[ノイス・グ ノーシス主義論考]

反宇宙的二元論とヤルダバオート



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  本文書は、Miranda が運営するサイト、Khoora Mirandaas の「神秘主義とグノーシス主義 II」に収載されている論文乃至評論文ですが、Khoora Mirandaas サイトをブラウズされていない人の可能性も考え、本サイトに、その中心部分を転載することとしました。元の文書には、もう少し飾りの文章があり、また、同じページには、グノーシスの達成段階についての別の文書も収載されていますが、これは、転載しておりません。興味あられる方は、Khoora Mirandaas サイトを参照してください。



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     【序詩】

Lord Jaldabaoth

bei Noice

泥の森に迷う時
涙のクリスタルは美しくはないだろうか
主ヤルダバオトは黄金の獅子にして
人の諸価値を定めたまう
王者の道と賢者の道
象牙と金の玉座 〔
カテドラ〕 をローマに定めたもう
聖ナイルの泥の水は
白鷺を遊ばせ
その姿は優雅にして紫のあやめを見る
白鷺の瞳の青にあやめは映え
一面の泥の世界
水に蔽われし此の世のさなかに
レートー・タトの追憶の音色が響く
エジプト琴の月の反射に
世界創造に先立つ死が思い起こされる
主ヤルダバオトの権威をあがめ
ぼくたちは泥に生まれ泥に朽ちる
王者と賢者は称えられてあれ
幾億の涙と屈辱よ忘却されよ
傷みの故の憎しみよ涙と帰れ
ただ灰色の水の反復
泥に重ねる泥の歴史
主ヤルダバオトの象牙と黄金は星界へと去り
われらの耐えし涙と屈辱の故に
ただひとときナイルの泥のなかに
レートー・タトは透明のクリスタルを光らせるでしょう
泥の森に迷う時
失なわれたときは美しく
失なわれた少年たちは甘美であるでしょう
主ヤルダバオトの御稜威のもと
わたしはかく祈りかく歌う

                               Noice et Mirandaris  19830801:0000
                               Miranda et Marie RA. 19951228:0665


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Der Akosmischendualismus und Jaldabaoth

反宇宙的二元論とヤルダバオト

bei Noice
1991

序章

            序 章

  〈反宇宙的二元論〉という言葉は、一般にあまり知られていない言葉である。しかしこの言葉は漢字であるので、それなりに何となく意味が理解できるのではないかと思う。しかし、標題に掲げたもうひとつの〈ヤルダバオト〉とは何のことなのか、おそらく即座に理解される人は極めて少ないであろう。これらは実は、グノーシス主義と呼ばれる、キリスト教史における、その初期最大の異端とされる諸派に関係して使われる用語である。

  ところで、「グノーシス主義」というものが、実際にどのような思想あるいは信仰の体系であったのか、実は、二十世紀の半ばを過ぎるまで、明確には知られていなかったという事実がある。何故知られていなかったかというと、キリスト教側における反グノーシス活動があまりに熾烈であったため、グノーシス主義の基本教典とか主要文書類が、カトリック教会によって徹底的に破壊消滅させられたためである。そのため、二十世紀に入って、グノーシス主義の分析心理学的な意味を探ろうとして、グノーシス主義の研究に取り掛かったC・G・ユングは、その基本的文献の欠如の故に、研究の断念を表明せざるを得なかった。二十世紀半ばまでは、グノーシス主義について書かれた文献は、新プラトン主義の哲学者である西暦三世紀のプロティノスが著した『エンネアデス』中における『グノーシス主義に対して』という短い論文と、後は、エイレナイオスとかヒッポリュトスといった、キリスト教護教家による、否定的な文脈での、反駁的なグノーシス文献の引用だけであった。

  この事態は、四世紀ないし五世紀以降、二十世紀の半ばまで、変化がなかったのであるが、一九四五年から四六年にかけて、エジプトのナグ・ハマディにおいて発見された、コプト語パピルス・コーデックスによって大きく変化した。現在、ナグ・ハマディ写本と呼ばれているこれらの諸コーデックスには、時間の中で湮滅したはずの、オリジナルのグノーシス主義の基本教典が、その他の文書と共に含まれていたのである。

  さて、私のこの文書の主題は、ナグ・ハマディ写本の内容を説明するものでも、グノーシス主義を全体的に鳥瞰することでもない。初期キリスト教において、正統教会、すなわちカトリック教会より、異端として排斥されたグノーシス主義における、〈反宇宙的二元論〉という思想と、〈ヤルダバオト〉という固有名の説明をして、一つの世界観・宇宙観のアウトラインを簡単に描くことである。この世界観・宇宙観がどういう意味を私にとって持つかは、アウトラインを描いた後に、もう一度論じることとする。



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第一章

            I

  今日の研究によれば、グノーシス主義というものは、キリスト教の異端ではなく、実はキリスト教とは発生起源を別とする異教であったという考えが一般である。しかし、紀元一世紀から四世紀頃の地中海世界の思想や信仰のありようを眺めると、ローマ帝国の文明の爛熟期にあって、あらゆる思想・信仰はいずれもシンクレティズムの様相を帯びていたのであり、おそらくその最たるものがキリスト教であったのであり、その一方で、グノーシス思想が、キリスト教的テクスト、すなわち旧約聖書および、新約聖書の基幹をなす、福音書とかパウロスの書翰を、その思想システムを表現するための素材として利用したということは事実なのである(福音書でも、『ヨハネ福音書』などは、その成立の当初から既にしてグノーシス主義の影響を受けていたことが確認される。この福音書だけは、他の三つの福音書と幾分懸け離れたキリスト理解と解釈を示している)。荒井献は、ナグ・ハマディ写本中の諸文書を分類して、「非キリスト教的グノーシス文書」「キリスト教化しつつあるグノーシス文書」「キリスト教化したグノーシス文書」「ヘルメス文書」といった分類見出しを与えている。この分類見出しから明らかなように、グノーシス主義とキリスト教のあいだで、思想あるいは信仰の形態が連続的に存在したということであり、逆に言えば、キリスト教の一つのヴァリエーションとしての異端ではなく、キリスト教とは独立した思想原理の上に立つ教えであったが故に、グノーシス主義というものは、キリスト教にとって、大きな敵対勢力であったとも言えるのである。

  キリスト教は、福音書に見られるイエスの言説行為と、パウロスの諸書翰に典型的に見られる新約思想、つまり、イエスを犠牲とする、神との新しい関係・契約、無償の愛の神という信仰概念を、旧約の義による契約の神の概念と調和させようと、様々に思想的・信仰的に試行錯誤を繰り返した。しかるにグノーシス思想は、〈反宇宙的二元論〉と、世界創造者としての〈偽の神〉と、救済者としての〈真の神〉の二つの神の対比というきわめてシンプルな信仰概念を元に、新約聖書の原典を自在に改竄し、また旧約聖書の記述を、勝手に都合のよいように解釈して、ユダヤ教徒にとっても、キリスト教徒にとっても、到底受け容れ難い神話を構成した。ユダヤ教徒にとっては、義である神との契約は、神聖にして侵犯すべからざる信仰原理であったのであり、またキリスト教徒にとっても、イエスの十字架上における贖罪の死という事実は、神聖なる信仰原理だったのである。

  しかし、グノーシスの諸派は、別の信仰原理を立てていたのであり、それ故に、旧約聖書の神ヤハウェは、偽りの神であったとか、イエスは真実には十字架上で死ななかったと言った、正統ユダヤ教徒や正統キリスト教徒にとっては、冒涜とも言える主張を平然と説いたのである。(キリスト教内部においても、イエスは三一の神の一位格ではなく、神より遣わされた最高の預言者であり、〈人間〉であったとする考えなどがあり〔アリウスの説〕、その正統教義であるニカエア信条〔アタナシウスの説〕が必ずしもキリスト教徒全員に自明なこととして認められていたわけではないが、グノーシス主義者の主張は、しばしば極端に過ぎることがあり、そのことは、グノーシス主義の影響下に明らかにある、『トマスの福音書』というナグ・ハマディ写本中の文書が、正統カトリックの教義と容易になじまないことからも明白である)。



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第二章

            II

  グノーシスの諸派と私が言ったのは、グノーシス主義は、その教祖毎に、あるいはその信仰系統毎に様々なものがあったのであり、これが決定的と言えるような統一的なグノーシス主義というものは事実上存在しなかったからである。このことは、初期キリスト教についても同様に言えることであるが、初期キリスト教は、一大勢力を誇ったマルキオンの教説を排斥するため、〈神〉を、旧約聖書、新約聖書共通のものとし、それぞれにおける神の現れ、すなわち、旧約における義にして契約の神と、新約における善にして無償の愛の神という二つの神のモードを調和させるために、旧約聖書の記述を、象徴的に解釈する道を選んだ(マルキオンは、旧約の神と、新約のイエスの父なる神という二つの神を峻別したが、他のグノーシス主義諸派とは異なり、宇宙創造神話を新たには構成しなかった。マルキオンの教えでは、新約のイエスの父なる神は、この宇宙を創造した旧約の神、すなわちヤハウェとは別の神であるが、ヤハウェの上位に立つ、〈真の神〉というわけではなく、新約の神は、いわば〈異邦の神〉であり、この宇宙とはまったく関係のない神であり、まことに根拠なくして、無償の愛と救済を人類に与えてくれる神である。マルキオンのこの教説は、グノーシス主義としても特異な形態のものである)。キリスト教の公的な教えでは、旧約の義と契約の神と、新約の無償の愛の神は、同じ神の二つの現れであり、イエスが、「父よ〔アッバ〕、我が父よ〔パテール・ムウ〕」と呼び掛けた〈神〉は、旧約のテトラグラマトンの神、すなわちイェホヴァあるいはヤハウェである。だが、グノーシス主義においては、旧約のヤハウェと新約のイエスの父なる神は、また別の神である。様々に分化し、教義的にも多様なグノーシス主義諸派の教えのなかで、どの教説においても一致して強調されるのは、旧約の神は、確かにこの世界・宇宙を創造した神ではあるが、〈偽の神〉であり、この偽の神の上位に、偽の神を創造したところの〈真の神〉が存在するはずであるという考えである。

  グノーシス主義が説く、この〈偽の神〉こそは、グノーシス主義に一般な、プラトンの哲学用語から流用された、世界創造者という意味の〈デーミウルゴス〉という名で呼ばれる神、あるいはアルコーン〔支配者〕である。〈ヤルダバオト〉は、多くのグノーシス文献において、〈第一のアルコーン〉とか、または〈デーミウルゴス〉そのものの名前で呼ばれる。

  グノーシス主義に一般する世界・宇宙創造論は、極論すればすべて空想の産物である。しかし、それらが執拗に強調することは一つである。すなわち、この世界・宇宙――我々人間が、生まれ生き、やがて死んで、土へと崩れて行く〈この世〉――は、〈真の神〉ではない、〈偽の神〉であるデーミウルゴスが創造したものであり、土や塵へと分解して行く我々のこの肉体も、あるいは肉体の死と共に崩壊するこの儚い魂も、共に、〈偽の神〉であるデーミウルゴスが創造したものである。

  『この世の起源について』とか『ヨハネのアポクリュフォン』といったグノーシス教典において、〈ヤルダバオト〉と呼ばれている、デーミウルゴス、すなわち〈第一のアルコーン〉は、世界・宇宙を創造したのは自分であると主張し、更に、自分以外に別の〈神〉はいないと主張する。例えば、旧約聖書の『イザヤ書』四十六章九節で、ヤハウェ(従って、グノーシス主義の考えよりすれば、デーミウルゴス、ヤルダバオト)は、こう言う、「われは神なり。われのほかに神なし。われは神なり。われのごとき者なし」と。またヤハウェは、「汝は他の神を拝むべからず、其はイェホヴァはその名を嫉妬〔ねたみ〕と言いて、嫉妬む神なればなり」とも主張する。しかし、グノーシスの教説者が一様に主張する通り、もし〈神ヤハウェ〉が唯一の神で〈真の神〉であるなら、何故、かくも「われのほかに神なし」「われのごとき者なし」「われは嫉妬深き神なり」という主張を執拗に繰り返すのであろうか。グノーシス主義の教説者たちは、これこそ、旧約の〈神〉がデーミウルゴスでありヤルダバオトであり、第一のアルコーンである証左であると見做す。一体、唯一の〈真の神〉がヤハウェであるなら、何故ヤハウェは「自分に比較できる者はいない」と、わざわざ主張し、更に「われは嫉妬深き神である」と主張する必要があったのであろうか。デーミウルゴスが〈唯一の真の神〉であるなら、一体誰に嫉妬する必要があるのか。グノーシス主義の教説者は、この事態を解説して、それは、デーミウルゴス、すなわちヤルダバオトが、実は自分自身で、自分より上位に〈真の神〉あるいは〈真のアイオーン〉が存在することを知っていたためであると言う。ヤルダバオトは、自分が創造した諸天使に向かい、自分は嫉妬深い神であると述べるのであるが、この言葉から逆に、天使たちは、ヤルダバオトの上位に別の〈真の神〉が存在することを知ってしまうのである。



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第三章

            III

  グノーシス主義はこのように一様に、〈真の神〉と〈偽の神〉あるいは、上位の真実の存在創造のランクと、下位の宇宙のありようの創造のランクを峻別する。〈この世〉つまり、可壊で命に限りのある世界・宇宙は、実は下位の諸アルコーンの創造によるものであり、就中、第一のアルコーンであるデーミウルゴス、すなわちヤルダバオトの創造の技であると解釈する。人間は、真の宇宙と存在の根源に近づけない故に、塵となる肉体に閉じ込められ、肉体の崩壊と共に無に帰する魂を持つと考えられる。しかし、ヤルダバオトは〈この世〉の支配者〔アルコーン〕であるとしても、上位の存在の意味と根拠の〈真なる神〉ではないのである。この〈真なる神〉は、グノーシス主義において、普通、〈ビュトス〔深淵〕〉とか〈プロパテール〔原父〕〉とか呼ばれ、またヤルダバオトの上位に位置する存在の真実の界〔アイオーン〕のことを、〈プレーローマ〉とか〈オグドアス・アイオーン〉という風に呼ぶ。グノーシス主義の教義の一つの大きな特徴は、人間が霊〔プネウマ〕と魂〔プシューケー〕と肉体〔サルクス〕の三つから成り立っており、この裡、魂と肉体はデーミウルゴスの創造になるものであるが、霊〔プネウマ〕は、複雑な過程を経て、オグドアス・アイオーンあるいはプレーローマに由来しているものであるという主張である。人間は魂と肉体において〈この世〉に存在する者としては、極めて惨めな存在であるが、霊を持っていることにより、ある表現では、プレーローマ界の火花を魂の裡に秘めているが故に、〈救済〉の可能性を持つ存在なのである。〈偽なる神〉にして世界創造者たるヤルダバオト、また〈真なる神ビュトス〉、オグドアス・アイオーン、プレーローマ界、そして霊〔プネウマ〕の破片を持つが故の人間の〈救済〉の可能性は、これら自身が秘密であり、秘密にして真実の知識であるが故に、グノーシス〔真知・叡智〕と呼ばれる。

  グノーシス主義者によれば、この真知・叡智〔グノーシス〕を知って、〈この世〉は偽りの世界であるということを認識することが大きな悟りなのである。ヤルダバオトあるいはデーミウルゴスによって創造された、肉体も魂も朽ちて行く〈この世〉すなわち〈この宇宙〉〔コスモス〕、それに対しグノーシスを知ることによってやがては帰還して行ける永遠の世界である〈プレーローマ〉の世界・宇宙〔アイオーン〕。この二つの宇宙あるいは世界が、グノーシス主義における、〈反宇宙的二元論〉を構成するのである。反宇宙的とは、デーミウルゴスが創造した世界・宇宙を受け入れないという意味での〈反宇宙的〉であり、二元論とは言うまでもなく、〈真の神〉と〈偽りの神〉の、そしてヤルダバオトの創造したこの宇宙と、プロパテールの創造になる〈プレーローマ〉の二元対立である。

  C・G・ユングは、この世界における〈悪〉の問題を取り上げて、〈悪〉とは聖トマス・アクィナスの正統神学に言うところの〈善の欠如〉ではなく、〈実在〉としての積極的・活動的な存在であると主張している。ユングの言う〈悪〉とは、グノーシス主義における、世界創造者〈デーミウルゴス〉の存在と作用を指しているものと考えて間違いないであろう。この世には何故、不公平や不正や悪や悲惨な事々があまたあるのであろうか。それに対する哲学的解答としては、唯物論や仏教思想の主張を考慮外におけば、聖トマスの教義か、またはそれとほぼ同質のライプニッツの考えか、あるいは、ゾロアスター教やマニ教、そしてグノーシス主義の主張する善・悪の二元論しか答えがないのである。ユングは第一次世界大戦を体験し、更に第二次世界大戦終結の後の時代まで生きていた。〈悪〉は現実的に〈力〉を持つアルコーンなのであろうか。それとも善の欠如か、世界が最善の状態を維持実現するにやむを得ない最少限の痛みなのであろうか、あるいはそのような形而上学的概念とは無縁に、唯物論的に、あるいは仏教的思想的に、人間が集まれば自然と〈悪〉が生まれるのであろうか。私自身としては、グノーシス主義の〈反宇宙的二元論〉を私の考え・解答としたいと思う。一元論的に考えれば、善なる神が創造したこの宇宙に何故〈悪〉が存在するのか理解できないし、もっと素朴に唯物論的に解釈して、あるいは仏教的思考の脈絡において、善も悪も共に変わりなく現象であって当事者である人間にとっては相対的であるとしても、それは現象論的な見掛けの答えにはなっても、人間の生と死、この宇宙の存在に〈意味〉を求める、宗教的・形而上的要求を到底満たしそうにないからである。〈反宇宙的〉というのは、この世界を否定するということである。事実、グノーシスの教師たちは、この世界を否定するということを身をもって実践した。しかしグノーシスの教師たちにしても、〈この世〉がある意味で、ある稀な瞬間においては、美しく、神の御意にかなっていると言うことを認めないではいられないであろう。それは、デーミウルゴスの創造した世界に紛れ込んだ、プレーローマ界の善美の破片なのかも知れない。とまれ、この世界が時として、限りなく美しく思えることも含めて、私は〈反宇宙的二元論〉の立場を取る。それが正しいか否か、それは人間の思考や議論を越えたものであろう。



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第四章

            IV

  さて、グノーシス主義は先に述べた通り、グノーシス〔真知〕というものを重視する。このグノーシスの中には、人間の魂の中に、プレーローマ界の霊の破片が含まれているということが主張されている。人間は、その魂の中のプレーローマ界の破片よりすれば、実は、諸アルコーンよりも、第一のアルコーンであるヤルダバオトよりも優れた存在なのである。だが、私たちがこの世で現実に出会う様々な出来事は、私たちは存在物の中でも、もっとも惨めな存在ではないのかという疑念を引き起こすに充分である。この世の鉄の鎖の秩序の中で私たちが流す涙は、グノーシス主義の教えより見ても、正統キリスト教の教えより見ても、あるいは仏教思想より見ても、まことに甲斐のないものである(大乗仏教的には、諸行は無常なのであるから)。実際、旧約聖書『伝道の書』の四章一節は次のように述べている、「茲〔ここ〕に我〔われ〕身を転〔めぐら〕して、日の下に行はるゝ諸〔もろもろ〕の虐遇〔しへたげ〕を見たり。嗚呼、虐げらるゝ者の涙ながる。之を慰むる者あらざるなり。また虐ぐる者の手には権力〔ちから〕あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり」。この二千年以上前の文章を引用するまでもなく、二十世紀の今日においてさえ、力や富や地位によって、他人を虐げる者の数多く存在することを、私たちは知っている。ある場合には、私たち自身がこの虐げられる者の立場に立っていることもある。これは社会矛盾であるが、これに対しどのような回答が今日あり得るであろうか。

  「虐げられる者の涙、これを慰める者とてなく、虐げる者、彼等の手には権力がある」というのが、今日においてもなお真実でないだろうか。確かに、イエスは、「幸福〔さいはひ〕なるかな、悲しむ者、その人は慰められん」と言い、また「されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗〔てむか〕ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんぢらを訴へて下着を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。なんぢらに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな」と言った。仏教も貧者への救済を述べ、イスラム教もまた、その信徒の義務としてザカート〔喜捨〕を数えている。しかし、これら多数の文化的・宗教的な倫理的指示にもかかわらず、〈この世〉を総体として眺めれば、そこには何と無数の「甲斐ない涙」、「報われることのない悲嘆」の数々が存在することであろうか。

  ――餓死して行くアフリカの難民、カースト制と慢性的な貧困に見舞われているインド亜大陸、災害に見舞われるバングラデシュやフィリピン、これらは二十世紀の現在の問題であって、イエスや仏陀の時代の問題ではない。私は、グノーシスの教義がこれらの悲惨な出来事を解決できるとは信じていない。だが、それでは、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、仏教にせよ、どの既成宗教がこれらの問題の解決となり得るのであろうか。グノーシス主義は、人間がこの世に生きて生活しながらも、その本質は、プレーローマ界にあると主張する。敬虔なユダヤ教徒である賢人マルティン・ブーバーは、ナチスによるユダヤ人大虐殺の後で、ユダヤ教の聖典である旧約聖書を手から取り落とし、「これが、何の役に立つのか、何の役に立つのか」と絶望の叫びをあげたと聞く。〈悪〉は存在し、ナチス・ヒットラーは、人類に対する歴然たる〈悪〉であった。しかし戦争中において、人々がヒットラーを熱狂的に支持したことも事実である。宗教は近代・現代にあっては、平和的機能として無力であった。私はそれだから、グノーシス主義が正しいと言うわけではない。ヨーロッパ中世にあって絶大な民衆の支持を受けたが、その死後、教会によって、その著作はすべて異端とされたマイスター・エックハルトが、人間の魂の中には、〈霊の火花〉が宿っており、この火花によって至高の神と人間は結ばれているのであると主張したことを思い起こすと、カール・グスタフ・ユングではないが、人間の魂の中には、〈神の刻印〉が宿っていると私は信じる気になる。虐げられた者には何時か〈救い〉があるのかも知れない。しかし〈この宇宙〉の現実の姿を見る時、私たちは、虐げられた者の涙は甲斐もなく流れ、黄金の獅子にして支配者たるヤルダバオトは、人間の運命を掌の上で弄んでいるようにも思えるのである。



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終章

            終 章

  グノーシス主義は、「この世の悪の起源」の疑問への探究に対する一つの答えとして出されたものと理解することができる。事実、C・G・ユングは、最晩年のモノグラフの傑作において、旧約の嫉妬深い義と契約の神と、新約の無償の愛と救済の善の神の対立を、旧約聖書『ヨブ記』の独自な解読によって、かつてキリスト教国の誰も考えなかったような関係において把握しようとした。このモノグラフ『ヨブへの答え』によれば、旧約の神ヤハウェは、人間で言うならば無意識状態にあったのであり、旧約の神の様々な気紛れな残虐さや、その矛盾した行動なども、神が無意識であるが故のためと説明される。だが、神は新約のイエスの父なる神となった後でもなお、その無意識的な活動を停止していないように私には思える。旧約の義の神は、自己自身を意識化することによって、新約の無償の愛の神となったのであるが、それと呼応するように、旧約においては中立的な立場にあった天使サーターンが、〈悪魔〉あるいは〈堕天使〉として、〈この世の悪〉の原因とされるようになった。キリスト教神学に興味のない人にとっては、このような議論は何の意味もないことのように映るであろうことを、私は勿論理解しているつもりである。しかし私にとっては、世界・宇宙における善と悪の問題を考えるにおいて、まず依拠すべきは、キリスト教的な思考であったということはどうしようもない事実性なのである。

  私はグノーシス主義者ではないし、厳密にはキリスト教徒でもない。しかし私がこの世界・宇宙を眺め、そのなかの不合理な面、不公正な出来事、〈悪〉の実在の効果としか言いようのない事象に直面する時、私はそれらをただに〈事実性〉とか〈現象的事実〉といった抽象的表現で把握するには満足できないことも事実である。私は、人格的な悪意を持った〈悪魔〉あるいは〈堕天使〉が、歴史と現代を通じて、人類に、そしてこの世界に干渉していると言った単純な見解を取るわけではない。しかし、何であるか不明であるがとまれ、〈悪意の勢力〉あるいはユングの言う〈無意識的な悪意〉の宇宙的実在に関心を持たざるを得ないのである。「この言葉の解釈を見出す者は死を味わわないであろう」というのは、『トマスの福音書』の冒頭に置かれている言葉である。キリスト教においては、〈死は罪の棘〉であると考えられる。そしてイエスが十字架上で死んだことによって何が救済されたかと言えば、それは「死よりの救済」であった。だが、キリスト教徒でない私は〈最後の審判〉を信仰することはできないし、〈死者の復活〉を信仰することもできない。『トマスの福音書』において、トマスは実はグノーシス〔真知〕を告げているのである。だが、トマスの語る〈真知〉によって、私は救済がなされるとは信じることができないし、ましてやマルキオンのように〈異邦の神〉に確信を持って信仰を寄せることはできない。

  これらは、私の理性が、私の感傷性あるいは信仰の心を引き留め、抑制するのである。理性的に判断すれば、神の救済も悪の霊もグノーシスも最後の審判も不合理の一語に尽きるであろう。だが、〈詩人〉としての私は、心私かに希うのである。ヤルダバオトは自らを〈主〉すなわち〈アドーナイ〉だと称している。諸アルコーンたちは星界より訪れ、やがて星界の彼方に去って行く。後には破滅した〈地球〉と滅び去った人類の遺跡が残されるであろう。だが私は、ヤルダバオトの預言とは別の〈救済〉を求めるのである。かつてのグノーシス主義は、歴史の中で敗北し破綻し忘却の淵に沈淪した。しかし、私たち、あるいは地球上のすべての生命たちの魂の中に、共通したある〈永遠の破片〉が残されていると言うのは真実ではないのであろうか。勿論、これは私の〈信仰〉であって事実ではない。しかし、すべてが滅びて行くこの地上にあって、私たちは他にどんな信仰を持つことができるであろうか。「《わたし》は忘れられている」Leethooレートー〕。このように私の心の中で呼ぶ声は、一体〈誰〉の声なのであろうか。私たちが、そして私が見失っている《グノーシス》が、私たちのこの世界・宇宙のどこかに未だ存在しているのであろうか。私は理性的には〈超越者〉の救済の存在を確言する理拠はない。しかし私の心の底で、かつてレートー・タトは確かに囁いたのではないか。(*しかり、《ぼく》は存在している。そして《忘却》というのが《ぼく》のありようなのだ)と。このようにして、私は此処に、私自身の《グノーシス》を語り、偽りの主であるヤルダバオトではない、私たちの《主》に向かい、かく記しかく祈るのである。

Noice et Mirandaris  1991:1121:0000

     主要参考文献

   荒井献 『原始キリスト教とグノーシス主義』(岩波書店)
   ハンス・ヨナス 『グノーシスの宗教』(人文書院)
   C・G・ユング 『ヨブへの答え』(みすず書房)
   『舊新約聖書』(日本聖書協会)



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  HAGIAI SANCTAE

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  HAGIAI SANCTAE


Miranda et Marie RA. 19951229:1902
Miranda et Marie RA. 19990610:0140



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Der Akosmischendualismus und Jaldabaoth

反宇宙的二元論とヤルダバオト

注記


  【注記】

  注記)この文章は、論文・評論ではなく、むしろ〈反宇宙的二元論〉という概念を 説明するための、一種の解説的エッセイである。とは言え、エッセイとしての結構は充分に整えたつもりであるし、これで独立した作品として読んで頂きたい。参考文献はその他にも色々とあるが、主要なものを挙げた。

  I 章における、ナグ・ハマディ写本のコーデックス中の諸文書の分類見出しは、荒井献著『原始キリスト教とグノーシス主義』一五八頁−一六〇頁の『ナグ・ハマディ文書の内容』という一覧表に付記されているものを引用した。(ただし、荒井献は一九八六年に同じ岩波書店から刊行した『新約聖書とグノーシス主義』という研究書において、この分類見出しにおける三番目の「キリスト教化したグノーシス文書」を、「キリスト教的グノーシス文書」という表記に変更している。荒井献はこの表記変更の理由について、同書において説明しているが、議論が余りに詳細に渡るので、ここでは荒井献の説明は省略する。興味のあられる方は、岩波書店刊行の同書の第二部の一である『ナグ・ハマディ写本と新約聖書』中の二三五頁以下の節を参照して頂きたい)。

  II 章における、マルキオンについての言及は、ハンス・ヨナスの本より得た(ハンス・ヨナス著『グノーシスの宗教』一九〇頁−二〇三頁)。マルキオンの思想を中心主題とした詩篇が鷲巣繁夫にあるが、この作品は、ナグ・ハマディ写本以前のグノーシス理解一般を詩の形で具象化しており、詩作品としても興味深い点が多々ある(「定本鷲巣繁夫詩集」(国文社)収録詩集『マルキオン』)。

  終章における、「レートー」 ληθωというのは、ギリシア語の中動相動詞として、「私は忘れられている」という意味がある(直説法中動相現在単数一人称形)。巻頭詩に出てくる「タト」という名前は、ヘルメス思想における奥義伝達者としてのヘルメスの別名の裡の四番目のものであり、また奥義伝達において、ヘルメスが「我が愛し子」と読んで奥義を伝達する弟子の名前でもある。タトは、エジプトのトート神から来ているのであろう(『ヘルメス文書』(朝日出版社)における柴田有の解説)。

  またII 章の「テトラグラマトン」というのは聖四文字のことであり、YHWHの四つの文字(「ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘー」と普通読む。本来、ヘブライ文字)で、これは旧約の神の名前を表し、母音をつけるとヤハウェとかイェホヴァとなる。

  「デーミウルゴス」というのは、ギリシア語で、「工匠」という意味であり、プラトンの『ティマイオス』における、下級の世界製作者の呼称である。「アルコーン」とは、ギリシア語で「支配者」の意味であり、グノーシス思想では、オグドアス・アイオーンであるプレーローマと、死すべき人間のこの世界・宇宙のあいだに君臨する、超霊的存在で、プロパテールに較べられる時には〈偽の神〉であるが、なお人間にとっては、「星界に存在する恐るべき霊」である(グノーシス思想一般では天界の星辰をそれぞれアルコーンであると考えた。従って、天ないし天界そして星辰界はグノーシス主義者にとっては「敵」である)。アルコーンは通常複数が存在し、「アルコーンたち」、または「アルコンテス」と呼ばれる。アルコンテスは、言うまでもなく、アルコーンのギリシア語での複数形である。このようにアルコーンが複数存在するため、アルコーンたちの中でも「第一のアルコーン」として、ヤルダバオトの名が特に強調されるのである。

  またIV 章のマルティン・ブーバーの逸話は、故R・D・レインの『わが半生』に記されているものである。

  終章における、『トマスの福音書』からの引用文は、『聖書の世界・第5巻』(講談社)中の荒井献訳『トマスによる福音書』による。

  なお聖書からの引用は、すべて、日本聖書協会発行の『舊新約聖書』の一九七四年版よりのものであり、原文は旧仮名遣いで、漢字の正字が使用されていたが、読み易いよう、適宜に、漢字の正字を当用漢字に書き変え、また原文には存在しない句読点や送りがなを付けた。聖書よりの引用章節を、以下にまとめて列挙しておく。

  II 章における、「父よ〔アッバ〕……」は、マルコ福音書十四章三十六節、他より。「われは神なり。われのほかに神なし……」イザヤ書四十六章九節。「汝は他の神を拝むべからず。其はイェホヴァはその名を嫉妬と言いて……」出エジプト記三十四章十四節。IV 章における、「茲に我身を転して……」は、伝道の書四章一節より。「幸福なるかな、悲しむ者……」マタイ福音書五章四節。「されど我は汝らに告ぐ……」は、同じくマタイ福音書五章三十九節より。

Noice et Mirandaris  19911121:0000
Miranda et Marie RA. 19951229:1907
Miranda et Marie RA. 19951229:2325
Miranda et Marie RA. 19990610:0112



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