中央アジア発掘のミイラに就いて 関東廟博物館蔵版
京都帝国大学教授医学博士・清野謙次著



京都帝国大学教授医学博士・清野謙次1885〜1955
明治18年8月14日静岡県沼津町に生まれる。
病理学の分野でも生体染色の研究によって、
大正11年1月帝国学士院賞を受賞。

京都大学自然人類学研究所清野コレクション
自然人類学研究室が現在管理している縄文人骨標本は、京都帝国大学
清野謙次教授(1885ー1955)により収集されたもので、清野コレクションと呼ばれています。
 縄文人時代の人骨資料としては標本数が多く、また保存状態が良いため、
縄文時代を代表する非常に貴重なコレクションとして知られています

はじめに
この論文は昭和4年に発表されたもので、「大谷光瑞の業績・第四章」
(トルファン出土のミイラに就いて)の続編として連載します。
2004・2・5   管理人
大谷氏及び橘氏等将来の中央亜細亜発掘ミイラに就いて
緒 言
 永い間大谷家から関東廟博物館に寄託せられて居つた中央亜細亜発見のミイラ10体は博物館が昭和4年に買い受けることとなった。
そしてミイラの副葬せられたる土偶土器の類を初めとし、中央亜細亜発掘品の大部分は同時に大谷家から博物館に寄付される事となった。それに就いては大谷光瑞氏の宏量と篤志とを特筆せねばならぬが、此美擧によって大谷光瑞氏等将来の中央亜細亜発見遺物の大部分は名実共に関東廟博物館の所有に帰した訳である。
 私の知る限りに於いて大谷氏将来ミイラは旅順博物館に10体と朝鮮京城博物館に2体ある。この中で旅順蔵品中の1体は小児のミイラであるのを除けば、合計11体は成人のミイラであって人類学的計測の好材料である。それで両3年来私は此のミイラの研究を行いたいと希望していたのであったが、丁度此の移管時機に精細なる研究を行い得るの幸運を得た。
 是には関東廟内務部長神田純一氏、学務課長藤田員治郎氏、同御影池辰雄氏、
博物館の諸氏(内藤寛、森脩、古賀恒一郎、今野金三郎等)好意ある了解と援助の下に、医学士金高寛次氏と私とが研究を遂行したのであった。
そしてこの移管事業の記念の一端として博物館見学の入場者のためミイラに関する通俗的の小編一つを草しくれよと依頼された。それで私(余)は本編を草することとした。
これはもとより興味を主として平易に記述したものであるから、専門家には分かりきった部分があるに相違ないが、他の部分は私等研究の結果によって記述したのであるから、たとえ平易であっても、未だ何れの書籍にも記してない条項がある。
 大谷氏等将来品の一部は朝鮮京城に於ける総督府博物館のも分置されている。
それで私は金高君を同地に送り、藤田亮策氏等の許可の下にミイラ2体を測量した。
その結果は本編の参考に供したことは勿論である。
それで私は本編を記述するに際し、先ず上記諸氏の好意に対して感謝の意を表し度いと思う。
 尚本書を記述するに際し、史的方面及び文化的方面については京都帝国大学教授
羽田享君の教そわったところが多い。同氏は人も知る如く中央亜細亜に関する専門学者中の権威である。然し万一本書中に此方面の記述の誤りがあるとすれば、それは羽田君の罪で無い、私の不学の致すところである。

関東廟博物館版 昭和5年4月10日発行

第一章 西域諸国特に高昌国に就いて

トルファン東南方にあるホッチョ(高昌故城、イディクト・シャーリ)・・西南から見た遺跡
大谷光瑞の業績・第2章 参照してください。
 広漠たるアジア大陸の中央部は古い時代から欧亜文明圏の交通路であった。
ここで希臘羅馬の文化は漢唐の文化と接触し、インド波斯の文化は漢唐に交通した。
近世海運の便が旺んとなるまではこの地は古代文明国の主要なる交通路であったし、又物資の主要なる交換地でもあった。
それで中央アジアにはそれ自身に消化せられ、独特の文化が存在した事実を除外しても、中央アジアは諸文明国の交通路として栄えねばならなかった。
 万里の長城が延々西に延びて漠々たる甘粛の荒野に終わる所、そこに陽關と玉門關とがある。更に四方、砂漠と荒野との限りなく連なる地に西域36箇国が横たわって居る。
これ等の諸国時に荒廃あって50余国ともなったが、これ多くは交通路に沿いて比較的豪腴なる地に聚落せる村落を引きくるめて、其の支配下に置き、ここに城郭を構えて国を成した。
 此古道中の有名なるものは天山南路と天山北路とである。そしてミイラの曾て生活せる高昌国は天山南路に沿へる一区域たるに過ぎない。即ち今日の新疆省トルファン周辺一帯の地であって、和卓は唐音高昌(Chocho)に他ならない。「ホッチヨ・高昌故城」
 それで支那では古くから西域地方に植民地を造って、地方地方の人民を治めようとしたが、これだけでは充分だは無かった。
其の多数の植民地の一つは高昌であるし、外来者の尤もなるものは胡人匈奴であった。
そのような次第で漢時代以降絶えず西域地方に支那内地から軍隊を派遣して辺境の守備にあたらなければ安全は保たれなかった。またこれが支那帝国保全の策でもあった。万里の長城はこの必要に応じて築かれたものである。
中略
トルファンにはホッチョ(高昌故城、カラ・ホージャ)とヤールホト(高河故城)の二つの都市遺跡、トヨク、センギム・アギス、ペゼクリク、ムルトゥクなどの石窟寺院、アスターナ古墳などの遺跡がある。
トルファン盆地の東寄りにある高昌故城(ホッチョ)はカラ・ホージャとかイディクート・シャーリとも呼ばれ、古代高昌国以来ウイグル時代まで続いたオアシス国家の一大都市遺跡である。

 高昌国は漢の武帝の時代に高昌壁と名けられた支那植民地の一つであって、城郭が置かれてこの付近の住民を統治したもので、北魏の時代西暦5世紀統治者が王を名乗って高昌国を成し、唐の太宗の時代に唐に滅ぼされた。
このミイラは高昌植民地の墓地から掘り出されたものであるのは第二章に記述する如くである。即ちミイラの発掘された喀喇和卓は Kara-Kodja と読み、和卓(コーヂャー)は唐音高昌(ホーチョー)の轉訛である。
そして体質から言っても大体に支那人のミイラであって、統治者の死屍である。旅順博物館所蔵延和九年の墓誌の麹族は王族である。
ただし麹族は当初から高昌国の王ではない、中途から支那より入って王族となったものだと云う。
その他のミイラ必ずしも王族ではないが、相当身分の高い人々の死屍だとおもわれる。
ただこれ等のミイラの中で武人も文官もあったであろうが、上記唐詩の解釈に基き直ちに之を遠征の人と解してはならない。むしろ彼らの多数は支那よりの移住者であって、高昌国に定住していったものである。
それはミイラのなかに多数の婦人を見出すことによりてもわかるし、又後述スタイン氏発掘記事の示すが如く、如何にも落ち着いた余裕のある生活を彼らがこの地に営んでいたことが、ミイラと共に発見された副葬品によって察知しえるからである。
尚高昌国の歴史及び風俗等の文献については、橘氏が人類学雑誌第30巻に「古代トルファンの人種」中に記述されているから、志ある諸氏は之を参照してほしい。

第二章 関東廟博物館収蔵ミイラの由来
 中央アジアが古代に於いて欧亜文明圏の交通路であったために、多数の探検隊が各国から派遣せられた。殊に土地が乾燥し、千年の長きに亘って布片だとか紙片等の有機質が保存されていた為に、他の地方では到底手に入れることが出来ない研究材料がこの地に於いて蒐集されるのである。
 其の中の主要なる者としてはイギリスのスタイン氏、フランスのぺリオ氏、ドイツのグリューンウェールデル及ルコック氏、イタリヤのスゥエン、へヂン氏がある。
是に対して我国には大谷光瑞、橘 瑞超、野村栄三郎、吉川小五郎等の諸氏がある。
 この中で大谷氏等の中央アジア探究は三回に亘って行われた。第一回は明治35年から37年に亘ったもので、第二回の旅行は明治41年より明治42年に亘り、第三回旅行は明治43年から大正3年に亘るものである。
三回共にトルファンを経過してこの付近を発掘しているが、旅行記の一部は橘 瑞超氏によって人類学雑誌第三十巻第五号及び第六号(大正4年発行)報告されている。

{私(橘 氏)は第一回の旅行には、同伴した野村氏と高昌国の城跡えお調べたが、不幸にして墳墓は発見しませんでした。しかし唯墳墓の在った場所を見て、この辺には何か無ければならないと直感的に想像しました。しかしインドで野村氏と別れ、野村氏は日本に帰国し、私は大陸を漫遊して再びシベリヤからトルファンに到着して、このカラホジャの城跡の調査にかかりました。さて城の門は北に面しています、其の門を出て今畑になっている所を過ぎると、礫石の地帯になって、その所は火山の麓になります。
言葉を変えて言えば、火山と高昌国の城跡の間が畑で、火山の麓一帯が石地で、石地と畑との境の所に、土地が少し高くなっている所があります。之が墳墓です。試みに是を発掘したが何もでないので、ふちを掘って見た所が堅い。然し南の方は比較的掘り易いので、段々と掘り下げたところ、一丈(3メータ強)余りで墓の入り口に達しました。
そこから墳墓の中に入ると、完全なミイラあり、動物あり、その他の器物あり、すこぶる重大な発見物と思いまして、その概況と又エジプトで見聞きしたミイラに就いて抱ける考とを述べ、是非日本に持って帰りたいと云う希望を添えて、前法主(大谷光瑞)の下に書面を出して、一時この地を離れました。それから、砂漠を越え、山や野を渡って、丁度カシュガルで、承諾との御書面を頂き、再びトルファンに戻りましたが、このときは革命戦争の最中でしたが、前法主の御好意で、吉川君が、荷物その他万端の助力の為に来てくれたので、比較的短時日にてトルファン墳墓の発掘を終了し、十数箇のミイラとその他の器物を集めたのです。墳墓の場所は二箇所にあり、約十清里位隔て、その西の方にあるのは、支那人の墳墓と思われます。
此処から出たものには古文書があって、それに唐の年号の開元等の文字が描いてあって、之と同時に靴だの鏡等が出ました。
東の方にある墓からは風変りの絵やら或いは墓標等が出ました。この墓標には延昌或いは延壽等の年号が描いてあります。
中略
 東部墓地から橘氏は高昌国年号のある比較的古き時代のミイラを発掘し、西部墓地からは初唐の年号のある比較的新しい時代のミイラを発掘した為、両墓地に於ける人種は或いは異なっていないかと疑っていました。今日では整理の不完全であったため、どの墓誌が、どのミイラに属してあったものか分からなくなってしまった。然し後で述べるが、我々の測定の結果は、どのミイラも大体に於いて似かよった体質のものであって、共に支那人型である。
唐の太祖の貞観14年に、太祖が侯君集を交河道行軍大総官として高昌国を亡ぼしたと云う事実は、単に政治の変動たるに止まり、人種は漢以来恐らく支那人が引き継いで唐時代までこの地に主権を握っていたものと思われる。
 旅順博物館に於いてミイラの付属品として第一に注意を惹くのは土偶である。
支那内地の唐代土器が焼き物(陶器、土器)あるに反し、之は竹片を中心として綿に粘土を交えたもので大体の形を造って、之に先ず白色の胡粉を塗り、其の上面を更に彩色したものである。
 男桶には文官があるし、鎧を着た武官がある。女桶は比較的完全なものは少ないが、姿勢よく且つ顔面も非常に巧みに造られている。又男女桶の騎馬してるものもある。
いずれも当代この地方に於ける風俗を窺うのに絶好の資料である。
 土偶と一見よく似ているが彩色された木偶がある。支那内地にも唐代にこの種の木偶があったかも知れないが腐朽してしまっている。ひとり中央アジアのの乾燥は木偶をして今日まで保存せしめたのである。その他スタイン氏は枯草を心とし絹をまとう人形を出土する由を報じているが、之は大谷氏将来品には無い。


高昌国古墳より発掘された彩色土器

 次に彩色土器である。粗末な素焼き土器であるが黒く塗った地に白線が施され、且つ白色の円が並べられて一種独特の模様を現している。又赤色絵具も使用されている。
支那内地の唐代彩色土器と、よほど意匠の異なったところがある。しかしこの紋様をミイラの顔覆ひの錦裂れに織りだされたるササニアン式の紋様(スタイン氏極央アジア中のアスターナ墓地発掘の古裂れの図参照)
 ミイラは陳列室の狭いいために10体中の大人三人(第7号、第8号及び第9号)小児一人しか普通縦覧者の見学に供し得られない。後述スタイン氏発掘記録にあるような元のままの状態は遠路を運搬してきた為に見られないが、それでも衣服を着けたままのミイラが少なくない。
つづく

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