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安政5年(1858年)8月23日雲州松江藩の藩主の家に生まれる。
明治2年藩廟に於いてフランス人を招き仏蘭西語、学校を開設しそこで学ぶ。
明治3年13歳の時東京に出る。
明治4年大學南校に入学。天才と崇め賞される。
明治8年文部省本校の優秀なる数名を選抜して海外留学を命じられる。
明治9年フランスの巴里工業中央専門学校に入学、3年で優秀なる成績で卒業し、
Ingenieur des Arts et Manutactures, Specialite de Canstructeur の学位を受ける。さらに2年余り巴里
において建築業を勉強し又煉瓦及びその他建築用土器の製造技術を研究し、
明治14年帰国する。
明治15年1月郵便汽船三菱会社に招かれて、2年間に大阪及び函館に於ける日本郵船(株)
の支店及び倉庫、橋梁等を建築する。
明治18年4月、文部省書記官に任命される。さらに文部技師に任命。そして東京帝国大学の
工科及び理科科学教室の造営を命じられ、建築する。
其の後流行性感冒に罹り、体調を崩し医師のすすめで静養する。
明治25年2月、非職を命じられる。慢性肺患となり全治の望みなきを悟る。碌々として余命を
送ることを欲せず。
明治27年の頃憤然意を決し、再び起きて技術の為に邁進する。
其の頃大阪に桑原工業事務所が興り、技術者を集めて工業会社の顧問となり、其の技術の改良進歩
をはかり、且つ技術者独立の興起きがあると聞くと君はその主意を賛して建築部を
興しその間実に五星霜君病躯をいとはず働き続け、兵庫県庁をはじめとし、銀行諸会社の
本支店及び諸種の製造所等、設計管理する所の数、多数あり、近来阪神地方に於いて
非常に素晴らしい建造物を見る機会があれば、君が(半六)その模範を作ったといっても過言
ではありません。
明治24年8月、工学博士の学位を授けられる。
明治28年3月、従五位に任ぜられる。
明治30年、大阪市街設計をする。
明治33年、長崎市街設計のため、夫人と共に長崎に出張。
明治33年8月23日没す。・・・享年43歳。
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山口半六の最大の功績は、経済を主とする建築にあって壮厳なる装飾に富む物に
おいては、最高の技両をもってあたり意匠も凝ったものを建築した。
又質素なる建築にあっても尚高尚優雅な、大いに趣味にとみ其の現場にあっても、
出来るだけその用材の特徴を巧みに使い後世に残る建造物を作り其の評価を高い
ものにした。
君は又文学の書を受読し、哲学はもとより美術に関する諸論を発表して高く評価
されている。重患の身を以って実務に励めども天が若くして其の才能を召された
ことは、豈に悲しいことである。
沖野忠雄 識
明治の建築家ののこしたもの 監修
![]() ![]() ![]() 山口半六博士建築図集 ![]() |