古谷三代吉の略歴



明治元年7月17日・京都府下丹波国北桑田郡平屋村字内久保の豪農にに生まれる。明治15年・平屋村濟美小学校を首席で卒業し神童と呼ばれるが、代々続いた農家が没落し、又火災にも遭い、京都市上京区に移住する。
明治16年4月・京都市の著名な建築家に師事し、苦学の後
明治25年4月・京都市営繕課の技師となり建築業竝に建築設計および管理に従事し、以後京都市営繕課で辣腕を奮い数々の建築の設計に立ち会っていくことになる。
明治34年10月3日・京都市道路擴築の為、京都市消防組蒸気喞筒機関手に京都市の各警察署より依頼され消火栓の設計にかかわる。
明治43年1月15日・京都市道路擴築部に勤務。同年5月用地課に移籍。
明治44年4月18日・京都市建築技師に任命される。
明治45年4月27日・京都市臨時事業竣工電車開通式設備部事務員を当時の京都市長川上親晴より任命される。

京都市臨時事業竣工電車開通式係員、事務員事務分擔

市電開通記念
この頃花電車は人を乗せる車と装飾だけの花電車の二通りあった。運転台は吹きさらしで
前方にはフロントガラスがなかった。
手動式のブレーキを使っていた。縞のきものに
各帯しめて見ているデッキの姿がほほえましい
 
     大正初期の四条御旅町付近。
      
 大正元年9月5日・京都市道路擴築部廃止と同時に退職する。
  大正元年9月・  古谷工務所を設立す。



 以後建築家武田五一に依頼され、播州御嶽山、清水寺の本坊及び表門の設計図を描く。
京都寺町の浄土宗、法然寺を時の住職中瀬良道に依頼され本堂を新築す。昭和に入ってから嵯峨天竜寺町に移転。

浄土宗・法然寺(イラスト画)
 浄土宗寺院法然寺は、もと錦小路東洞
院にあったが、1591年に寺町仏光寺に
移り、さらに1964年に現在の地。
京都市右京区嵯峨天竜寺立石町1番地
へ再転した。
 

 京都寺町の浄土宗、春長寺の依頼され、庫裏を新築す。
京都市道路擴築電気軌道敷設事業(市電開通)のため春長寺は敷地を提供す。京都四条寺町(四条路りに面して)の角に春長寺借家を二軒建築する。その他数々の寺院の建築をする。
  大正五年9月29日没す。//・・・享年49歳

  
左図は春長寺本堂その左側が庫裏。
上の図面は区画整理後の春長寺の敷地。



ホームページ(明治の建築家ののこしたもの) の資料の多くは古谷三代吉が、当時京都の著名な建築家の書生となり勉強した教材及び教科書等その他、貴重な資料を残し、又独立してから手がけた建築物とその設計図面が元になっています。まだまだ未発表の写真、設計図面等多く残っています。時間がかかると思いますが、準じ発表していきたいと思います。                         
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