Revolutions of the Sophia-Wisdom

叡智の旋回 ― 使徒パウロスとキリスト教

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    キリスト教の源流的な歴史において、パウロスとは、どのような人であったか、何をした人で、その思想はイエズスの教えた「真理」と、どのような関係にあったかと云うことは、すべて密接に関連して来ます。ばらばらに考察しても全体が俯瞰できません。

  ここでは、使徒パウロスのグノーシス的思想が、《異邦の愛の神》を説いたとも言えるイエズスの「智慧=真理=グノーシス」に対し、どのような螺旋を描いて、キリスト教の古典的教義を導き出したのか。使徒パウロス自身も、実は、自己の宣明した「真理」に、その後継者によって裏切られ、キリスト教の初源的叡智は、パウロスによる旋回を受けて、更に、それが旋回し、イエズスの真理とは、別の何かへと進化したことの展望の序論的考察として、パウロスの立場を考えて見ます。

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  パウロスは元の名前は、サウロと言い、純粋のユダヤ人で、ユダヤ教徒でした。彼は、かなり富裕な家の出で、高い教養を持ち、ユダヤ人のなかの先進的な知識人エリートであったと言えるでしょう。彼はラテン語やギリシア語を自由に扱うことができ、なによりも、「ローマ市民権」を持っていました。属州民だと、属州総督の判断で、処罰等ができたのですが、彼はローマ市民であったので、属州総督では裁くことができず、他のキリスト教徒に較べると、自由な活動が、ローマ帝国内で保証されていました。

  それはとまれ、パウロスには葛藤があったことが知られています。彼はユダヤ教徒の知識人でエリートであったのですが、情熱的に熱心にユダヤ教を信仰すればするほどに、ユダヤ教に対し、矛盾を感じたというか、地中海世界のローマ帝国文明の多様性を知っている彼には、ユダヤ人の信仰が井のなかの蛙のようにも思えたのです。しかし、そういう考えは、ユダヤ教の神に対する背信になり、熱心なユダヤ教徒のサウロは、信仰的・精神的・実存的ディレンマにあったとも言えるのです。

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  イエズスが刑死した後、その弟子たちは再び、エルサレムに戻り、集まり、亡き師の教えを反芻しつつ、ユダヤ教の分派として、エルサレムの神殿などにも通いつつ、師の教えについて考えとされます。イエズスの弟子達の集団は、「ナザレ派」と呼ばれました。それは、彼らの師であるイエズスが、「ナザレ人イエズス」と呼ばれたところから、そう呼ばれたようです。

  ナザレ派はユダヤ人だけであったかと言うと、外国人も加わっていました。ナザレ派はかなり目立たないようにしていたのですが、ユダヤ人のなかでは、異端の教えに従う者たちだということで、反発を受けていました。ステパノという人が、こういう状況で、ユダヤ人に殺されます。ステパノは、最初の殉教者だとされます。ステパノの虐殺を契機にして、かねてからナザレ派に反発を感じていたパリサイ派の過激派などが、この機にナザレ派を弾圧しようと、結集します。この時、パリサイ派の知識人エリートであったサウロ(パウロス)も、ナザレ派とは何か、イエズスの教えとは何か、よく知らないままに、ユダヤ教の神を汚す不逞の輩どもだと考え、弾圧に参加します。彼は、諸方に逃れたナザレ派を捕まえようと、ダマスコへと通じるある街道を急いでいました。

  ところが、道の途上、突然、幻影が現れたというか、光が輝き、声をサウロは聞きます。それは「サウロよ、サウロよ、なぜわたしを苦しめるのか」という声だったとされます。パウロスは、この声を聞いて驚愕すると共に、同時に、眼が見えなくなります。迫害ができなくなったサウロはダマスコで静養していると、イエズスの弟子だという人物が現れ、サウロが街道で出会ったのが誰であるかを教え、イエズスの教えを語ります。それを聞いて、サウロは、あれこそ「主キリスト」であったのかと悟り、その時、パウロスの「眼から鱗のようなものが落ち」、パウロスはキリストの信仰に眼を開かされます。同時に彼の目も見えるようになります。

  (しかし、パウロスは正確には、イエズスの説いた「真理=叡智」ではなく、「キリストの真理」に対し眼が開かれるのです。そしてこの「キリスト教」は、パウロス神学のキリスト教とも呼べるもので、ここで「叡智の旋回」の第二段階が起こります。第一は、その弟子達の誤解あるいは、師の教えの理解不能性の故に起こり、第二の旋回は、自己の実存的苦悩を、「真理」に受影したパウロスの必然的錯覚と歪曲において、旋回が起こります)。

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  パウロスは、キリスト教の教えを熱心に布教し、迫害を受け、様々に苦労します。当時、ナザレ派は、エルサレムに本拠を持ち、イエズスの直弟子とされる十二人の弟子を「使徒」として、指導者と仰ぐ体制を取っていました。パウロスは、生前のイエズスには一度も会ったことがなく、無論、イエズスの教えが何であるのか直接に聞いた訳ではなく、知らなかったというのが本当です。パウロスは、伝え聞くイエズスの言行を元に、彼の「キリスト神学」というものを築いて行きます。パウロスは、「イエズスの教え=真理」を布教したのではなく、「キリストの教え=解釈された真理」を布教したのです。

  どういうことかと言うと、イエズスの教えについては、エルサレムの十二使徒が絶対的な権威を持ち、パウロスもそれには抗しきれなかったのです。しかし、パウロスは、イエズスではなく、キリストが自分の前に姿を現し、使命を彼に託したという強烈な信念を持っています。彼は、生前のイエズスの教えではなく、「復活のキリストの教え」を説いたのです。実は、この時、パウロスは、自分の築いた「キリスト神学」を、ナザレ派の名において布教したのだとも言えるのです。

  四つの『福音書』も、『使徒行伝』も、パウロスがその生涯の活動を、ほぼ完了した後で、記されたのだということは重要です。『聖書』を読む時、それらの文書が何時頃書かれたのかと言うことは重要なことなのです。『新約聖書』のなかで、最初に書かれたのは、「パウロスの書翰」と呼ばれる、パウロスが布教目的で、各地のキリスト教信徒集団宛に書いて送った文書=手紙が実は一番古いのです。歴史的な時間順序としては、イエズスが教えを説き、弟子集団ができ、イエズスの刑死の後、弟子集団がまた集まってナザレ派となり、そのなかにパウロスが参加し、熱心な布教者となったと言うことになるのですが、どうも、実際は、「パウロスの書翰」により、原始キリスト教の基本的な教えは成立し、その教えの枠内で、福音書や使徒行伝などが、後になって書かれたのです。

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  パウロスは、イエズスの教えをかなり歪曲した可能性が高いのです。例えば、女性の地位についての問題があります。イエズスは、男女の差別をしなかったのです。また、イエズスの中心弟子たちは、マグダラのマリアを代表とする、女性信徒だったらしいのです。しかし、福音書を読んでも、そういう事実は書かれていません。

  この理由は、原始キリスト教の基礎は、パウロスの神学とその布教の上に成り立っているということがあります。パウロスはユダヤ教徒であった訳で、男性を女性の上に置くのを当然とします。『コリント前書11章』にある、男が女に優越するという訳の分からない主張は、イエズスの教えに、そんなことはないので、パウロスが強引にこじつけているために不自然な訳の分からない理屈になっているのだと思えます。

  ナザレ派はユダヤ教の分派、一派であった訳で、女性の指導者は排除しています。女性信徒を中心とするナザレ派が存在したはずなのですが、その存在の伝承や証拠は、パウロの神学が、女性指導者を排除し、男性十二使徒の権威を認め、十二使徒は、女性使徒の権威を認めていなかった為、ここで、「女性使徒の権威」は、原始キリスト教の公的な歴史から消えるのです。しかし、イエズスの言行記録を書いていると、必然的に女性信徒が出てくるので、マグダラのマリヤは娼婦であったとか、根拠のないことを書いて、女性使徒の存在を否定したのだとも言えます。

  キリスト教は、イエズスからではなく、パウロスから始まっているのです。先に強調したように、パウロスが布教したのは彼の前に出現した「復活のキリストの教え」で、その教えは何かというと、パウロスが自分で考えた、或いは霊感によって知ったキリストの教えです。そして、この「教え」の本質は何かというと、それはパウロス自身が展望した「キリストの真理=叡智」であり、パウロスはキリストの名において、キリストの神話の枠のなかで、自己の「実存思想=パウロス神学」を展開したというのが真実なのでしょう。

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  ナザレ派は、エルサレムに本拠を置く、ヘブライ語を話すヘブライ派ナザレ派と、ギリシア語を話す、非ユダヤ人が大多数のヘレニク派ナザレ派に分裂します。ヘブライ派は、十二使徒が統括し、主に、ユダヤ人が信徒で、それに対しヘブライ派は、信徒は地中海世界の至るところにいる非ユダヤ人で、その指導者はパウロスでした。エルサレムがローマ帝国によって破壊された後、ヘブライ派ナザレ派はどこかに消えます。パウロスは生前、自分も「使徒」であると主張していましたが、ヘブライ派はその主張を認めませんでした。しかし、ヘブライ派が消えた後、残ったヘレニク派ナザレ派が、原始キリスト教会になるのです。

  パウロスは、原始キリスト教会では「使徒」になります。パウロスの最後は記録に残っていません。しかし、これだけ有名な人物の最後が記録されていないというのはおかしいので、おそらく記録に残すとまずい事情があったのだと推定されています。十二使徒の長とされるペテロは、どうもローマで殉教したらしいことが、「福音書」のなかで示唆されています。ではパウロスはどうなったのか。

  パウロスの書翰の後期のもののなかに、パウロスは、自分は十分な布教をしたので、やがて、榮光のキリストが再び出現し、自分を天に導くと共に、最後の審判、世の終末が訪れると、彼が信じていたことをうかがわせる文章があります。パウロがこういう手紙を、多くの人々に送っていた時、原始キリスト教会が持っていた、まとまった神学や教えの文書は、実は、パウロスの手紙しかなかったのだということを考えねばなりません。「福音書」はまだ書かれていなかったのです。

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  パウロスがもし、悲惨な殉教をした場合、「復活のキリストから教えを得た使徒パウロス」の無惨な死になる訳で、これでは、原始キリスト教会の信仰が、根柢から覆る可能性があったとも言えます。パウロスは、キリストが死者から最初に復活した、次にわたしが復活するというようなことを述べていますから、「復活のパウロスの神話」を造ることができなかった原始キリスト教会は、パウロスの死を隠蔽するしかなかったのだと推定されるのです。そこで、パウロスは、きわめて悲惨な殉教をしたのだろうと、出てくるのです。

  以上の話は異論のある人もいるでしょうが、「新約聖書」の記述順序から考えて、「福音書」の記述には歪曲があること、イエズスは男女差別は無論、いかなる差別も認めていなかったこと、しかし、何故それでは、原始キリスト教会で、司祭は男性に限るとか、男女の差別を主張し、更に、社会差別も容認したのか、すべてが、パウロスに起源があるとは言いませんが、パウロスの神学の影響で、このような教えの変容が生じたのだとも言えます。

  イエズスが説いた真理=叡智は、その男性弟子達によって誤って理解され、歪曲され、ここに最初の智慧の教えの旋回があり、これを受けたパウロスが、「神なるキリストの神学」を布教し、ここで、再び真理は旋回し、イエズスの真理へと回帰したようにも思えるのですが、しかし、実際には、パウロスは、自己の「グノーシス的展望」をキリストに仮託して神学を構成したと考えられます。旋回したものが、もう一度旋回して、では、正しい元の叡智に帰ったのかというと、恐らく異なるでしょう。

  「叡智」の表現と、それが実存の姿勢であることより、グノーシスは、個人の運命によって拡散し旋回して行く定めを持っているとも言えます。それは、グノーシスを理解しない弟子達によって拡散し、歪曲され、「キリスト神話伝承」の枠において、パウロスが、キリストの名において、自己の独特なグノーシス主義的ヴィジョンを拡散的に、旋回的に構成したのだと言えるのです。

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  イエズスは、「赦し」を説いたのですが、パウロスは「愛」を説きました。しかしその愛は、男女を差別する愛で、社会差別を容認する愛で、キリスト教は、愛の名の元に差別や排除や、異教の迫害、異端の弾圧を正当化しました。とはいえ、この歪曲と誤解の責任が、すべて使徒にしてグノーシス神話構想者パウロス=サウロにあるかと云えば、恐らく異なるでしょう。

  パウロスの「司牧書翰」は、各地の「誤った信仰に陥っている人々」を叱咤し、これが正しい教えであり、これこそ「真理の信仰」だと、詳細に説いてやみません。ここから窺えるのは、パウロス神学もまた、それを受け取る人たちの実存状況によって解読され、文化によって意味旋回し、パウロスの神話を元に、更に別の「真理の神話」が拡散的に構成されて行き、これが「原始キリスト教教義」だということになるからです。

  叡智は旋回を繰り返し、原始キリスト教は、教義論争に明け暮れます。「拡散した真理・叡智」をいかにまとめ、原型を把握するか、この試みで、多数の異端諸派が、グノーシス主義異教とは別に、キリスト教教会内部において、成立し争ったと考えられます。グノーシス主義にしては、奇妙な思想・信仰を持つマルキオーンの神学が、拡散した叡智を再現してまとめようとしたマルキオーンの努力の成果であったということに注目すべきでしょう。

  『トマス福音書』は、異教のグノーシス文書です。どこからこういう思想・真理把握が出てきたかは、グノーシス主義の起源問題ということになるでしょうが、マルキオーンは、『パウロス書翰集』を正典とし、更に『ルカ福音書』を正典としました。『トマス福音書』の著者は、『Q』を引用しているようですが、旋回の旋回の旋回を受けた『Q』の内容を、旋回ではなく、「反転」して見せているのだとも言えます。

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  旋回の旋回の旋回の丁度真ん中、「要」とも言える位置にいる、パウロスの教え=真理の叡智は、旋回ではなく、反転であった可能性が高いとも言えます。原始キリスト教は、独特の智慧の師であったイエズスの真理を、誤解により旋回させた弟子達によって、その基盤が築かれ、自己の実存課題を仮託したパウロスの神学で、「旋回的反転」を行ったのでしょう。しかし、パウロスの神学は、諸地域の文化伝統で再解釈され、真理に投影が行われ、拡散的旋回して行ったのです。

  こうして原始キリスト教は、正統と異端を含んだ拡散的な真理啓示宗教となり、異端の排除の過程で、「旋回」とはまた別の何かが起こったとも言えます。グノーシス主義異教は、考え方によっては、カトリックの教義旋回とは、また違う思想運動を行っていた為、異端以上の異端として解釈されたのだとも言えるでしょう。

  パウロスは、弟子達の実存理解で、叡智の深度が旋回され希薄となり拡散したナザレ派神学を、自己の実存的真理了解で、もう一度統合しようと、「叡智の旋回」を試みたが、その試みの結果は、もう一段の旋回を生み出し、イエズスが誤解され歪曲されたように、パウロス自身も誤解され歪曲された可能性が高いと言えるのです。

  グノーシス=叡智というものは、それを合理的または非合理的に信仰で理解しようとする時、真理の軸が旋回し、叡智の光輝は、その旋回角度からは見えなくなる、つまり、パウロスが盲目となったように、叡智について、信仰者は、盲目になり、間違った定位を与えるという必然があるのかも知れません。叡智は、時代と共に、文化と共に、人々と共に、不断に旋回して行き、その旋回の過程で、「真理の光」を垣間見た人が、旋回の軸への探求心に駆り立てられ、実存的に了解した「真理の軸」を具体的に表現するため、既存の教義、既存の神話枠が、適用されるのだとも言えるでしょう。

  使徒パウロスの「真理の旋回」はドラマティックなものでした。叡智者イエズスは、「父なる異邦の神」を、「愛の神」とは云わなかったはずです。「赦しと救済の神」だと教えたように思えます。パウロスは、アガペー(聖愛)の契約的相互性と均衡を説いたとも言えます。これがパウロスの捉えた真理で、パウロスの真理の旋回は、叡智を把握することと、それを否定する教条の主張という二面性を持っていたと言えます。

  叡智は、パウロスの壮大な先例がそうであるように、真理把握と、真理否定の教条のあいだの緊張にあるものだとも言えます。これを、私たちは、「開示真実(Veritas)」と呼びましたが、現代にあって、何が「開示真実」であるのか、パウロスの叡智把握の「旋回」が、その答えの一つを示唆しているとも言えるでしょう。


/*/ 2002:0615:1112 Marie RA. /*/



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