきたい。

子供がわたしの所有物だとは思わないし、わたしもトキオの母でもあるが、わたしという一人の人間なのである。
トキオにはトキオの選んだ道を歩んで欲しいと思っている。
責任を持った自由意志を尊重した上での自立した大人に成長してくれればと思う。
決して「マザコン」、母親のいうなりの息子にはしない。
自分がどうしたいのか?何故そうするのか?そうすることによって伴う責任をどう果たすのか?すべて自分で考え 自分で答えをだし、そして自分で行動する大人になれば、それで十分である。
なので、わたしも同じ。一個の独立した大人としての責任を果たし、またトキオの母として、ダンナの妻として、仕事する 社会人として。自分で判断し、自分で決定し、責任も自分でとる。
そんなわたしの姿を見て、トキオも何かを感じてもらえればと思っている。

トキオの成長と同じくして、私も親として成長していく面がある。 トキオの年齢だけ、親としての経験を経ていくことになる。 育児の何が正しい、何が間違いという細かい各論よりも、やはり、親として、人として、自分がどう生きていこうと しているのか、どう生きていけばいいのかという総論を感じ取ってほしい。 決して、「木を見て森を見ず」な育児はしたくない。