建築家・伊東忠太の世界観
日本画家・伊藤忠太



美の美 伊東忠太筆の美人画


紙、105×59センチ、明治17年(1884年)、東京大学工学部建築学科蔵


伊東忠太
 [伊東忠太 略歴]
 1867年(慶応3年)、山形県米沢市の名医の家系に生まれた。
現在の東大工学部建築学科を1892年に卒業。
当時、「造家学」と呼ばれていた呼称を、「建築学」に変更する。
平安神宮や明治神宮といった国家規模のプロジェクトを手がけて
芸術院会員となり、1943年には建築界から初めての文化勲章受賞者となった。1954年(昭和29年)没、享年86歳。

 
 平成15年7月始めに山形県の方から伊東忠太のことを質問されました。
実家のお母さんから、伊藤忠太に関する情報を集めるように依頼されて、調査しているが、なかなか良い情報が集まらない、何か解っていることがあったら教えてほしいと言うメールを頂きました。
特に伊藤忠太は建築家としても、画家としても有名で、画家としての作品は何処に
いけば拝見できますか・・といった質問でした。
そのご婦人(お母様)は米沢市在住の旧家の方で、伊東忠太は米沢市では以前より建築家のみならず画家としても有名だったようです。
管理人はこの美人画を平成15年9月26日、「建築家・伊藤忠太」の世界展が大阪難波のKPOキリンプラザ大阪で開催され、その会場で拝見しました。
 明治17年伊藤忠太17歳のときの作品です。しかし「潜龍」という署名の作品は絵画一点のみでした。
日本画家伊藤忠太「潜龍」という署名の他の作品は、何処にいったのでしょうか・・・。
米沢市のお母様見ていただいたでしょうか。・・・・

管理人所見
 建築家で画家でイラストレータで文筆家で、多才な才能を持った人物は、この時代多く輩出しています。このコーナーも実は建築家武田五一の「成田町梅屋にて」という一枚のスケッチのなかに登場する当代の日本を代表する建築家が6人描かれています。その中から伊藤忠太をトップバッターとして指名し、管理人はその人物像に迫ってみたいと思います。余談ですが、我が祖父、古谷三代吉も設計図面のみならず、数々のイラスト、絵コンテ等、残したようですが、今はその行方は不明です。京都祇園の古谷三代吉設計のカフェー「御旅カフェー」(設計図面は公開予定です。)の写真と共に現在調査中です。

 武田五一横顔のスケッチから、成田町梅屋の座敷で車座になり、議論に華を咲かしている面々の中から伊藤忠太をトップバッターに指名したのは他でもなく、長篇になりましたが古谷三代吉の曾孫のH・F氏の論文、大谷探検隊の業績をHPにて公開していること、
又西本願寺法主、大谷光瑞とその婦人大谷籌子(おおたに かずこ)が婦人の地位向上の為、明治43年私立京都高等女学校(京女)を開校し、校舎の図面を古谷三代吉が
設計していること、そして伊藤忠太が独力でアジア横断旅行の途中で、中国の貴州から雲南に入るあたりで、大谷光瑞探検隊の一部と出逢ったのが縁で、伊東忠太が帰国したその次の年に、西本願寺を訪ねています。その時に光瑞は中国の大連に予定していた大連別院の設計を、伊藤忠太に依頼し、1907年に計画されましたが、実現しませんでした。

西本願寺大連別院 計画図(東京大学建築学科蔵)

そして又昭和(1934年)に入ってからは、東京、筑地西本願寺別院の設計を依頼し建築しています。

東京築地・西本願寺別院(1934年)

 終わりに伊藤忠太は施主、大谷光瑞から多くの建築を依頼されましたが、檀家等の説得が不調に終わり計画だけで、見送られた建物も多数あったようです。
又築地西本願寺別院の設計も始めは、もっとエキゾチックな設計だったのですが、相当に手直しされて今の別院が出来たようです。・・・・・ 2003/10/27 管理人記す
      

築地西本願寺別院・竣工当時

[注記]
日本経済新聞・忠太が行く  近代建築の夜明け
王国社・伊藤忠太を知っていますか
集英社文庫・異都発掘
H・F氏・シルクロードにおける大谷探検隊の業績について

次回は建築設計図面、建築写真や風刺漫画、妖怪の世界を掲載予定です。管理人