Religion of Manichaeism
マニ教概説

 

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第一章 宗祖マニとマニ教の成立


 I マニの誕生 


  宗祖マニ(*)の父親パッテグ(イラン語での名。シリア語では、パーティク)は、(伝承では)アルサケス朝ペルシア(パルティア王国)の王族の家系にあり、カスピ海南方のメディア・マグナ地域の都市ハメダーンを故郷としたが、何らかの理由で、古都バビロンを中心とする、バビロニア地域に移住したとされる(従って、パッテグはイラン人=ペルシア人である)。マニの母親については、歴史的には不詳で、伝承では様々に伝わっているが(マリヤム・マイス・カルッサ・ウターヒーム等)、不確実である。彼女も、アルサケス王家につながるセムサラガーン家の出身とされるが、これもマニの血筋を理想化するための後世の潤色と考えられる。

  西暦216年4月14日、パッテグと母親マリヤム(東方マニ教徒による呼称。明らかにイエズスの母の名マリアムの援用。「マリヤム」は普通、ユダヤ教徒またはキリスト教徒の名)のあいだに男子が生まれ、これが後のマニ教の宗祖マニであるとされる(誕生年については諸説があり、西暦208年という計算もある。また誕生月日は、マニ教の祭事暦制定のために、このように決められたもので、歴史的には不明。このことは、イエズスの誕生日12月25日が、ローマ及びゲルマン・ケルトの「冬至祭」の日に割り当てられたのと同じような事情である)。マニの生誕の地は、当時イランを支配していたパルティア王国のアソリスタン(Asoristan)州に属する、バビロニア北部の上ナール・クーター地方の小さな村(城壁都市)マールディーヌ(Mardinu)であった。これはマニ自身が記していることである。

  マニが生まれたばかりの頃(あるいは母の胎内にいたとき)、パッテグは、肉・葡萄酒・性的関係を断てという(天使の)啓示を受け、ユダヤ教の改革派で、グノーシス主義の一派とも見做される、洗礼教団のエルカサイ派に入信した(アラビア語で、「ムダタジラ派」すなわち洗礼派)。エルカサイ派はキリスト教的洗礼集団として、紀元一世紀に伝説の人物エルカサイによって創始され、肉食を禁じ、食物を「清浄」と「不浄」に二分割して、厳格な戒律主義を実践した。また「火」を斥け、「水」こそがすべてを清めるものとして、文字通りに「洗礼」を重視した。

  マニが四歳になったとき、父親パッテグは息子を、自分が居住していたエルカサイ派の共同体に呼び、これ以降マニは、エルカサイ派共同体のなかで、その厳格な禁欲主義と、キリスト教、ユダヤ教、洗礼教団の神話や伝承、教義に親しみつつ成長する。エルカサイ派の食物戒律をマニは学び、後に「精霊(天使)」の天啓を受けて、自己の教えを宣明するにおいて、これを否定するが、マニが初期に否定したこの食物戒律は、マニ教団が成立して後、形を変えて提唱される。また、幼児期から青年期にかけて、エルカサイ派のユダヤ教・キリスト教的知識のなかで育った結果、マニの教えには、これらの宗教の神話規定が組み込まれることになった。

  (マニは幼少期から青年期まで、その父親と共に、キリスト教的・グノーシス主義的背景を持つ洗礼教団の共同体で過ごしたが、彼は父パッテグがそうであるように、イラン人(ペルシア人)であり、イランの伝統文化と、この当時には、民族宗教とも言えるゾロアスター教の神話や教義にも親しんでいた。イランの地は、アレクサンドロス大王の征服とヘレニズム文化の展開の後、紀元前2世紀、イラン東北地域に興ったパルティア人によって、アルサケス朝ペルシアの形で大帝国が再建された。それ以降、とりわけ後継するササン朝時代に入って、東西の多様な宗教が洪水のようにこの地に流れ込んだ。西からは、ユダヤ教、キリスト教、グノーシス主義が流入し、なかでもユダヤ教は、バビロンを第二の総本山ともして大いに興隆した。また、東からは、ヒンドゥー教に加え仏教が伝来した。マニはこれらの諸宗教の教えを学び取っていた)。

  (* 註):マニ(Mani)という名が、語源的に中世ペルシア語であったのか、アラム語であったのか、現時点では私(Marie RA.)には分からない。ギリシア人はマニを、Manys (Μανυς gen. Manytos/Manentos/Manouと表記し、ラテン語では、Manes gen. Manetis と表記されていた。一方で、聖アウグスティヌスは、Manichaeus と常に表記していた。この名の形より「復元形」を造るとき、Mani という形になるのかも知れない。他方、Mani という名は、個人名ではなく、マニ自身が名乗った「称号」だとも云われている。この場合、バビロニア・アラム語の Mana から派生した言葉で、マンダ教徒たちは、この Mana を「光の霊」の意味で受け取っていたとされる。非常に不確実ではあるが、Mani とは、「光輝ある者・輝ける者」という意味を含んでいると考えられる。それでは、マニ本来の個人名は何であったのか、それは普通の「アラム語の名」であったらしいとしか分からない。



  
 II 天啓を受ける 

  マニが12歳となったとき、光の園の王よりの使者である天使が彼を訪ね、マニは天よりの啓示を受けた。西暦228年のことで、アルサケス朝ペルシア(パルティア王国)を滅ぼし、ササン朝ペルシア帝国を建国した「王の王(シャーシャーハーン)」初代アルダシール王(アルタクセルクセスの中世ペルシア語対応名)の治世二年のことであったとされる。

  マニに啓示を与えた天使の名は、ナバティア語で「アル・タウム」と呼ばれた。これは「同伴者」の意味であるが、マニ教が広範に布教されるにつれ、当時の西アジアの共通語であったアラム語で「タウマ(双子)」(*)と呼ばれ、またもう一つの共通語であったコイネーギリシア語では、「シュジュゴス(同伴者・配偶者)」と呼ばれた。更に、マニ教が西方に伝播すると、同じくギリシア語で、「パラクレートス(聖霊・仲介者・弁護者)」の名で呼ばれた(東方に伝播したとき、この天使は「マイトレーヤ」と訳された。すなわち西方のミトラであり、仏教の菩薩として、漢訳されて「弥勒」である)。マニは、「活けるパラクレートスが天よりわたしの元に降り、私と親しく言葉を交わした」と述べた。

  マニは、彼の天的同伴者である天使アル・タウムが彼に与えた「奥義」の知識を元に、彼が所属したエルカサイ派の教義を吟味して、数々の矛盾を見出し葛藤した。しかし、マニのこの若き日の精神的苦闘は、マニが24歳となり、ササン朝第二代の王であるシャープール一世が、アルダシール王の共同摂政として戴冠即位した西暦240年に回答を得た。この年、崇高な美しさを持つ「マニの鏡像」である、かの天使アル・タウムが再び彼の元を訪れ、第二の天啓において、マニを預言者・救済者・使徒として召命した。ここに、マニ教が誕生したとも言える。

  西方のマニ教典である『ケルンのマニ写本』には、エルカサイ教団の戒律とその教えに対し異議を明確に唱え、「新たな教え」をもって、エルカサイ派の信徒・長老たちと議論するマニの姿が描かれている。ここではマニは、福音のイエズスの姿になぞらえられ、イエズスがユダヤ教の長老たち、律法主義者たちに反駁するのと同様に、マニはエルカサイ教団の戒律・教義を批判し論駁する。

  マニはエルカサイ派の律法を激しく批判し矛盾をあげつらった。この自信と情熱に満ちたマニの姿は、或る人々には、反発と猜疑を招く他方、別の人々には尊敬と賞賛をもたらした。後者の人々のなかには、マニを新たな教祖と見る者や、天啓を授かった預言者、幻視者と見る者もいたが、前者の人々のなかには、マニをアンティクリスト、偽預言者、教団に分裂を招く煽動者と見る者もおり、マニは死刑に処すべきだとの意見もあった。事態を重視したエルカサイ教団の指導者シタイオスは長老会議を開き、マニを召喚して、その場でマニに弁明を求めた。マニは、キリスト教『新約文書』(*)のイエズスの言葉をもって自己を正当化し、更に、教団の創始者であり、戒律の制定者であるエルカサイ自身をも引き合いに出して自説の正統性を主張した。

  (* 註):マニが啓示をもたらした天使を「同伴者(アル・タウム)」と呼んだことは、この天使が「パラクレートス」とも呼ばれていることから考えて、マニ自身かマニ教信徒が、『ヨハネ福音書』の記述を念頭していたことが前提にあると考えられる。「タウマ(同伴者)」という呼称は、ヘブライ語の「TW#M(双子)」と同根の言葉であり、これは、使徒トマスが『福音書』でしばしば呼ばれている(実質的には「二重呼称」になる)綽名の「διδυμος, didymos (双子・ディデュモス)」を前提にしていると思える。インドに布教したとされる使徒トマスについては、イランを含めて東方世界では馴染みが深く、ここでは、マニ自身あるいはマニ教布教者が、「イエズス : トマス(=双子・タウマ)」の対を「マニ : タウマ(パラクレートス・聖霊)」として適用し、マニに救世主イエズスを重ね合わせているのだと考えられる。(「トマス(Τωμας)」という名は、「双子」を意味するヘブライ語またはアラム語の言葉を、ギリシア語化した形である)。

  (* 註):『新約文書』という表現は普通ない。ここでは、キリスト教側が「正典」を確定する時期以前の「新約聖書関係文書」一般を指してこう呼んでいる。西暦3世紀前半から中期にかけては、『新約聖書・正典』を構成する文書はすべてが作成されていた。しかし、それ以上に多数の後に「外典・偽典」とされたキリストやその弟子たちをめぐる広義の「福音の書」が記され存在していた。イランにはネストリウス派キリスト教が勢力を伸張させていたが、様々なキリスト教関係文書が、正典・外典の区別なく流布していた。マニ教はこれらの記述や神話枠を当然援用した。これらの文書一般を、『新約文書』という名称で総称した。



  
 III 預言者の印璽 

  『ケルンのマニ写本』が伝えるマニの反エルカサイ活動は、マニの新宗教の出発を、イエズスの影像としてのマニの言動に映し出すことで、その劇的な幕開きを示唆している。しかし歴史的には、このような反エルカサイ論争が存在したのかどうか不確実である。マニは天使の啓示と新たな教え(マニ教)の真髄を、彼自身の父親とごく親しい者だけに伝えた。エルカサイ派との訣別は、訪れるべくして訪れたのであり、マニは新たにマニ教の帰依者となった彼の父親パッテグと、数人の信奉者と共に、ダストゥミーサーンにあった洗礼教団の共同体から離れ、「ときはおとずれた」と宣明したイエズスに倣って、彼のヴィジョンを説き明かすため伝道の旅へと出立した。

ペルシア中心部地図
  マニが最初に中世ペルシア語で記し、彼の庇護者ともなるササン朝第二代の王であるシャープール一世に献げた『シャープーラカーン』には記されていないが、マニの教えは、ユダヤ教的律法主義を否定して、「再臨のキリストの愛」を説いたパウロスの神学とその福音の教えに深く影響され、共感していた。旧弊なユダヤ律法主義を回帰的に提唱したエルカサイ教団の教義にマニはもはや真理を見なかったのである。マニはかつてダマスコスへの街道で神の光に出逢い、啓示を受けて甦りのいのちを得、遙か小アジアの諸都市や、ローマまでも伝道の旅を続けたパウロスに倣って、彼の福音の旅を始めた。パウロスは、ユダヤ人やギリシア人に「再臨のキリストの福音」を伝えたが、マニが伝えるのは、彼マニ自身が、再来のパラクレートス(聖霊)の鏡像だという真理であった。

  父親と二人の帰依者から成るマニ教の「小さな群」は、セレウキア・クテシフォンを出発点に、北東のディヤラを経由してメディア山脈へと向かった。彼らは更にアゼルバイジャンへと進み、ウルミア湖の南のガナザックにおいてマニは或る富裕な男の娘を癒した。マニたちは、コーカサスとインドのあいだに散在して居住するユダヤ人キリスト教徒の集団へと彼らの福音を伝道して行った。マニは父と共に、アゼルバイジャン錫の交易路、すなわち、西のアルメニア辺りより、ペルシア湾に面するファールス地方の港メセーネーまでの道を往還した。この道は、二世紀前、『トマス行傳』に描かれる使徒トマスが伝説のインド伝道に際し通過した道だった。メセーネーより更に、インダス河口の町デーブへと海路がまた通じていた。

  伝承では、マニは、インドにも伝道の旅に出、イラン高原の東の端に当たる、シースタンの南、トゥーラーンの仏教王をマニ教に改宗させたと云う。後のマニ教伝承で華々しくこの改宗の奇蹟譚が語られるが、史実とは考えられない。マニは仏教徒のあいだで伝道したのではなかった。こうしてマニの最初の伝道の旅は、二年間ほどで一つの区切りを得た。収穫はささやかなものであったが、新生マニ教は、それなりの地域に広がった帰依者の群を獲得した。マニはパウロスを見倣ったが、彼の説く福音は、イエズスの(すなわちキリストの)再来としての「パラクレートス=マニ自身」の救済のメッセージであった。マニは彼自身の著作であるアラム語マニ教教典『福音書』のなかで、次のように述べている:

キリストによってパラクレートス(聖霊・慰安者・弁護者)と呼ばれたのは、他でもない彼(マニ)であり、彼こそは「預言者たちの印璽」である。

  「預言者の印璽」とは、後にイスラーム教の開祖ムハンマドも自称する、ユダヤ教的概念で、至高の神より派遣された歴代の預言者の天啓を最終的に総合し、「封印としての天啓」を述べる最後の預言者の称号である。マニはこのユダヤ教固有の預言者論を、彼なりに適用し、マニ教的世界主義の息吹をそのなかに導き入れ、特定の民族に限定されない、世界市民的救済の宗教を声明した。『シャープーラカーン』のなかで最初に明言し、後の聖典『巨人たちの書』において一層明確に記述した預言のなかで、マニは宣言する:

智慧と認識は、世(アイオーン)から世(アイオーン)へと、神の使徒たちによって、絶えることなく継承されて来た。こうしてある時代には、ブッダという名の使徒によってインドの地にそれらは齎された。また別の時代には、ザラトゥストラによってペルシアの地に。更にまた別の時代には、イエズスによって西方の地に齎された。そして、現在の世の末にあっては、この私、すなわち真理の神によってバビロニアの地に遣わされた私マニによって、この天啓が降され、この預言が示された。

  マニは、人類の始祖たる預言者アダムより初め、その息子・預言者セト、その子孫・預言者ノアなどを通じて、至高の神よりの預言は連綿として人類にもらされたのであり、東にはブッダが預言者・覚者として人々を導き、西ではイエズスが預言者にして覚者として智慧を開き、中央のこの世界では、かつて覚者ザラトゥストラが真理の教えを伝えた。いま再び、中央世界なるペルシアの地で、私マニが預言者として、その「印璽」として神より遣わされ、「真理の智慧と預言」を、この中央世界に、また東方世界に、更に西方世界に、「光の地」の至る処に伝えるのである、と宣明しているのである。「預言者の印璽マニ」の福音、すなわちマニ教は、その最初から世界普遍主義的な志向を持っていたのである。



  

世界宗教としてのマニ教の構想

預言者の印璽−世界宗教としてのマニ教の構想

mani-shwing
預言者イエズス(キリスト教開祖)

預言者イエズス
預言者ザラトゥストラ(ゾロアスター教開祖)

預言者ザラトゥストラ
預言者マニ(マニ教開祖)

預言者マニ


Noice et Marie RA.

( 第一章第三節完・続 )