※一部18禁表現(銀×蛮)があります。御注意ください。

『海を抱いて』 

 
 海? 見た事はないけど波の音は知っている、と銀次が言った。

 そうしてそっと耳を両手で抑えた。

 ほら、こうしていると波の音が聞こえるんだよ。

 昔、誰だったか、銀次が海を見た事がないと言ったら、「だったらこれがそうよ」と教えてくれたのだと。

 それは空気の流れと自分の血液が流れる音とが反響しているだけなのだ。
 蛮にはそう解っていたが、銀次に告げなかった。
 そのかわりに自分の隣に寝転がる銀次の髪に指を絡め、クシャクシャと撫でた。
 そうしてただ一言「行くぞ」と言った。

 見た事がないなら、見に行けばいい。今の銀次にはとても簡単な事だと、蛮は告げているのだ。

 銀次は嬉しくなって起き上がり、今度は蛮の耳を両手で塞いだ。
 とたん、驚いた蛮に拳固で殴られ、銀次は自分のベッドに戻ると、枕に顔を埋めながら酷い酷いと訴え続ける。

 だがふたりはこの日、海には行かなかった。

 もう夜中だったし、おまけにまだ肌寒い時期で、そのうえ外は大雨。
 けれどもちょっとした仕事の都合で、この日は小さいホテルの一室を借りる事ができたのだ。

 めったにない幸運だから、とても此処から出る気にはなれない。

 そしてこのホテルの名はマリーン。

 部屋に飾られた絵画も青。

 だから海の話題になったのだ。

 本末転倒。
 
 ここはマリーン。
 ここは海。
 耳を塞げば波音。
 
 でも波の形ってどんな感じ? 

 そう尋ねる銀次に、窓を伝う滝のような雨水を、蛮は指差して言った。 あんな形のもあるぜ。
 重なり合うように窓の外を流れ落ちる雨水。

 銀次はよく眺めようと、再び窓側の蛮のベッドに移った。
 そうして煙草を吸う蛮の隣に、再び寄り添うように横になった。

 瞳に映る窓の波紋。同じ目の端に飛び込んでくる清潔なシーツの白。
 銀次は自分の思い付きに、ふいにくすくすと笑い出した。

 蛮は一瞬だけ怪訝そうに銀次を見た。
 銀次はわざとシーツに皺を作るように、 指先で遊んでいる。次々と作り出されるシーツの波紋。
 銀次は指先の動きを止めずに言った。

 そういえば砂浜って公園の砂場の砂とは違って白いんだよね? 白くてすべすべでサラサラなんだってね? 
 蛮は黙って煙草の煙りを天井に向かって吐き出した。
 煙りの流れを目で追いながら、銀次は嬉しそうに続けた。 だったらここも同じだね……。

 蛮は溜息をつき、再び銀次の金髪をクシャクシャと荒らした。
 すこし乱暴だが、髪を梳かれる気持ち良さに、銀次はうっとりと言った。

 ねぇ、蛮ちゃんは海は好き?

 蛮はすぐさま「どっちでも」と答えた。

「好きでも嫌いでもないってこと?」
「別に。泳げば気持ちいいし、けど、郷愁を誘うって程じゃない」 

「どういう意味?」
「たいした思い出が無ぇってこった」

 銀次は少し考えてから言った。
「そうだね。好きになる時はもちろん、嫌いになる時にも思い出って必要だもんね。でも泳ぐと気持ちいいんでしょ? だったら俺なんてそれだけで、海を大好きになっちゃうかもしれないね」

 それはただの幻想だ。蛮は思ったが銀次には言わなかった。

 思い出の不在地帯には何も存在しない。

 存在の無いものに対して思いを馳せるとき、不用意な好意は抱かぬが花。

 現実はいつだって裏切りを秘めている。

 これまでにも散々、そんな目にあってきた。
 銀次だって同じだろうに。

 それでも銀次はこんな時、他人の言葉のカケラを拾い集めただけで、幸せそうに笑ってみせる。
 銀次はあの薄汚れたゴミ溜の街の片隅の、さらに腐った歪んだ城の中で、ずっとこうして生きてきたのだ。

 その事はいつも蛮の胸を、少しだけ痛くさせる。
 そしてそんな胸の痛みは、愛おしさに直結している。
 
 蛮は少しだけ「しまった」と思う。
 こんなに簡単に他人に感情を揺さぶられるなんて。

 銀次に出逢うまでの自分にはありえない事だった。
 己のロクでもない運命とやらのせいも手伝って、いつだって他人には慎重に接してきたのに。

 だがそんな戸惑いは、しばらく撫でていた銀次の金髪の柔らかさに、すぐに溶かされ消えてしまった。

 芽吹いてしまった欲望に躊躇するほど、蛮はモラリストではなかった。
 育ててくれた魔女たち、エピキュリアンたちほどではないにしろ。
 欲望に忠実でいる事に抵抗する気持ちなど、そもそも蛮は持ち合わせていないのだ。

 蛮は銀次の髪を撫でていた指を、滑らせるようにそっと移動させた。

 頬から顎を渡り、銀次の唇の上で止まる。
 銀次が驚いたように、眸を見開いている。

 蛮はそのまま、指先で銀次の唇をなぞった。
 見かけどおり、柔らかな手触り。

 銀次はわずかに身を固くさせたまま、ただされるがままになっていた。
 危ういほど優しく触れてくる、蛮の細い指先。

 銀次がそっと眸を閉じた。
「……気持ちいいや」

 銀次が呟いた。蛮は酷薄そうな唇で、うすく笑って低く告げた。
「おまえ、何が好きだって?」

 含みを込めた蛮の言葉に、銀次の躰を、震えるような歓喜が突き抜けた。
 これはめずらしい蛮からの誘いだと、有頂天になる気持ちを、だがかろうじて銀次は抑え込んだ。

 ここはマリーン。

 ここはホテル。

 ぬるい室温、洗い立てのシーツの匂い。

 銀次だってもちろん、その気は十分だった。
 
 ただなんとなく、さっきからずっと、そのタイミングが掴めなかっただけ。

 一体、何が蛮の感性に触れたのだろうか?
 
  海の話? 

 でもさっき蛮は、海にはたいした思い出などないと、言っていたのだ。 なのに何故?
 
 やっぱり蛮には海に附随する何かの思い出でもあるのだろうか? 

 まさか恋の思い出? 

 だとしたら、とても哀しいと銀次は思った。
 
 それでもその哀しみは、この時の銀次の喜びに水を差すほどのものではなかった。
 今まさに蛮が銀次を求めてくれた事実より大切な事なんて、銀次の中には存在しない。

 ともかく、これは蛮が仕掛けてきた駆引きなのだ。

 焦ってしまえばすべてはおしまい。
 プライドの高い蛮の事。
 ちよっとでも気が削がれれば、すぐさま銀次を突き放し、独りでさっさと寝てしまうに違いない。
 いつだってこのつれない相棒を、その気にさせるのは、なかなかどうして大変なのだ。

 銀次はだから、凶暴な衝動が突き上げるのをぐっと堪え、慣れない思考を巡らせる。
 そうして静かに蛮の腕に触れながら、ゆっくりと上半身を起こしにかかった。

「いっしょに泳いだら、もっと気持ちいいよね」
 銀次はじっと蛮の眸を覗き込んで言った。

 蛮は唇の端をあげ、わざと歪んだ微笑みで返した。
「どうかね。やってみなけりゃ、解らねぇな」

「大丈夫。俺、自信あるもん」
「何に? 泳ぎにか?」
「ううん。蛮ちゃんと一緒に、って事にさ」

 だから一緒に泳いでみよう、と銀次は素早く蛮の肩を抱き、そっとその躰をシーツの波に押し倒した。
 そうして蛮の指先に煽られ、わずかに痺れの残る唇で、眸の前の唇を強く塞いだ。

 蛮は眸を閉じ、銀次に無言で許可を与えた。
 口説き文句は合格点。かくして銀次は課題をクリア。
 この瞬間、蛮の唇の所有権は、ただ銀次ひとりのものとなる。

 こうしてホテル・マリーン、ツインルームの片側。
 そのベッドの幅3フィートほどの空間が、この日のふたりの海と化す。

 蛮が指先が施した動きを模写するように、銀次は舌先でその唇をなぞっていく。
 うすい上唇から、柔らかい下唇へ。

 寒い季節でも、荒れる事を知らない綺麗な蛮の唇。 きつい煙草の香り。
 ともに味わうように、銀次は角度を変えながら、なんども唇を弾ませ、音をたてて吸いあげる。

 やがてわずかに開かれた蛮の歯並びの間から、そっと舌先を挿し入れると、銀次は今度はその中を遊び場に決めた。
 上顎から歯茎の間を行き交うように、丹念になぞる。
 その動きを遮るように、触れて来た熱い蛮の舌先。
 そのまま絡め取り、追いあうように貪り尽くす。

 口付けはますます深まり、まるでふたりは飢えた獣のようだった。
 砂漠で飲む水のように。無心で互いの唇を味わい続ける。

 いつもこうだ。
 こうして触れあってしまうと、互いのあまりの空腹に、焦るほど気がついてしまうのだ。
 
 おぞましいほどの飢餓。
 
 自分たちはあまりにも飢えている。
 相手に対して。
 肉体も空腹なら、心の中も空腹なのだ。

 だからそれをいっぱいにしようと、ふたりはいつも抱き合う時、とても真剣だった。

 欠けている部分を埋め尽くそうと、躍起になった。
 躍起になって互いを知り尽くそうとする。

 互いの全てを、その隅々まで。
 どこも残さず、その血の一滴までもを、味わい尽くしてしまおうじゃないかと_____。

 海水浴なら服はいらないな、と蛮は自らシャツのボタンを外し始めた。

 銀次は左手で支えるように蛮の上に覆いかぶさりながら、右手で自分のシャツを剥ぎ取るように脱ぎ捨てる。
 もどかしさに震える左手で、銀次が髪を梳きながら、顔や首筋に唇を押し当ててきた。

 胸で弄ぶ右手の指先は、すぐに下股を探り絡み付いてくる。
 促す動きは加速を増し、蛮の呼吸を荒く乱す。

 肉体の変化に伴い、溢れ出る生理現象。抑えきれない吐息、細くこぼれる呻き声。

「う…ぁ、あっ…」
 そんな蛮の様子を上手に読み取り、銀次は強く握って、まずは軽く解放させる。
 熱が局部で渦を捲き、蛮はもどかしさに身を捩る。下腹部が小刻みに痙攣する。
 まるで吸い込む事を忘れてしまったように、蛮が長すぎる息を吐いた。

「は…、あっ、あ_______!」
 そうしてゆるりと、蛮の全身から力がぬけ落ちていく。
 自分の下で、その肩を大きく揺らしながら呼吸を整える蛮の躰を、銀次はきつく抱き締めた。
 沸点を迎え、粟立つ熱い肌。

 その感触に、耐えられない衝動が体内を巡り、銀次は休む間もなく、その指先を蛮の臀部の狭間にすべり込ませた。
「んッ…、う……」
「…ね、久しぶりだし」
 溢れ出た蛮の熱さを指に絡め、銀次はゆっくりと挿入していく。
 押し広げるように内壁を探り、じりじりと進めていくと、ふいに蛮の躰が縮むように震えた。

 そこを狙うように、銀次は指の角度を代えながら、軽く、深く、変化をつけて抜差しを繰返す。
「ゆっくり…、ね…」
「別に…いい、って、……うっ……あ!」

 機能とは逆の方向に与えられる酷い違和感の狭間から、蛮の中にたまらない疼きのようなものが込み上げてくる。
 抑えきれず溢れる甘い悲鳴。銀次は指を増やし、さらに内側を蹂躙し始めた。

「もうちょっと…、ね、蛮ちゃんの中、熱い。指溶けそう…」
「ば…何、言って銀……、ハッ、あ、…うっ、…あ、あッ」
 ポイントを探られ、思わず蛮の声があがった。絶え間ない強い刺激に、やがて蛮の意識は朦朧としてくる。

 快感を伝える己自身と切り離されたように、蛮の躰から力が抜けおちる。
 そのタイミングを見逃さず、銀次は凶暴な肉体をそれでも極力抑えながら、そこにあてがい一気に押し入った。
「ああっ! 銀___________!」
「くっ、う…あ、蛮ちゃ…ん__!」

 熱く隙間なく満たされ、蛮は息もできない。
 指先などとは違う圧倒的な存在感。直接伝わる銀次の脈動に、恥ずかしさと切なさが入り乱れる。

 銀次もきつく包み込まれる喜びと刹那さに、声もだせず呼吸を乱す。
 
 傷つけるほどきつく握りあった手と手。荒すぎる呼吸。
 快感が沸点を迎えた時、繋がったところから溢れ出る熱。解放に解き放たれた熱。

 その名残りは、愛撫にひりつく肌の痛みとともに、蛮の記憶の奥底の、夏の海に焼けた肌を連想させた。

 そうだ、今、自分たちが存在する此処は、確かに海に酷似している。
 熱くて、緩やかで、溺れそうな海…。

 ここはホテルマリーン。
 ここは海。
 
 海でなくても、俺たちはいつも溺れている。
 互いに対して。
 出逢ってからずっと。
 
 ただ欲望のまま突き進む事の危うさを、ただ愚鈍なまでに受け入れている。
 嘲笑するがいい。
 それが愚かだと。
 とんだ怠惰だと。

 そんな誰の嘲りも、俺達は否定などしない。
 俺達ふたりが、出逢ってしまったことそれ事体が道化なのだ。
 
 ああ、そうさ。俺達は十分、その事を知り尽くしている。
 
 蛮の瞳に宿る、銀次の瞳。
 その金色に滲む、乱れたシーツの幾重もの波紋。


 それは、確かにふたりが解け合えたひとつの証拠などではなく、ただこの欲望という名の海に溺れた、ふたりの愚者の烙印なのだと。
 
 
 蛮の熱い躰の奥深く、弛んだ自身を抜く事もなく、銀次は蛮の唇を求め接吻する。
 流された汗に伴う塩気を帯びた唇。溢れでた唾液に、蛮もまた夢中で喉をならしている。

 海水は決して喉の渇きを癒してはくれない。
 この唇もまた。求めれば求めるほど、その飢餓は強く、互いを酷く蝕んでゆく。


 満たされる事はなく。与えあう口付けもまた、 尽きる事もなく__________。

「きっと、好きになると思うよ」
 何日も飢えた後のように、夢中で咀嚼していた食事を、一旦止める、そんな調子で銀次が言った。
 蛮は再び始まりかけた愛撫の手を止められ、すこし不満そうに眸を細めて尋ねた。

「何が?」
「海」
 蛮はわざとらしく溜息をついて、意地悪く答えた。
「行かなきゃ、解かんねぇだろ?」
 銀次は意に介さず、にこやかに答えた。
「確信できるよ。だって蛮ちゃんと一緒に行くんだもん。俺は好きになるに決まってる」

 そう言って銀次は、蛮のすぐ目の前で、静かに自分の両耳を塞いだ。

 ざわざわと激しく響く波の音。
 さっきやった時より、その波音は荒々しい。どうしてかな? 

 もちろんそれは、蛮と抱き合ったからに他ならない。
 蛮の起こした銀次の嵐。
 天気予報ではいつもなんて言ってたっけ?
 
 そうだ低気圧。
 俺たちは今、低気圧の海岸にいる。
 よく解らない天気図の、たぶんぐるぐると描かれた円の中心にいるのだ。

 銀次はふと、やっぱりこの海も好きだなぁと思った。
 銀次の掌の中の波の音。
 蛮が運んできた低気圧。
 もっともっと好きになったと、銀次は、はにかむような笑顔を、腕の中の蛮に向けた。

 そんな銀次の様子を見て、蛮はこのままにはしたくないと思うのだった。
 銀次をこんな風に、耳を塞ぎながらただ優しく微笑む、そんな男にはしておきたくはなかった。

 ここは無限城の中ではない。
 行こうと思えば、何処へだって行ける。

 そりゃまぁ、銀次は方向音痴なので、蛮のような優秀なナビゲーターが必要不可欠かもしれないけれど……。

 蛮は決心する。

 明日は海へ行こう。

 本物の波を見て、本物の潮騒を聞こう。

 そうすれば耳を塞がなくても、銀次の中に海を存在させる事ができる。
 こんな銀次の姿に、胸を痛めることも無くなるだろう。

 本当の海は、銀次の血液が聞かせてくれるような、そんな優しいノイズだけを聞かせてくれるわけじゃない。
 もっと広くて大きくて、いろいろな側面を持っているのだ。
 
 優しい顔も残酷な顔も、大いなる自然というヤツは、いとも簡単に見せつけてくれる。

 微笑みだけではない別の何かをも、銀次にきちんと与えてくれるはずだから……。


 それに、そうやって互いの思い出の中に海を刻み込めば、やがてそれは郷愁ともなるだろう。
 
 そうしてきっと、蛮も海を好きと言えるようになる。
 
 だから、海へ行こう。思い出を作りに。
 
 ふたりの記憶の中に、ふたりの海を、ふたりの中に刻み込ませに行こう。
 海へ行くんだ。
 明日。
 
 この汚れた街から飛び出して。
 広い大きな海を見に行こう。
 
 どこまでも。ふたり一緒に_______、
 
 だが、この後、奪還には成功したものの、いつもの通り金運はなく、『てんとう虫』のガソリン代をケチった蛮によって、とても泳ぐ事などできそうもない、晴海埠頭の船着き場で、とりあえず誤魔化された銀次である。

 それでも初めて見た海の話を、HONKY TONKのカウンター席で、無邪気に喜こび語る銀次の姿に、ふと胸を痛くさせた波児であった。

 嗚呼、合掌。  

■20040410・改訂版脱稿■
<あとがき> /最後までロマンチックにいかない二人が、らしいような気がします(笑)。