生祥尋常小学校



・古谷三代吉設計図面・


はじめに
 古谷三代吉は京都市営繕課で学校の設計にも多数係わっています。此処では生祥尋常小学校と初音尋常小学校、二校に絞って公開したく思います。どちらもごく最近まで、京都の街の真中にあった小学校です。京都の街もビル街(マンション等)とガレージ等が乱立し、町屋の風情は姿を消しつつあります。それと郊外に生活の場を移すと共に少子化の影響も多分にあるかと思います。このような訳で相次いで閉校になっていったのです,閉校を記念して設計図面の一部を公開します。


生祥尋常小学校正門・イラスト


「注」立面図、平面図等現場に出ていた為保存状態が悪く見ずらいと思いますがお許しください。
そんなことで平面図は公開しません。
明治43年(1910)第二期工事南部教室(約92坪2階建)落成す。
明治42年9月13日地鎮祭、42年11月28日上棟式。


本校旧校舎


幼稚園旧園舎
大正3年(1914)第四期工事として
幼稚園舎其の外残工事落成す。
10月一日・附設生祥幼稚園を再興
し始業式を挙行す。

 生祥通学区域内の町々の話。
(注)当時の小雑誌の文章から抜粋して掲載さして頂きます。京都の当時の時代(明治の終わりから大正にかけて)背景をこの中に圧縮されて語られています。また次々と閉校された京都の真中の名門小学校の歴史(初音尋常小学校等)を古谷三代吉の描いた設計図面と資料群より一部ですがホームページ上にて見て戴きたいと思います。管理人

 このお話は生祥創立80周年当時に故田中緑紅先生から生祥クラブの催しで聞いた記憶があったので先日先生の御長男の田中泰彦先生から昭和24年発行された「町々の話」の中から、生祥通学区域に関係のある部分のコピーをいただきましたので、これを写させて戴いたものです。
榎木町(寺町二条下がる東側)
昔市役所の北をヘッツイの辻子と云い、この妙満寺には京の七名水、中河の水があり、紀州道成寺の鐘が寄付されて今も此処にある。(「注」妙満寺は現在京都岩倉の幡枝に移転しています。)
下本能寺前町(寺町御池上がる)
今の市役所は昔、本能寺の除地に植物園があってそこえ建てられた。
明智光秀が焼き討ちして信長を殺したのは油小路蛸薬師辺にあった頃、
それからここへ引越した。
天性寺前町(寺町三条下がる)
天性寺には中条姫の木像があり、原在中、横山清輝等画家の墓がある。
御幸町(御幸町姉小路上る下る)
秀吉が桃山城から御所への通い路で御幸町の名が出来た。この町の地蔵像は淀君よりもらったと云う。
南白山町(麩屋町姉小路上る下る)
昔麩屋町は白山通と言っていた。
松長町(富小路姉小路上る下る)
松下町には画家中島來章、福長町には儒者神山鳳陽が住んでいた。
御池町(御池通富小路)
御池校は明治二年五月に出来た。日本最初の小学校であり、我国小学校
教育史上著名な事蹟で、この年市内で六十四校できたのである。
仲之町(三条富小路東西入)
元禄頃の地図いは瀬戸物問屋とあり、慶長の頃有來新兵衛と云う陶工がおって新兵衛焼は珍品とせられている。
弁慶石町(三条御幸町東西入)
北側には京極寺と云う一町四方の大寺があり、境内には赤八幡宮があった。弁慶遺愛石と云う石は元協和銀行(現在駐車場)の東に建ち奥州から来たとか、種々の伝説が伝わって京都の名物石の一つである。
大黒町(六角富小路東西入)
大黒天の画像が町内に伝わっている処から町名ができた。
八百屋町(六角御幸町東西入)
法衣商「藤源」加藤源兵衛氏は明治の水彩画家として著名な人である。
蛸薬師(蛸薬師寺町西入)
新京極蛸薬師堂の前の町で沢(タク)薬師とて池の中にあった石のことである。
次回は初音尋常小学校を掲載します。管理人

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