現代グノーシス主義原理試論


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  「グノーシス主義 Gnosticism」と呼ばれる思想が、どのようなものであるのか、その概論的説明については、本サイト収載の『グノーシス主義略論』や、『用語集』における様々な用語の説明を通じて、そのアウトラインの理解が可能なはずである。

  本文書においては、それらの説明記述を前提として、「現代」と云う時代における、まさに現代的・現在的な、「我々の依拠すべき」、『現代グノーシス主義』の原型的様態或いは、その「基本原理」について論考を試みたいと思惟する。

  ところで、かような現在の課題としての「現代グノーシス主義」の原理的ありようについて、概説的論考を行うのに、わたしは、荒井献氏の『新約聖書とグノーシス主義』(岩波書店、1986年)に所収の論文、『祭儀と認識』冒頭に記されている、 グノーシス主義の普遍的概念のアウトライン・スケッチの文章を以下に引用したく思う。この文章で述べられている「グノーシス主義概念」の基本規定説明は、同氏の最初の研究書であった『原始キリスト教とグノーシス主義』において試みられていた、「グノーシス主義の本質」についての考察のほぼ到達結論となっているように思え、最近の『ナグ・ハマディ文書』(岩波書店、全四巻、1997年、98年)における概念規定よりも、より精緻で明確であると私たちには思えるからである。
  荒井献は次のように記す:

  「グノーシス」とは、古代末期の宗教史上に現われた若干の宗教グループとその教理大系のことであるが、それは次の三つの特色によって本質的に規定されている。(一)反宇宙的本質的二元論、(二)本来的自己と神性との本質的同一性の認識としての救済、(三)認識の啓示者、または救済者。

  以上の簡潔な纏めで、荒井献は、「グノーシス主義」の本質定義規定を叙述していると考えられるが、しかし、これに追加して更に同氏は言葉を続ける。それは、以上の高度に抽象的な概念規定を、より思想的に具体的表現するための肉付けのための説明であるとも云えるが、これらの言葉は、原理規定についての考察において、重要な示唆を持っていると云えるのである。

  このような特色を形成する一つ一つの素材は、グノーシスがそれに依った既成の諸宗教思想――とりわけ、(一)ペルシアの宗教、(二)ギリシアの宗教思想、(三)ユダヤ教−キリスト教――から導出され、その意味でグノーシスは、確かに一つの典型的混淆宗教である。しかし、これらの特色、とくに特色の素材を統一するモメントはグノーシスに固有な反宇宙的「現存在の姿勢」 (Daseinshaltung) あるいは「精神の姿勢」 (Geisteshaltung) であろう。このようなグノーシス的姿勢が、諸宗教思想を素材として「存在の解釈」 (Seinsdeutung) を現出し、これが必然的に超越的神性とそのもとから遣わされる救済者を要請して、人間はその「呼びかけ」により自己と神性との本質的同一性を認識し、この世から救済されることを知る。こうして、現存在の姿勢の対象化としての存在の解釈は、グノーシス的「創作神話」 (Kunstmythos) を生み出す。荒井献『新約聖書とグノーシス主義』岩波書店、1986年、p.268

  以上のような、概説を前提に、荒井献は、その論文の主題である『祭儀[タルトゥス]と認識[グノーシス]』の詳細な学術的議論に入るのであるが、古代地中海世界における「密儀宗教」における「秘儀」と、グノーシス主義諸派における「秘儀」との比較考察の論文主題は別として、我々は、グノーシス主義の「研究者」ではなく、むしろ、グノーシス思想の「実践志向者」であり、荒井献が、ハンス・ヨナスの主唱になる「グノーシス主義的な現存在の姿勢」を、グノーシス主義概念の原理規定として述べているように、我々は、みずからの固有の生(Leben)の存在者として、まさに「グノーシス主義的現存在姿勢」を持し、また、その 「Daseinshaltung」 より、上の荒井氏の論文よりの引用が述べている通り、存在解釈の「神話」を構成することを目指す者なのである。

  よって、私たちは、研究者的視点とは異なるアスペクトからグノーシス主義の原理規定問題にアプローチするのであり、それは、まず、グノーシス的現存在姿勢としての「宇宙的孤児性・孤独性」の痛切な自覚において、我々の実存様態の考察或いは探求が開始されたことよりしても、そう云えるのである。
  より具体的・現在的な「現代グノーシス主義の様態」についての敷衍考察は、これを別稿に譲るとして、ここでは、荒井献が研究者的視点より概説したグノーシス主義の原理規定についての、私たち実践志向者としての視点よりの理解と解釈を以下に叙述したい。

  上記引用文章において、荒井献は、グノーシス主義の本質規定として、三つの要素を列挙している。これを、いま一度記すと、次のようになる:

    (一) 反宇宙的本質的二元論
    (二) 本来的自己と神性との本質的同一性の認識としての救済
    (三) 認識の啓示者、または救済者


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― I ―

  これらの本質規定を、私たちの表現で敷衍して述べてみれば、第一の「反宇宙的本質的二元論」とは、私たちの言葉で云う「宇宙的孤児性・孤独性」の自覚と密接な関係を持ち、これは広義には、文化的・社会的な「実存疎外」の一形態であるとも云える。しかし、「反宇宙性 Akosmischenheit」と云う現存在姿勢の成立の前提には、「宇宙」の哲学的乃至神話的系統的な概念把握が必須であり、ヘレニク時代のグノーシス主義の「反宇宙的二元論」における「反宇宙性」における「宇宙」は、古代ヘレニク世界の「宇宙観」の秩序構造が前提にあったのだと云うことが指摘されている。

  そこより、現代において生きる私たちの実存実践課題としてのグノーシス主義を語るには、現代における「反宇宙性」とは何かが明らかでなければならないのであり、それは当然ながら、現代「宇宙」概念の秩序構造性の把握が前提になっているとも云える。
  「宇宙」とは「この世」乃至「現世」のことであり、現代においては、宇宙物理学などが開示する「宇宙像」と、他方、個人実存の生活の環境としての「環境世界=俗世」の二つの像に、極端に云えば分化しているとも云える。しかし、このような分化の事実の他方、「生活環境空間=俗世 Lebensraum」が、宇宙物理学などの語る「宇宙像 Weltbild」の下位集合として把握されている可能性も当然想定し得るのであり、「生活環境空間」としての「この世 Welt」の把握は、少なくとも、この日本の文化状況においては、宇宙物理学的な宇宙像のサブセットに位置し、「日常的実存の生存のこの世=宇宙」は、科学的宇宙像の巨大な「枠」のなかに収容されている構造になっているのだと考えることができる。

  (これは、言葉を補えば、「この世は悪の世だ」と云う把握を抱く時、「グノーシス主義的」知性の持ち主であるなら、「この世」が、自己の生活空間から環境世界、更に地球世界、太陽系、銀河系と続き、現代宇宙物理学の提示している「宇宙像」にまで、「この世」の概念内包が拡大されて把握されると云うことである。そんな銀河世界のことなど関係がないと云う態度もあり得、また、「この世」は地球のことで、「本来的故郷」は、銀河系宇宙のどこかの高次宇宙人がいる星にあるとか云う立場もあり得るが、私たちは、このような稚拙な宇宙ヴィジョンは、「現代グノーシス主義」の世界把握としては相応しくないとも思惟する)。

  ヘレニク時代のグノーシス主義が前提にしていた「宇宙像=秩序宇宙」は、地下世界(タルタロス等)を含む、球体の地球と地上世界があり、地球を中心として、同心球状に「天球」が七段(これらは、太陽を含む惑星の座である)・八段或いは九段と重なり合っているものであった。そしてグノーシス主義は、これらの天球の支配者として諸アルコーンを設定したのであり、「救済の本来的故郷」即ち「プレーローマの世界」等は、暗黒に被われた、以上の天球世界と地球世界の更に外側遙かな圏域において、「想定」されていたのだと云える。
  しかし、現代二十一世紀初頭の「宇宙像」は、このようなヘレニク時代の宇宙像とは、相当に異質なものだとも云えるのである。現代の宇宙像は、太陽乃至それより暗い恒星を標準として、かような恒星がおよそ一千億ほど集合して銀河星雲が構成されている宇宙であり、更に、このような規模の銀河星雲が、百億前後集合して、星雲群を形造り、このような星雲群が更に、何千か何万か、何らかの配置構造を持って、空間に展開していると云う像である。
  時間と空間についても、現代宇宙物理学の提示するモデルは、時間も空間も「無限」であると云う可能性を示唆しており、仮にビッグバン仮説が有効で、膨張と収縮と云う現象の故に、宇宙の寿命は有限であり、その空間的規模も、茫漠なものであるとしても、有限であると云う見通しがあるとは云え、ビッグバン仮説において、重力の収縮作用に対し、膨張の速度が、それを上回る場合は、宇宙空間は無限に永遠に膨張を続けると云う結果になる。

  このような「現代宇宙像」に立脚すれば、千億の恒星を擁する我々の銀河系宇宙には、千億のアルコーンが存在し、また、何千兆もの星雲にも、その星雲を支配する権力アルコーンが存在すると云うような「反宇宙像」が描かれるのであろうか。或いは、権力アルコーンの支配は、知性ある存在者、例えば地球人類などが存在する世界=惑星系にだけ及び、その他の膨大な恒星のシステムや星雲のシステム、空間は、暗黒の権力によって、想像もできない形で、統括支配されているか、または無視されているのだろうか。実に、このような疑問が生じて来るのである。

  「現代のグノーシス主義」における「反宇宙性 Akosmischenheit」を考えるだけで、このような空想的とも云えるヴィジョン或いは現代の「神話」が要請されて来るのだと云うことは、現代に生きる「グノーシス主義者」にとっては、その実存の課題となるのである。ここで、古代グノーシス主義の研究者との立場の違いが生じて来るであろうし、それは、グノーシス主義、就中、「普遍的グノーシス主義」の立場より、現代グノーシス主義を考察するにおいて、避けて通ることのできない課題となる。
  或いは「本質的二元論」は、この現代の宇宙観において、成立し得るのかどうかと云う疑問も当然起こるべくして起こるのだとも云える。これらに対し、我々は、何らかの「答え」を、つまりグノーシス主義的に云えば「宇宙の存在根拠神話」の構成が要請されているのだと理解してもよいであろう。


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― II ―

  荒井献の簡明適切な要約によれば、第二の規定要素として、「本来的自己と神性との本質的同一性の認識としての救済」と云う原理が立てられている。或いは、ヘレニク時代のグノーシス主義研究より、これらの本質要素が抽出されたとも云える。

  これを、現代において考察すれば、人間の「精神」或いは「意識」の存在は、分科科学(scientiae)の飛躍的発達と自然についての知識の膨大な蓄積にも拘わらず、なお現在において、それらは端的に「謎」とも云え、人間の思考力・理性の能力や理解力を超えた何かであると認識される。と云うよりも、「精神」や「霊」、「神性」について考察する我々の思惟の原理性とも云える「理性・知性」乃至「ロゴス普遍性」そのものが、実に「謎」であると云うか、我々の知性の理解や認識を超越した何かであると少なくとも私たちには思えるのである。
  人間の「意識」や「精神」や「思惟の能力」などは、既に解明されており、そこには「神秘」はないのであると云う唯物論的主張乃至、それに近縁する、私たちの視点からは、素朴還元主義的な蒙昧な見解が、科学的学説の名の下に僭越にも横溢している現状でもある。しかし、これらの「素朴還元的主張」は、自然の精緻な神秘的機構は、それらが「そこにあるから、あるのは自然自明である」と云っているのと同じレヴェルでナンセンスなものと、私たちには思えるのであり、「意識」が存在するとするのは「錯覚」であるとか、「精神」においては「神秘」などはないのであり、それはシステムの階層構造のあいだ の差異性を「神秘」と取り違えているのであると云うような主張は、少なくとも、私たちにとっては、きわめて稚拙な、紀元前より繰り返されて来た、「驚異する魂を欠いた」、問題自体に対する「盲目性」の現れとして映じるのである。

  人間の「本来的魂乃至自己」と、「超宇宙的普遍神性」との「同一性」の有無の問題は、なお現代の哲学及び分科科学の課題であり、解き得ない課題であると云っても差し支えないであろう。私たちが、少なくとも「この理性・ロゴス」の階梯存在である限りにおいて、「精神 Geist」や「ロゴス Logos」の「神秘性 Mysterium」は、その言葉の原義通り、端的に「隠されたもの」に他ならないからである。
  また「神性 Gottheit」と云う概念を、「超宇宙的普遍神性」と私たちは言い換えたが、これは、既に述べたように、「宇宙観」におけるかなりに壮大な転換がヘレニク時代と現代のあいだで存在するからであり、「存在論」の奥義や「ロゴスの神秘」の秘蹟については、往古と現代で、我々の理解能力の限界故に、問題の強度或いはその深度は、殆ど変化していないとしても、「神性」について、私たちは現在、「精神」のモデルの多様性に応じて、多様なレヴェルと様態の「神性」が展望されるのであり、我々の「本来的自己」と「神性」の一致の認識による「救済」とは、「神性」についての展望の多様性と階梯に応じて、多様な救済の可能性があるとも、現時点では、云って差し支えないもののようにも思える。

  極論すれば、精神や普遍ロゴスの神秘と、「叡智 Nous」の存在を、私たちは今日にあって、なお認めざるを得ないとしても、深淵なる「プレーローマ」の「究極的一意性」については、私たちには疑問が生じていると云うことである。そのことは、プレーローマの至高アイオーンの本質属性である「神性」についても、多様性が構想されると云うことであり、多様多階梯「神性」について、それらが、実存の課題探求的旋回を通じて、最終的に深淵的一意性に帰還するのか、或いは、無限と云う深淵的一意性に収束(と云うより寧ろこれは「発散」と云うべきであるが)するのか、我々は目下において、錯綜した展望を抱かざるを得ないと云う事実があるのである。


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― III ―

  第三の原理要素である「認識の開示者、救済者」については、例えばキリスト教的グノーシス主義にあっては、クリストスなどが、「高次霊」として、人間の魂の「救済者 Soter Σωτηρ」としてヘレニク時代のグノーシス主義では想定されたのであるが、現代において、このような条件に適合する「真実開示者・救済者」として、どのような顕現形態が考えられるのであろうか。それは、夥しく多数のヴァリエーションを考えることができるのだとも云えるし、或いは、「現代秘教」としてのグノーシス主義の真実開示者には、何かの特定条件が課 されているのかも知れないとも云える。

  人間の階梯における現代「グノーシス開示者」の実例としては、私たちが考える処では、スイスの精神医学者であったカール・グスタフ・ユングが、その例であったと思う。そしてユングはまさに、「分析精神医学者」として、「分析治療者」であると同時に、実は「被治療者」であったとも云え、これは「救済される者」が、同時に「救済者」になると云う古代グノーシス主義の定式に或る意味で合致しているとも云える。

  或いは、真智の秘蹟に通暁していると称したグルジエフとか、人智学の創始者であるルドルフ・シュタイナー、また、独特の教えを説いたクリシュナムルティなどが現代グノーシスの教師=開示者=救済者であるのかも知れない。しかし、グノーシス主義は、救済宗教一般のカテゴリーに入るものではないし、また神秘主義や神秘主義的救済論が直ちにグノーシス主義とはならないのであり、太古よりの「叡智」を継承していると称した「薔薇十字運動」や「黄金の夜明け魔術」などの系譜も、「反宇宙的本質的二元論」と云う見地からは、グノーシス主義神学的と云うよりも、寧ろ、紛らわしいが、カッバラー秘教的乃至ヘルメス哲学的叡智の教義神学のヴァリエーションと云うのが妥当であると思える。「この世」とは「別の次元の世界」があり、そこに救済や真実・叡智があると云う思想・神学は、確かに「二元論」の系譜にあるかも知れないが、「反宇宙的」とは云えないからである。

  グノーシス主義の真実開示者乃至救済者の像は、「人間」がその役割を果たす場合と、「高次神霊」が、例えば人間の姿を取って、この世に現れ、救済の真実を告知すると云う二つの場合が想定されるのであり、前者は、例えば、上述のカール・ユングにその例があるとして、後者の「高次神霊」は、この現代にあって成立する「天使論・悪魔論」或いは「神霊論」が、いかなるものなのかと云う問いに対する答え、或いは何かの見通しがなければ、そもそも考察そのものの基盤に欠けている。

  では、現代において「天使論・悪魔論・神霊論」は、どういう形で成立し得るのか。これについても、様々な既存宗教や、新興救済宗教が「霊」を語り、また、文明の爛熟期に一般な社会的流行現象であるのか、「天使」を現代人は希求している一面が窺える。「ニューエージ運動」乃至「ニューエージ思想」は、この「天使への希求」と同じ現象の位相だとも考えられる。しかし、グノーシス思想には、これらの「ニューエージ思想・運動」や、既存乃至新興の救済宗教の語る「神霊」等とも、また異なる「現代アイオーン論」と云うものが事実上要請されるのだと云うことも云える。
  ヘレニク時代のグノーシス主義との比較で云えば、当時のヘレニク文明爛熟期にあっては、夥しい救済宗教の教えや、様々な地域より流入して来た神々や神霊の大群が、人々によって認められ、或いは信仰の対象となっていたと云う事実がある。ヘレニク・グノーシス主義は、これらの神々や神霊を、その「創造神話」に取り入れ、とりわけ、ユダヤ教、及びキリスト教の神話枠や神話要素を流用して創造神話を築いた結果、部外者からは、ユダヤ教の一派とも、或いはキリスト教の一派とも見做された。にも拘わらず、当事者、特に、迫害のなか、勢力擡頭していた原始キリスト教会の指導者たちには、グノーシス主義派が、自分たちとは根本的に異なる「神学原理」を備えていることが明白に分かったのであり、敢えて「異端」として排斥し、かつ撲滅を図ったことが知られている。

  荒井献が記しているように、グノーシス主義にとっては、本質的なのは、その反宇宙的な「現存在的姿勢 Daseinshaltung」乃至「精神的姿勢 Geisteshaltung」であり、このようなハルトゥングに基づく、「存在解釈 Seinsdeutung」であった。かような現世界の存在様態を deuten(解釈)するために、グノーシス主義者たちは、ユダヤ教、キリスト教の神話や、ギリシア・ローマの宗教・哲学、更にイランの宗教などの神話要素や枠を「利用」したのであり、このヘレニク時代のグノーシス主義の特徴から現代におけるグノーシス主義の姿を考えれば、それは表層的装いにおいて、既存宗教や新興宗教や、或いは多様な現代思想の外見を借用乃至援用して、一見した処、グノーシス主義とは分からない外見を取っている可能性があるとも云える。
  「ニューエージ運動」や、その他のカルト的宗教や、伝統的宗教の神話要素を援用しつつ、現代グノーシス主義は、その秘教的真理をどこかで語っているのかも知れない。その場合、「現代の高次アイオーン」に対応するのは、或いは、「宇宙人」がそうかも知れず、チャネラーたちが主張する「高次霊」が現代の救済者・高次アイオーン霊なのかも知れない。

  しかし、我々が考えるに、霊=高次アイオーンとしての救済者は、現代の展望において、二つの可能性があるのではないかと思惟する。この二つは、畢竟、同じことになるのかも知れないが、第一は、人間の精神やその理性・ロゴスの能力乃至階梯は、上位階梯を想定させる可能性を持っており、「超精神」とでも名付ける、生物の神経系進化の人類の段階よりも先に考えられる精神を備えた宇宙「精神種族」が、救済のアイオーンとして、存在している可能性である。そしていま一つは、惑星地球の生態系の「場」が全体として、擬似意識体乃至生命体と見なせると云う仮説(ガイアー仮説)の延長上において、或いは、先の神経系進化の一般論として、「集合の精神」が想定でき(「ガイアー」は、この集合の精神の一つの巨大な仮説例である)、「集合の精神」が、何かの統合ノードを備えて「意図」を明示する場合、それは「救済者の神霊」ともなり、また「悪意の霊=アルコーン」を具現するかも知れないと云う可能性である。

  このような「集合の精神」とか「上位階梯精神 Hyper-Nous」と云うような概念は、空想の産物のように響くかも知れない。しかし、「意識」を持つ生命が現に地球上には、存在しており、意識において「覚醒度=ヴィジランス」と云うものが現実にあり、「自我の覚醒」或いは「自我による意識の統合」と云う事態が、実際に人間と云う種族においては起こったのである。
  そして、意識の覚醒や統合形態においては、人間の「自我」のような様式・様態だけが、「実現される唯一のもの」だとは云えないと云うことも、恐らく事実であろう。また実際、「集合の意識」と云うものは、人間の意識・無意識の両界において存在し、成立しているものだとも云えるのである。ジークムント・フロイト等によって、十九世紀より確立された、「無意識の心理学」は、この「集合の意識」の存在を立証しているものだとも云えるのである。


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― IV ―

  私たちは、「現代グノーシス主義」の基本原理を、この文章で試論的に考察してみようと意図したのであった。以上に、荒井献が抽出した、ヘレニク時代のグノーシス主義における「原理規定」とも呼べる三つの要素について、この現代にあって、それらの要素は、どのような形を取るかを想定乃至考究して来たのであるが、いかんせん、かなりに散漫な考察となったことは、憾みにも思う。
  しかし、上述の諸文章で幾度か述べたように、「生きた思想」として現代のグノーシス主義を考えようとすれば、ヘレニク時代のグノーシス主義が立脚していた「世界観」や「人間観」とは、相当に異質な要素を備える現代にあっては、「グノーシスの救済原理」についての根本的な原理規定の見直しが必要なのであり、「本来的自己の霊的回復」と云う基本課題が同一であったとしても、その実践方法や、依拠する「救済原理」が、ヘレニク時代のグノーシス主義の様態と同一のものであると云うことは無理なことであり、それ故、一種の迷宮的な試行的考察の提示に終始したとも云える。

  とはいえ、ここで、もう一度、最初に提示した荒井献の反宇宙的「現存在的姿勢」乃至「精神的姿勢」による、現世界の「存在解釈 Seinsdeutung」の要請による「救済者神話」「創造神話」の構成と云うポイントを考えてみよう。
  荒井献の凝縮された文章の語っている処は、私たちの言葉で「宇宙的孤児性」と云う「現存在姿勢」において、現存在の立脚状況の「根拠説明」が要請されると云うことであり、現存在がかような世界に、かように存在していること、或いは、現宇宙が、「何故かような宇宙であるか」、その「存在 Sein」の釈義・解釈(Deutung)を現存在が求め、まず、「原神話」とも呼べる解釈枠組みを構成し、その枠組みを、ユダヤ教なりキリスト教なり、或いはプラトンの哲学神話なりによって内部より支持し、具体的言語乃至表象として顕現させるため、かような援用神話素で、枠組み内部を充填することで、「グノーシス主義創造神話」が構成されるのであり、また、この「神話構成」と共時的に、神話的真理=知識(グノーシス)の開示者=救済者の設定が行われると云うのが、ヘレニク時代のグノーシス主義の典型的な自己発現様式であったのである。

  このような原理的構造の反省において、現代グノーシス主義の原理を再考してみれば、まず前提されるのは、「宇宙的孤児性 Kosmische Waisenheit」と云う現存在の姿勢であり、この概念が、一般的な「疎外性 Aelination (Entfremdung)」と、どのように異なっているのかを私たちは、確認しなければならないと云うことが云えるであろう。云うまでもなく、「宇宙的孤児性・孤独性」と云う言葉で私たちが云わんとしている処は、広義の「疎外」の一特殊形態であることは間違いない。しかし、それが広義の「疎外」と区別され、特権的な意味合いを持つのは、「疎外」状態に置かれた人がすべてグノーシス主義乃至グノーシス主義的救済を志向するとは限らないと云う事実に基づいているのである。

  ヘレニク時代のグノーシス主義がその典型例とも云えるであろう。ヘレニク文明の爛熟期、別の言い方では、黄昏の時代において、非常に多数の人々が、貴賤貧富男女の別なく、「故郷喪失感」に見舞われ、その自我が安住できた、古き良き文化・社会・共同体の消滅を実感し、「疎外」状態にあったとされる。即ち、ヘレニク時代にあっては、ほとんどすべての住民が、大なり小なり「故郷喪失」と云う形の「疎外意識」を有していたことは事実なのである。それが故に、ミトラ教やイシス秘儀、エレウシス秘儀、或いは原始キリスト教のヘレニク世界での広範囲な流布、人々による受入が起こったとも云えるのである。
  つまり、「故郷喪失感=疎外意識の救済」を、原始キリスト教や、その他の新興宗教、或いは異国の教えや秘儀等に求めた人たちと、グノーシス主義に「救済」を求めた人たちでは、何が異なっていたのかと云うことが、ここでは問題になっているとも云えるのである。偶然が振り分けを行ったのか、或いは、人間性の基盤にある、個人を構成する何かの要素の差異が、この違いを生み出したのか、何が理由であったのかと云うことである。

  これに対し私たちは、「存在の不条理性そのもの」に対し鋭敏な感性を備え、理知的に「存在」を考究した人々は、単なる疎外・故郷喪失感に留まらず、この世界=存在世界自体に対する「違和感=疎外感」を魂において育成したのであり、このような現存在の姿勢を、同じことの言い換えのようであるが、「宇宙的孤児性」と呼称するのである。「存在の不条理性」とは、「存在の根拠が把握できない」と云うことにも通じており、これは当然、哲学的アポリアであり、形而上学的問題となる。そして自己の「理拠なき存在性」の「自覚」と、ヘレニク社会全体を覆っていた黄昏の時代感覚、個々人が経験していた「故郷喪失意識」「疎外意識」が、微妙に結合し、輻輳した時、「宇宙的孤児性」の現存在姿勢が成立し、そこより、荒井献が卓抜に描写したように、「存在解釈 Seinsdeutung」を求めて、創造神話を構成し、また「救済者」を「呼び出した」のだと云える。

  (グノーシス主義教義においては、実際は、「救済者」が、自己の本来性を喪失乃至忘却した魂に「呼びかけ」、「叡智=知識」の啓示・開示を行うのであるが、それはグノーシス思想の成立の後よりの遡行的な事態の把握であり描写であると云うべきである。それは、例えば「啓示宗教」において、啓示を行う超越者と啓示を受ける者のあいだで、実は、被啓示者の「本来的自己」のありようからすれば、実は、「超越的啓示者」は、この被啓示者の「本来的自己」と同質のものであり、更に云えば、実は、両者は本質を一にしていると云う事態にも類比されるのである)。


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― Conclusion ―

  いまや二十一世紀初頭であり、この現代においても、ヘレニク時代と同様の状況が成立しているとも云える。限りない未来の可能性が、目前に広がっているように思える他方、人類の伝統的地域分化文明は、ほぼ完全に消滅し、全地球的文化とも称せる何かが、不完全で歪んだ形で発出を開始しており、人々は、父祖伝来の「故郷」なる「文化伝統」が、もはや遂に有効性を失い、歴史上、前例のない「世界状況」に直面していることを痛感しているのだとも云えるのである。「ニューエージ運動」が流行するのは、決して世紀末乃至、千年期末であったが故の現象ではなかったと云えるだろう。

  グノーシス主義の成立の契機たる「宇宙的孤児性 Kosmische Waisenheit」の現存在姿勢が、きわめて哲学的なものであり、それは存在論的次元での「孤独性」であることを考えれば、現代グノーシス主義が、いかに困難な存在展望であるのかが分かるとも云える。
  フランスの哲学者ジャック・デリダは、「デコンストルクシオン deconstruction」と云う概念或いは「存在論的営為」を提唱したが、デコンストルクシオンとは、終焉してしまった存在の歴史を、その「終焉性」において限りなく追体験して行く営為だとも極論すれば云える。これは言辞矛盾かも知れないが、「救済なきグノーシス主義」だとも表現できるだろう。ジャック・デリダの「宇宙的孤児性」は、デコンストルクシオンにおいて、現代グノーシス主義の一つのヴァリエーション・変奏を奏でているとも云えるのである。

  しかし、我々は、「存在論的な」「究極の謎」の答えが知りたいのであり、自殺をするかしないかの境界において、我々個々人の「実存の神話」構築を試みる「必然」に駆られているとも云えるのである。自殺の側に転落する時、それは、ヘレニク・グノーシス主義のソピアーの転落にも類比される事態であるだろう。「自殺者」は究極的に救済されるかも知れないし、救済されないかも知れない。

  我々はしかし、自己の「グノーシス神話」つまり「存在 Sein」の Deutung(解釈)の結晶を構築する定めにあるとも云える。不条理にして、理拠なき「存在への問いかけ」は、霊的「救済者」を呼び出すのであるし、「死」は、永遠の氷の春、無限の星辰と銀河、この存在宇宙の彼方にあって、「光の甦り」を齎すだろう。そして、これが「存在解釈 Seinsdeutung」としての現代の「グノーシス神話」であり、この「道」にあって「永遠の命 Zooee Aioonios」があるのである。

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